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紙は辛抱強く、世界は美しい

ああ、きれいだなあと思った。

圧倒的デスクワークの私は、めったに外に出る用事がない。日中おひさまの光を浴びず、一日が終わるのがほとんど。そんな私にしては珍しく、業務上行かなければならないところがあり、昼間久しぶりに外に出た。山手線に乗りこみ、所定の駅で降りて、なんてことない雑居ビルが並ぶ大通りの並木道を歩いていた時、なんかきれいだなあ、と思ったのである。

澄んだ冬の空気に、葉っぱがきらきらしている。遮るものがない、晴天の日だった。

今、この世界からはマスクが消え、トイレットペーパーが消え、スーパーからは冷凍食品からカップ麺までが消えた。それもご存知「コロナ」のやつのしわざで、朝のニュースではそれしか耳に入ってこない。でも、今日、そんな毎日が幻だと思えるほどに、外の世界は静かだった。世界というのは大げさかもしれないけれど、東京のほんの一部分を歩いて、その静かな光景に、私はきれいだなと感じたのは本当のこと。

***

そういえば、つい最近、アンネの日記を読んだ。私の好きな作家さん、小川洋子さんのエッセイに頻繁にアンネの話が出てくるものだから、今さらながらに図書館で借りて読んだのだ。

その中で、いいなあと思った言葉がある。

「紙は辛抱強い」という言葉。

アンネは日記に愛称をつけて、隠れ家での生活のあれこれを日記に語りかけるような形で綴る。読んでみたらわかると思うけれど、その日記の内容は、ほとんどが共同生活をする人の悪口や文句、批判ばかり。そんな罵詈雑言も紙はすべて受け止めてくれる。なんて辛抱強いのかしら。みたいな流れで発せられた「紙は辛抱強い」だったと思う。

確かに。私もどちらかといえばnoteはよそ行きで、ありのままの自分は紙の日記の方にある。数年前から日記帳を付けていて、とはいっても飽き性なので1週間まとめて書いたり、前日書き忘れてすっかり書く内容を忘れてしまったり隙間だらけではあるけれど、日記帳の上では素直に何も考えずに文章を書き出せる。駄文・誤字脱字はお構いなし。仕事の愚痴やら自分の考え、読み返して赤面するようなもの、あるいは自分の正しくない感情や行いまで。日記帳は、「一日の終わりに反省をして明日に繋げるための良い習慣」になると聞いていたけれど、私にとってはそんな高尚なものではなくて、とっ散らかった感情を分別して、捨てられるような状態にしてくれる、ゴミ箱みたいなものだ。それでも日記帳は文句一つ、言わない。紙は辛抱強い。当たり前すぎて、気づかなかった。


***


今日何でもない道を歩いて「きれいだな」と思った感覚は、間違っていないと思った。

それは紙が辛抱強いのと同じで、この世界も、この日常も、案外辛抱強いということだと。ウイルスやら、買いだめやら、人々の大騒ぎをあざ笑うかのように、昼間の東京の街角は静かで、空は晴れてきれいだった。ウイルスがあっても、トイレットペーパーが店から消えても、私一人死んでも、世界は続く。そんな事実にひとたび気づいてしまうと悲しいような切ないような感情に襲われるけれど、それが途方もなく正解なのだ。蔓延するウイルスと、それに負けじと日常を取り戻すため、自分の持ち場で働く私たちとで、やっとのことでこの日常は均衡が保たれているというのに、今日の空は暗雲ひとつ立ち込めていない。もうちょっとハリウッド映画みたいに、世界が揺さぶられている感があってもいいものなのに。頭上にあるのは、なんてことない、きれいな青空だった。この世界は辛抱強く、嫌味なくらい綺麗なときがある。良い意味でも、悪い意味でも。

そんな日。Coccoさんの歌「raining」が聴きたくなったのだった。

それは とても晴れた日で
泣くことさえできなくて あまりにも
大地は果てしなく
全ては美しく
白い服で遠くから
行列に並べずに 少し歌ってた


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