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「テクノ」とは

※2500字以上の記事です。
 お時間のある時に
 お付き合いいただけると嬉しいです。

先日、仲良くしていただいている
フォロワーさんから
私の記事のコメント欄で、
ご質問をいただきました。

「テクノとは?、
 テクノの良さって?」
「初心者でも楽しめる
 テクノってありますかね?」

これは記事が何本か書けるほど
魅力的な質問なので、
微力ながら初心者にも
わかるように書いてみます。

この記事では「テクノ」という
音楽の定義から入りましょう。

「テクノポップ」と「テクノ」

一般的に「テクノ」は、
シンセサイザーやコンピューターを
使った打ち込み主体の音楽を
指して言われることが多いです。

しかし、厳密に言うと、

今日の「テクノ」と
’80年代に流行した
「テクノポップ」では
定義が異なります。

実は「テクノポップ」というのは、
もともと和製英語で、
名称の起源には諸説あるんですね。

'80年代に日本のテクノポップの
元祖である YMO が
流行った頃、

どこかの音楽評論家が
「テクノポップ」という
ワードをはじめて使った
という説が有力とされています。

(当初、YMO 自身は
 「メタポップ」
 という表現を使っていた)

この「テクノポップ」
というワードが定着し、

日本では似た系統の音楽を
「テクノポップ」と
表現するようになりました。

日本では、この状況が
'90年代以降も
続いていたんですよね。

(海外ではこの手のジャンルを
 「シンセポップ」
 などとしている)

一方の「テクノ」は、
'80年代のアメリカ・デトロイトで
生まれました。

アメリカでは、'70年代から、
アンダーグラウンドな
クラブカルチャーがあり、

そこには黒人の DJ がいて、
既存のレコードの
お気に入りの部分を
ループさせたり、

(おもにソウルやファンクの
 レコード)

そこにリズムマシンなどの
音を重ねて「ハウス」という
音楽を誕生させたのです。

その中心地はシカゴでした。

シカゴのハウスに対抗するように
現れたのが、デトロイトの
「テクノ」です。

デトロイトの DJ たちは、
ハウスの手法を参考にしつつも、
新しい表現方法を模索しました。

この時に、
彼らが参考の一つにしたのが、
YMO にも多大な影響をもたらした

ドイツのクラフトワーク
というグループです。

クラフトワークは、
'80年代に来日した際に、

自分たちの音楽が
「テクノポップ」と
呼ばれていることを知り、

このワードを
いたく気に入ったそうです。

やがて、彼らは
自分たちの次回作の仮題を
「テクノポップ」と名付けて、
公表しました。

※このアルバムは、
 ’86年に『エレクトリック・カフェ』
 というタイトルでリリースした
 (現在は『テクノポップ』に改題)

その情報をどこかで聞きつけた
デトロイトの連中は、
自分たちの音楽ジャンルを
「テクノ」と名付け、

これが「デトロイト・テクノ」
と呼ばれるようになったんですね。

シカゴの「ハウス」、
デトロイトの「テクノ」は、

やがて、アメリカ国内に留まらず、
イギリスをはじめとする
ヨーロッパにも伝わっていきます。

こうして、世界レベルで
「テクノ」というワードが共有され、

今の日本では逆輸入で伝わった
「テクノ」も「テクノポップ」と
いっしょくたにして
形容されているんですね。

また、ややこしいことに、
YMO も後期は自分たちの
音楽のことを

「テクノポップ」ではなく
「テクノ」と呼んでいました。

『ライディーン』を
はじめとする初期のサウンドは、
「ポップ」という表現が
合致していたものの、

後期の作風は、
暗く尖った作品が多く
「ポップ」という表現が
合わなくなったためです。

このような経緯があって、
日本では一般的に

「テクノポップ」と
「テクノ」が混同されやすい
状況が続いています。

'80年代の「テクノ」と
'90年代以降に日本でも流行った
クラブミュージックの
「テクノ」は、本来別物なんです。

まったくつながりのない
音楽ではないからこそ、
これがまたややこしいところですね。

例えば、デトロイト・テクノの
アーティストは
クラフトワークだけでなく、

YMO も聴いていて、
その音楽にも影響を受けていました。

テクノポップとは

世界的にテクノポップの
創始者的な扱いなのが、
前述したドイツの
クラフトワークです。

大学でクラシックを学んでいた
彼らは'70年代から活動し、

初期はフルートやオルガンを
使ったプログレ(※)を
やっていました。

(※プログレ:
  プログレッシブ・ロック。
  '60年代にイギリスで生まれた
  前衛的なロック)

そんな彼らがシンセサイザーを
本格的に使うようになったのが、
'74年発表の『アウトバーン』からです。

このアルバムに収録された
『アウトバーン』は
現在でも「テクノ」の原点
とされています。

クラフトワークは、
ドイツ国内に留まらず、
アメリカなどでもヒットし、

やがて、シンセサイザーを
使ったサウンドが
ロックやポップスの文脈でも
一般化します。

海外でそういったものが
一般化する少し前に、
いち早くそのサウンドを
取り入れたのが YMO でした。

日本では YMO が
ヒットしたおかげで、
国内の音楽市場でも

打ち込みのサウンドが
一般化するのが早かったですし、

海外のテクノポップ系の
アーティストが
受け入れられやすい
土壌もできていました。

テクノとは

デトロイト・テクノは、
前述したように、
シカゴのハウスに対抗する形で
生まれました。

ハウスのムーブメントが
アンダーグランドな
クラブミュージックから
はじまったのと同様に、

デトロイト・テクノも
クラブミュージックとして
認知されていきます。

今でこそ「クラブ」は
メジャーになっているので、

「アンダーグラウンド」という
ワードが似つかわしくない
印象もあるかもしれません。

しかし、'80年代には、
そのようなカルチャーは
一般的ではないですし、

(どちらかというと
 「ディスコ」が一般的だった)

特に、アメリカでは、
同性愛者が集まる
セクシャルな場でもあり、

ドラッグの蔓延という
社会的な問題も抱える場所でした。

そのようなアンダーグラウンドな
カルチャーが一般化したのは、

それらの音楽に影響を受けた
若者たちが自分たちの持っている
ロックやポップスの文化と
結び付けて、

メジャーな音楽シーンで
ヒット曲を生み出したことが
大きいでしょう。

'90年代後半には、
イギリスを中心に
プロディジー、
ケミカルブラザーズ、
アンダーワールド

といったバンドが台頭し、
テクノとロックを
融合したサウンドで
メジャーを席巻しました。

(日本では電気グルーヴが活躍)

また、シカゴのハウスも
デトロイトのテクノも
DJ の文化でしたが、

'90年代に台頭した
イギリスのバンドが
「バンド」という形態に
「テクノ」を結び付けたのです。

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