『藪の中』と情緒と。

芥川龍之介の『藪の中』を題材に、コンテンポラリーダンスと能を掛け合わせた作品を演出された方、演者の方、衣装を担当された方が集まり、作品についてお話された。

私は10年前の初演を拝見したが、ディケイドを経て再演されたそれは聞くところ全く別の作品のように感じられるほど変化したようだ。

芥川の作品を事前に読んで、物語をあたまにいれて味わう。作品がどのように解釈されて演出されているか、またそれが、コンテンポラリーダンスで、また能で、能舞台で、どのように拡張され、おりたたまれるか、それを想像し、目撃し、味わう楽しみが本作にはある。

今回はより原作に忠実に、演者の力を頼り、能の力、能の舞台の力を頼り、衣装という道具を頼り、原作に頼る。頼る力を得たと、その演出家は話された。

衣装、衣服を道具にするということを能の演者から学んだと仰られた。
それは、衣服で感情や、心情の拡張を行なっているということだろう。
その拡張する身体を学ばれたのだろう。

話は逸れるが、茶の湯の動作は、着物を着ている方が動作がいざなわれる、点前がいざなわれることがある。たもとがあるほうが柄杓がひきやすい、道具への身体の重心、腕の動きがとりやすい。
何故か着物のほうが、道具を敬いながら扱える気がする。そういう漠然と感じていたことと今回の話がつながる心地がした。

精神性のある衣服とそうでない衣服は、なぜこうも違うのかと漠然と思っていたが、
感情や心情をそれに仮託できるからなんじゃないかと、腑に落ちた心地だ。

情緒、余情を布にのせ、つつみ、はらみ、抱くこと。
そしてふりほどき、別れ、しかしなお慈しむこと。

情緒をまとう。余情を帯びる。

これ、ダンスの話、能の話であり、衣服の話、茶の湯の話であり、かつ生を営なむことの話である。

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