daijio

数寄の道か、マーケティングか、それが問題だ。

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最近の記事

仮題 ドリスの紡ぐ言葉、パレットの色

昔見た映像の中でドリスは、こう言っていた。 服はその人の語る言葉、その人の生活を彩るパレットの色のようなもの。 ドリスの服はいつも詩情に溢れていて、 音楽が聴こえてくる。それは時にゲーテであり、ノヴァーリスであり、コクトーであり、クラシックであり、ジャズであり、ロックであった。 ドリスの作品を纏うと、なぜか穏やかな心地になれる。 それは私を守る鎧というようなものではなく、常に肩の上で私をみまもる精霊とでもいったような。 だからドリスを着ているひとやドリスの作品を選んでい

    • 兎の香合

      兎の香合の夢を見た。 いや、現実かもしれない。 今年は卯年なので、歳を祝う意味でも兎に関するものを床に飾ったり、茶会で道具組みに入れたり、考えつづけてはや五月。 卯月(四月)もすぎてしまった今、ああ、そう言えば兎の香合があるじゃないか、とそう気づいて目が覚めた。 卯月は、ウツギから来ているとも言われているそうだ。卯の花のことで、今年も庭の卯の花には何度となく茶花として登場頂いた。 秀吉の吉野の花見にも同行した飛鳥井雅庸は、卯の花と題して、このように詠んでいる。  いどむと

      • 苺の絵

        阿佐ヶ谷に住むことになった。 物件を見たその日に、気になる和菓子屋さんを見つけた。 名前はうさぎやさん。 何が看板商品かもわからぬまま、菓子を一種ずつ買っては味わい、買っては味わいした。 ある日、店内にかけてらっしゃる富士山の絵だったかの額を、女将であろう老婦人が外そうとされていた。お手伝いしたら、代わりに飾るのであろうあらたな額を持ってこられて、これまた飾られるのを手伝った。その額にあるは、苺の絵。となりに手紙がそえられて、うさぎやさん宛の御礼の文。老婦人と昔の仮名遣いを

        • 意を宣る

          先日京都に遊んだおり、偶然見かけた古美術商で、根来の金輪寺を見せてもらった。 いわゆる金輪寺のように蓋が笠に張り出さず、下の身のまますっくり立ち上がったかのような蓋のなりで、 蓋の甲と身の口辺りとだけが黒く擦れていた。 まさに長い時間の手ずれの痕だろう。 大きさも一回り大きく、否、体感ではひとまわり半大きい印象。底が厚いのか重さもあった。 私は、この根来を掌にもったとき、かたじけなさに泪あふるる、無性に祈る気持ちになった。 祈るとは、なんだろう、なんなのか? ことば遊びをす

        仮題 ドリスの紡ぐ言葉、パレットの色

          『藪の中』と情緒と。

          芥川龍之介の『藪の中』を題材に、コンテンポラリーダンスと能を掛け合わせた作品を演出された方、演者の方、衣装を担当された方が集まり、作品についてお話された。 私は10年前の初演を拝見したが、ディケイドを経て再演されたそれは聞くところ全く別の作品のように感じられるほど変化したようだ。 芥川の作品を事前に読んで、物語をあたまにいれて味わう。作品がどのように解釈されて演出されているか、またそれが、コンテンポラリーダンスで、また能で、能舞台で、どのように拡張され、おりたたまれるか、

          『藪の中』と情緒と。

          花は野にあるように

          花は野にあるように入れなさいという教えがある。 「野にあるように」入れるとはどういうことなのか。 分からないので、自然が自然のままにある様を観察している。 ボーっと観察を続けて、なんとなくこうなんじゃないかという視点を得た。フラクタルだ。 リアス式海岸の海岸線の一部を拡大していくとまた新たな同じ形状の海岸線がみえてくるあれだ。部分と全体の自己相似というやつだ。 さまざまな草木、草花が、こう伸びたい、こう咲きたいという意思を示し、重力や、雨風にあらがいながら、そこにある。陽

          花は野にあるように

          月考

          昨日は、月食だった。 しかも満月の日。 下半分くらいまで見えて来た月をながめていると、光の強さからか、左右と下部の輪郭がゆらぎ、残像を残し、まるで蓮の花ひらく様のように見られた。 そしてその半分が全体になり、とうとう満月になった。完全なる円相。 光のゆらぎは徐々に消え去りしっかり丸くなり、急に兎があらわれ、首をかしげ、月に戻った。 雲のなかをぎょろりと浮かぶ月は、ときに蕭白の龍の目になり、蘆雪の虎の眼になるが、 昨日の満月の前日は、まるでジュリアン・オピーだった。

          一瞬が永遠になるとき。

          一瞬が永遠になる。そう感じることはないだろうか。 今日私にそれが訪れた。 ある陶芸家の展覧が、京都であった。 水指、花入、皿、香合、茶碗。 ひとつの茶碗の前で足が止まって、その場で時も止まってしまった。 その刹那、その茶碗を旅したと言ってもいいかもしれない。 茶碗の胴の釉景に、山を見、時雨降る音を聞き、一瞬の晴れ間の澄んだ空気を味わい、空からの梯子に触れた。 その茶碗は黄瀬戸だったが、胆礬が、還元して辰砂になっていながらも、緑が残るという不思議な現象を胴にとどめていた。

