『はて知らずの記』の旅 #7 福島県・二本松(黒塚・満福寺)上
(正岡子規の『はて知らずの記』をよすがに、東北地方を巡っています。)
インドカリーと少年隊
二本松の駅を降りた。
最初に眼に入ったのは、「二本松少年隊」のポスターだった。
会津若松の白虎隊は知っていたが、二本松には少年隊がいたらしい。
脳内に、冒頭の唄が再生された。
駅前から真っ直ぐな道が伸びていた。歩き出すと、民家を改造したと見える店舗から、異国風のスパイシーな香りがぷ~んと漂ってきた。
《本格ナン インドカリー》の看板が眼に入った。
他にも、「こんどこそ」「しゃかりき」などの少し変わった名前の居酒屋が、道を挟んで向き合っている。このネーミング・センスは、同じ経営者だろうか?
少年隊、インドカリー、こんどこそ、しゃかりき……
この街と、どのように対峙すればよいのか。雑然とした情報に包まれて、スタンスが定まらなかった。
道は程なく車道にぶつかった。
T字路を左に折れ、本町の交差点を右に入った。
その先は、道が不自然に、鉤型に曲がっていた。
自分の〝街道センサー〟が、ぴーんと反応した。
鉤型の曲り角に、土壁の蔵があった。酒蔵だった。
「千功成(せんこうなり)」という銘柄が有名らしかった。
蔵の角から、車の走らない道が、真っ直ぐに伸びていた。
疑いようもなかった。
ここが、かつての奥州街道だ。
出端に翻弄されたが、二本松は、まぎれもなく〝街道のまち〟だった。
少年隊の墓があるという大隣寺に向かっている。
通りに沿って住宅や店舗が並んでいるが、右手の裏には、低い山がずっと並行している。緑の斜面に墓地が見えたりした。
目的の寺は、宿場が尽きたと思われる先にあった。
石段のたもとに、少年隊副隊長戦死の地、の碑があった。大きな銀杏が黒い陰をつくっていた。
本堂は立派な屋根をしていた。赤い瓦屋根は、二本松の建築の特徴のようだった。
夏のような明るい陽射しが、境内の土と雑草を照らしていた。
車の音が消えていた。時計の針が、たっぷり数十年は戻ったような気がした。
少年隊の墓は近年整えたものと見え、あまり強い印象を与えなかった。
大隣寺は二本松藩主・丹羽家の菩提寺でもあった。歴代藩主の墓は、本堂の裏手の小山の中に造られてあり、こちらの方が印象に残った。
裏山の墓はいずれも、土を抉って出来た崖を背にして造られていた。
そのなかに「陰墓」というのがあった。
説明によれば――当時、大名の正室(正式な妻)と世子(後継者)は、江戸に住まわされていた。世子の実母は、国元に住む側室(正式でない妻)であることが多かった。ところが側室は〝陰の存在〟でしかないため、彼女らの墓標を建てることは許されなかった。そこで藩主の子らが生母を陰ながら供養するために築かれたのが「陰墓」なのだという。
陰墓は歴代藩主の墓の手前、四角く囲われた領域に、まとめて置かれていた。
苔の絨毯を踏んで、最奥部に進んだ。
直角に折れたステージのような壇があり、その上に歴代藩主の四角い墓石や五輪塔が、順番に配置されていた。
木漏れ日が、ステージの上の主役たちを照らしていた。
形は異なるが、天皇の陵墓を想起した。
現在のように移動が自由でなかった時代、地元民にとって藩主の存在は天皇に等しいものだったろう。
緑の壁の向こう側
再び駅前のT字路に戻った。
駅から来る道は、ここで〝緑の壁〟に行く手を閉ざされる。
二本松神社である。
境内は、石段を上がった先にあるらしい。
これまで二本松の駅には二度ほど来たことがあった。登山のためである。しかし安達太良山に登って戻ると日が暮れているので、二本松の街を見物したことは一度もなかった。緑の壁を、バスの窓から眺めるだけだった。
壁の奥はどうなっているのか?
