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『幸せになる勇気』を読んで(内容薄め)

こんにちは。先日、『嫌われる勇気』の引用と感想記事を書きました。あれからすぐ、本編の続編である『幸せになる勇気』を読み終えたので、その感想を書いていこうと思います。

なんですが、正直内容薄めですw
というのも、本当に正直な話で申し訳ないのですが、『嫌われる勇気』が良過ぎたせいか、それ以上の感動と発見は得られませんでした。。。

めちゃくちゃネタバレですので、もしこれから『幸せになる勇気』を読もうと考えている方はスキップしていただきたいのですが、簡単にあらすじをお伝えするとこうです。

主人公の青年は、『嫌われる勇気』内で哲学者と対話して以降、大学図書館の仕事を辞め、中学校教員になります。そこでアドラー心理学を用いて生徒と向き合っていたのですが、教室は荒れ、うまくいかないことだらけ。
そこで、アドラー心理学の実践の難しさを現場体験とともに哲学者に伝え、論破すべく3年越しにもう一度書斎を訪れるというストーリー。

そこで語られる内容の前半は、アドラーの教育論です。全く興味のない分野かと言われれば全然そんなことはないのですが、かと言ってめちゃくちゃ興味のある分野かと言われるとそうでもなかったので、前半の内容にあんまり関心が持てなかったのが、感想が薄い理由です(ごめんなさい涙)
自分が子育てとかしていれば、もう少し興味が持てたかも。逆に言うと、子育てする時期が来たら再度アドラーを学び直そうとは思いました。

また前置きが長くなってしまいました(汗)
ではここから、そんな中ではありますが、学べる部分はもちろんありましたので、いつも通り引用と感想を綴っていきます。

あらゆる対人関係の土台は尊敬からはじまる

すべての問題は対人関係であると説くアドラーですが、その対人関係を築くための土台が他者への「尊敬」だと言います。

そして、尊敬の具体的な第一歩は『他者に関心を寄せる』こと。たとえ自分とは境遇が異なる人であっても、

他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること

『幸せになる勇気』 岸見一郎 古賀史健 著 P.52

を通じて、つまり『共感』によって他者に関心を寄せることが、尊敬につながると言います。

これはとても納得する内容だと思ったんです。他者のことは、知れば知るほど「尊敬」できるようになる気がします。

薄っぺらい関係の人ほど、恨めしくなるような部分とか嫌いな部分、苦手な部分に目がいってしまいます。

でも、例えばよく知る友人は「尊敬」できることってありませんか?それは、確かに嫌な部分は多少あるかもしれないけど、それ以上に素敵な所や苦労を乗り越えてきた経験があることを知っているから、「尊敬」できます。

こんな経験もありました。職場で苦手な人がいて、どうもこの人好きになれないなって思っていた人も、過去の苦しい経験や幼少期の経験なんかを聞いていると、「そんなこともあったんだ。すごいな。」と思えてきて、「尊敬」できるようになります。(苦手が解消する訳ではないですけどね…)

で、よく知るためには、相手に「関心を寄せる」必要があるし、関心を寄せて尊敬できるようになると、どんな人でも多少なりとも関係性は前に進む気がして、『あらゆる対人関係の土台は尊敬からはじまる』という教えはとても納得できるし腑に落ちたし、上記のような私の考えが整理された考えでもありました。

アドラー教育では『褒めてはいけない』

教育論はあんまり関心が持てなかったと先述したのですが、これはとても興味深かったです。アドラーが『褒めてはいけない』という理由は、褒めることで競争環境を生むから。

例えば子供の頃の部活とか思い浮かべると、同級生がやたらと顧問の先生に褒められていたら、ちょっとムッとしてしまっていたし、自分も褒められたい、あの子よりも褒められたいと躍起になっていた覚えがあります。私が中学生の頃バスケをしていたのですが、本来チームで団結しないといけないはずが、特定の誰かがやたらと褒められることで、チーム内に競争環境を生んでしまいます。

