デモって何なんだろう。

前回、デモについて少し触れたので、今日はデモをメインに書いてみる。

ここ2年、デモという言葉をたくさん耳にする。というか、おそらくデモ文化の薄い日本でも報道しなければならないほどの大規模で、人類全体にかかわるデモが多発しているから目立つのであろう。

さて、日本では、いったいどれほどの人間がデモに参加したことがあるのだろう。どれほどの人間がデモに注意を払っているのだろうか。

「SEALDs」

私は彼らの姿を見て、自国も捨てたもんじゃない、と思った。(上から目線ですみません。)彼らが活躍した当時、私は地方の高校生であった。2014年香港の雨傘運動をきっかけに、日本の政治に対しても注意を払うようになった。そこで、ぶち当たった壁は、日本の投票率の低さと、政治を語るなんて「まじめだね~」「カタイね~」という風潮である。かなり失望していた。

そんなとき、彼らが現れた。デモ文化が薄い日本で、国会前で、若者が立ち上がった。私も現場に行きたかった。地方の高校生だから叶わなかったけど。私も、特定秘密保護法には高校生ながら「やばい」と思っていたから。

安保闘争を経験した人たち、そしてその次の世代は、往々にして日本の政治不参加を「若者が」という。そして、若者は立ち上がったのに、「SEALDs」は辛辣な評価を受けていた。とても理不尽だと思った。

だって、年齢別投票率を見ると、投票率が低いのは若者だけじゃないのだもの。仮に、若者の投票率が低いとしても、その世代を育てたのは誰?


話が少々脱線したが、私がデモに強く思いを持ったのは、上記の通り、香港の雨傘運動と、日本の特定秘密保護法案に対する国会前の反対デモである。


私が思うに「デモ」は勇敢な行為で、デモこそが「真の民意」だと思う。


規模に差はあれど、匿名でもなく、隠された箱の中の署名でもなく、時間、体力、精神力をすり減らしながら、リスクを背負い、叶うか分からない目的の為に、自身の正義に従い、理不尽な社会に立ち向かう。

参加して切実に感じた。デモは疲れる。体力的にも精神的にも。何キロもある道のりをなかなか進まない大所帯で何時間も歩く。熱がこもっている。そして、いつ、反感を持つものに襲われるか、メディアに写されるか分からない。本当に本当にきつい。

それを行動に移している人たちなのだから。


私は、去年、台湾で2つのデモに参加した。一つは、政治的なもの。一つは、LGBT関係のパレードのようなデモである。一口にデモといっても、色々な種類があるのだと感じたが、大きな共通点は、「誰でも参加できる」という点である。

思いが強い人、そうでもない人。

地域コミュニティでの社会参加、政治参加の権利を公的に持っている人、いない人。

様々な人に開かれているのである。ただ、その分、先ほど言及したように、少なくとも時間、体力を大量に消費し、リスクも背負わなければならない。そのような条件下でも行動する、「必死さ」や「考え」を伴い、行動しているのだから、これを「真の民意」と呼ばず、何と呼べばよいのか。

声をあげるというのは、勇気がいる、覚悟がいる。

ただ、正体を出さず、体も張らず、リスクを背負わない人たちの発言よりは、価値があり、「民意」として取り扱うべきものであると思う。


匿名で文章を書いている私が言うのもアレだけど。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?