          一瞬が永遠になるとき。

          オケイジョン考察

          昨日は秋晴れ。 暑すぎず、涼しすぎず、デニム日和だと思い、久しく穿いていなかったAGを選んだが、そうだ、、、と考えなおし、ヘリンボーンのウールパンツに穿き直した。 シャツにアイロンをあて、インバネスのようなブルゾンを羽織り、染め替えたばかりのブラウンのスウェードのフルブローグシューズで、区役所に投票に行った。 古いといわれそうだが、投票に行くのに一張羅を着ていくといったメンタリティがあらまほしく思ったからだ。 いつ頃からかTPOがないがしろになってきた。ホテルのロビーにデ

          オケイジョン考察

          空中信楽を観た。

          空中信楽を観た。 湯木美術館で、本阿弥光甫の信楽の芋頭水指を。 空中斎こと本阿弥光甫は、光悦の孫。 本阿弥の家業は刀剣の鑑定だ。 本阿弥家の末裔の方は陶芸をなさっているが、へらけずりには代々刀を使うらしい。 だから光悦や光甫の作も、刀で削ったところが刀錆をおこしてくるらしい。 その知見を得て、改めて空中信楽を観た。ガラス越しだが、たしかに、妖しく色落ち着き、鈍い錆のような光がここかしこに見えた。 まさに寂。 さびしくもうつくしく、そこにあるのだった。 光悦の茶碗も

          空中信楽を観た。

          今日の新たな気づき 作法と空想

          13年前のまさに今日。 浅野矩美さんとの勉強会を始めた。 以下、ほぼ浅野さんの当時の言葉のまま記載したが、今日読み直してみて、新たな気づきがあった。 浅野さん、ありがとうございます! "creative-thinking meeting" specially arranged for the small group of people,having a lecture by SHISEIDO art director,"design is omotenashi."

          今日の新たな気づき 作法と空想

          着物について

          外出自粛をする中、クラブハウスで日本文化のことについて話す機会が増えた。 話題として多いのが着物について。 どのようにしたら着物に興味を持ってもらえるか? どのようにしたら敷居をまたいでくれるのかということが話題になることが多い。 着物を着ることはまず敷居が高い。 着方が難しい。値段も高そう。着物の着方を指摘してくる着物警察がいて恥をかきそうで怖い、、、などなど。 これは、着物に限らず茶道についても同じような敷居の高さがあると思う。 いろいろな議論で自身勉強になった

          着物について

          諦観について

          なにごともなにごとも 道のあるものは、 諦めが肝要なり。 侘びにも、和歌にも、その他の道にも、諦め=諦観がターニングポイントになる気がする。 諦めきれぬ世俗の欲、名誉や地位への欲、認められたいという欲、財欲や物欲、食欲、憧れる異性(同性)と添いたいという欲、、、 この欲へのあきらめ=諦観の視座が、道を進む強固な澪標になる。 あきらめ は 明きらめ、 明きらむ であると思う。 諦観。 ここにないことをあきらかにみとめ、あきらめること。 不自由さに自らを縛る、不自由さ

          諦観について

          朝貌の話

          朝貌は、昔は桔梗や木槿のことを言ったようだ。朝に綺麗な貌を咲かせるからだろう。 朝貌といえば利休の朝顔の茶の湯の話が真っ先に思い出される。 宗易の庭に牽牛花(あさがお)が見事に咲いているということを太閤へ申し上げる人があり、 太閤は、さらば見に行こうと、宗易の朝の茶の湯に行くことにした。朝顔は庭に一枝もなく、全く不機嫌になられたが、さて、小座敷へ入って見れば、色あざやかな朝顔が一輪、床にいけられていた。 太閤をはじめ、召しつれられた人々は、目が覚める心地がして、宗易ははな

          朝貌の話

          学びと関係性について

          オンラインでつながり、ズームなどを使っての直接面と向かって会わない会議も当たり前になってきた。 移動も自粛、出張も自粛、商談も自粛の中、便利なツールではある。 しかし、実際会えないことで、生の熱量、気持ちが伝わりにくいというのはやはりある。 今までお会いしたことのある人とは、今までの印象や信頼感が、オンラインの打ち合わせ以外を補う。 オンライン上で初めてお会いする方との距離感や信頼感の醸成をどうしていくか。 その切磋琢磨がまた面白いと思う。   話はがらりと変わるが、「教育

          学びと関係性について

          希望塾と千本ノック

          2009年だから12年前になる。 東京タイプディレクターズクラブ(TOKYO TDC) 主催のデザイン塾、希望塾に通った。 当時は大阪に住んでおり毎週土曜日、銀座のgggギャラリーの会場に、新幹線で日帰りで通いつづけた。 講師陣とテーマが多彩で、好奇心がいろいろなベクトルに向いた8週間だった。 1)祖父江 慎「ニッポン文字の形、今とか昔とか」 2) 菊地敦己「情報構造とその表現」 3) 工藤強勝「ブック・エディトリアルデザインのメソッドとコンセプシオン」 4) 寄藤文平「

          希望塾と千本ノック