また、『褒められる』ことがスタンダードになってくると、他者から褒められないと自分を認めることができなくなってしまいます。他者依存した自分が出来上がることになるんですね。

よく子育てで「叱ってはいけない」と聞きますが、「褒めてはいけない」は初耳だな〜と思いつつ、褒めもしない叱りもしない教育ってめっちゃムズって思いました。

承認欲求は他者の人生を生きることになる

先ほどの『褒める』話と関連します。他者の承認を欲し、他者から承認されることでしか自分を認めることができないのは、「他者の人生を生きる」ことになってしまいます。

他者が欲しがること、他者が喜ぶことが自分の行動の基準になってしまっては、自分の意思や気持ちを尊重できなくなってしまうからですよね。

「わたし」の価値を、自らが決定することを「自立」と呼びます。

『幸せになる勇気』 岸見一郎 古賀史健 著 P.152

とあるように、わたしたちは「自立」しなければならないとアドラーは言います。人から認められて初めて「自分には価値がある」と思うのではなく、『自分の価値は自分で決める』ということが大切です。

またアドラーは、『普通であることの勇気』が必要だと言っています。
「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くことが大切。そしてそれこそが、『ほんとうの個性』だと言います。

幸福の定義

すべての喜びもまた、対人関係の喜びである

『幸せになる勇気』 岸見一郎 古賀史健 著 P.178

『嫌われる勇気』では、すべての問題は対人関係からはじまるとありました。一方、すべての喜びも対人関係であるとも言っています。

「汝の隣人を、汝みずからの如くに愛せよ」

「汝の隣人を愛せよ」という聖書の有名なフレーズがありますが、実はこれは省略されている言葉があって、正しくは「汝の隣人を、汝みずからの如くに愛せよ」というらしいです。つまり、

ただ隣人を愛するだけではなく、自分自身を愛するのと同じように愛せよ。
自分を愛することができなければ、他者を愛することもできない。自分を信じることができなければ、他者を信じることもできない。 

『幸せになる勇気』 岸見一郎 古賀史健 著 P.209

とありました。自分と同じように他者のことも想いなさいということですが、前提としてまずは自分自身のことを自分が、愛し、信じていないと何も始まらないという意味も含まれています。

よく、人を幸せにするためには自分が幸せにならないといけない、と聞きますが、それを改めて感じさせてくれる内容だと思います。

自分を愛し、自分を信じる。これは直近の自分の課題….

自己中心的な人の正体

自己中心的な人は、「自分のことが好き」だから、自分ばかり見ているのではありません。実相はまったく逆で、ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間なき不安にさらされているからこそ、自分にしか関心が向かないのです。

『幸せになる勇気』 岸見一郎 古賀史健 著 P.209

この本の中でめちゃくちゃ納得できた内容のひとつが、これです。

周りの目を気にしてばかり、自分がどう見られているのか常に気にしてしまうのは、『ありのままの自分を受け入れることができていないから』というのは、自分に思い当たる節しかありません。

確かに、ありのままの自分を受け入れられていたら、自分が好きで自分に自信があるので、人からどう見られても関係ないですよね。

私も殻(=世間体を気にする生き方)を突き破らないといけないなと感じています。

そして、

自立とは、「自己中心性からの脱却」なのです。だからこそアドラーは、共同体感覚のことをsocioal interestと呼び、社会への関心、他者への関心と呼んだのです。われわれは頑迷なる自己中心性から抜け出し、「世界の中心」であることをやめなければならない。

『幸せになる勇気』 岸見一郎 古賀史健 著 P.209

ありのままの自分を認め、自分を愛し、自分を信じることで自己中心的な自分を脱却し、本当の意味で他者や社会へ関心を向けることができる

そうして、共同体感覚を身につけ、「自己受容」→「他者信頼」→「他者貢献」(『嫌われる勇気』の内容)のサイクルを繰り返すことが、対人関係のゴールでもあるし、喜びにつながり、幸せにつながるのだということです。


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