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『ブルシット・ジョブ』/技術革新と人類の増加

 仕事に就く以前の学生時代は、間接的であっても労働を通して自分の仕事が世の中の役立つことを実感できるだろうと素直に考えていた。ある程度の年月を民間企業で働いた後の現在、過去の期待はやや無邪気だったと思える。私が実際に経験した仕事の多くは、その本質から離れた形式的な作業で肥大化し、仕事が受け手にとって価値あるものかは第一義的ではなく、表面上の目的は体裁を整えるための虚飾でしかないことも珍しくはない。

 デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』に描かれた現状は驚きではなく、私が個人的に体験した現代社会のありさまに対する一種の失望を追認する内容だった。本書が一部で話題になったのも、私を含む一部の人間にとって自明でありながらも言語化されてはいなかった事態を端的に言い当てた点にあるのではないだろうか。そしてタイトルの「ブルシット・ジョブ」という新しい言葉は説明されるまでもなく、一部の人間に対してはその言葉が指し示す意味を容易に想像させる。

 働いている人間自身がその労働に価値を見い出せない仕事が増加しているという事態をひとまず事実だとして、先進国を中心にこのような状況が世界的に広がり始めたのはいつ頃からなのだろうか。著者によれば、早くは1929年の世界恐慌の時点ですでにテクノロジーの進歩が人間の仕事を奪ったことによる社会的な歪みは顕在化していた。その後の人類は雇用状況を守るために、本来は不要な仕事を創出しつづける。そして1970年代以降の先進諸国ではこの状況に拍車がかかり、貧富の差は拡大をつづけながら現在に至り、エッセンシャルワーカーと呼ばれる業務に従事する人々の多くは、なぜか低所得を強いられる。

 社会で必須とされる仕事に就く人々のほうが、ある意味で軽視されてしまう事態の進行は大変重要で興味深いが、ここでは取り上げない。今回注目しているのは、技術革新がそれまで人間が担っていた役割を奪い、実は多くの人類にとっての実質的な「失業状態」がかなり以前から慢性化しており、だからこそ本来あまり意味のない仕事が創出され続けていると伝えている点である。エッセンシャルワーカーの苦境と並んで、この指摘が今回の読書のなかでもっとも新鮮であり、かつ頷かされる箇所でもあった。

 ここで考えるのは、技術の進歩によって人間に必要な仕事が減るだけでなく、これに反して地球全体の人口はいまのところ増加を続けていることだ。現在地球上に生存する人間の数は、既にこれまでの過去の歴史で既に亡くなった人の数を上回るという。『ブルシット・ジョブ』は、一部は現在の資本主義社会に対する疑義を呈する視点も多分に含んでおり、この多くについても同意はする。ただし、そもそも人間の行動の多くが技術によって軽減されたうえに人口が増加すれば、社会システムに関わらず本来的な仕事にあぶれる人間が大量に発生することに変わりはないだろう。現在の世界的な人口の多さは、当の人類自身が必要とする人間の数を遥かに上回っているのではないか。そして、いまある社会問題の原因の多くは、現代の一時的な人口の過剰さに由来するものではないだろうか。先進国を中心に進む少子化も、このような社会状況が人々の無意識に働きかけた結果だと思えなくもない。

 ハンス・ロスリング著『ファクトフルネス』に書かれた国連の予測では、世界の人口は2100年ごろに100億人から120億人の間で増加が止まるとされている。仮に今後も人類が破滅的な過程を避けながら無事に長く生きおおせるとして、例えば1000年後の人間社会はどう変わっているのだろうか。地球上の人口はいまより遥かに減少し、仕事の定義や在り方もいまとは全く変わり、現在の私たちの状況を振り返って奇妙に感じるのではないか。そんな空想をした。

(※以下はブクログに投稿した書籍紹介用レビューへのリンクです。)

(※トップ画像はpixabayFree-Photosより。)

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