その謎が今日、明かされる。
石段は、それほど長くなかった。
高台の神社は、ごく小さな明治神宮といった感じであった。いい型をしていた。
そこで行き止まっていた。横道を進むと、坂の中腹に出た。
大きな白い病院があった。
駅からすぐ坂道になるこの感じは、水戸に似ているな、と思った。
病院の先は、坂の角度がぐっと急になっていた。
前に小さく見えるトラックが、スローモーションのように上に動いていた。
自分も、地面を見ながらスローモーションのように脚を動かした。
坂の上はどうなっていたか。
下っていた!
それも、いま登って来たのと同じくらいに下っていた。
何たる徒労……
下りきった先は、再び上って緑の山に続いている。
山の中腹に、白い建物が見えた。
霞ヶ城公園の二本松城址であった。
白い建物は遙か先にあるように見えた。
あそこまで登れるだろうか、と不安がよぎったが、この機会を逃すと再びは来ないような気がしたので行くことにした。
公園入口には、意外に立派な城壁がそびえていた。照り返された白い光が眩しい。近年整備したものと思われた。傍らに二本松少年隊の面々がいて、像になっていた。
箕輪門と云うがっしりとした門をくぐった。石壁の上には、ふとい赤松が幾本か植えられていた。
三ノ丸の広い平地に出た。昔はここに建物が詰まっていただろう。
そこから先は山登りの感じになった。
池があり、登るとまた池があり、さらに登るとまた池があった。
二本松城は懐が深い。
なるべく汗をかかないように、ゆっくり進んでいる。
水筒の水を含んだ。しばらく行くと、唐突に車道が現れ、展望が開けた。
本丸の裏手に出たようだった。
安達太良山が一望された。乳首といわれる山頂、その右に鉄山、箕輪山の稜線がクッキリと見えた。
二本松城は、城というより山だった。
山の上に載せられた城だった。
搦手門跡から入り、頂点を目指した。
天守は復元されておらず、石垣だけがそびえていた。
その先は、青い空しかなかった。
石垣と空――この感じは、沖縄のグスクに似ていると思った。
天守跡に立った。
高かった。太平洋まで見えてしまうのでは、と眼を凝らしたが、それはなかった。後で調べたら、分厚い阿武隈高地が横たわっているので、見えるはずがなかった。
こんなに見通しがいいなら無敵だろう、と思うところだが、二本松城は戊辰戦争であっさり落城したらしい。それが少年隊の墓につながるわけだった。
園内には、藩の重臣たちが自刃した場所に碑が置かれていた。ひとつは高い杉の樹の下にあった。人は自分で死ぬと決めたときも、何かに寄りそっていたいと思うものなのだろうか。
山を下り、公園入口近くの「にほんまつ城報館」でひと休みしてから、平地を東に進んだ。
ここはここで市街地になっていた。右手には、駅前から越えて来た丘が見える。
ところどころに切通しが造られてあり、その上の中空を、細い歩道橋が繋いでいた。この感じも、水戸に似ていると思った。
駅前の通りに戻るため、再び坂を登った。
てっぺんまでは竹田坂といった。奇妙にも、家具屋ばかりが並んでいた。
てっぺんから先は、亀谷(かめがい)坂と名前を変えた。北海道で見るような真っ直ぐな道が、ジェットコースターのように下っていた。
こうして肺を使って歩いているうちに、二本松がどういう街なのかわかった。
《長き二本松の町》と子規が書いているが、まったくその通りだ。
二本松は、駅前に横たわる丘を挟んで、南北二つに分断された街だった。駅前の通りに沿った街と、城の麓の通りに沿った街と。
それぞれは、丘に沿って東西に伸びている。丘に阻まれて、細く長く発展するしかなかった。
そして二つの街を往来するには、いちいち坂を上って下りなければならないという、歩行者にとっては、ひどく面倒くさい街なのだった。
(次回に続く)
関連する記事
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?