今日の新たな気づき 作法と空想

 13年前のまさに今日。
浅野矩美さんとの勉強会を始めた。

以下、ほぼ浅野さんの当時の言葉のまま記載したが、今日読み直してみて、新たな気づきがあった。
浅野さん、ありがとうございます!

"creative-thinking meeting" 
specially arranged for the small group of people,having a lecture by SHISEIDO art director,"design is omotenashi."


 デザインというおもてなしについて。

 日本の美術工芸には、日本そのものの生活感があった。
 そこには、日本の風土を取り入れた首題の設定や個性あふれる豊かな五感が伝わってくる。
 いわば日本人の芸術美は生活美学による充実感として伝わってくる。
そこに生まれた形、色構造は行動を左右し
 緊張を生み出し、安らぎを体験することで元気を生み出し、充実感を明日の力にする。

その代表的なmonoの一つに桂離宮のデザインや西芳寺のこけ庭、だれでも持っていた風呂敷があります。
 庭や空間には、虚と実、死生観などの生活哲学があり作者のwanaがあります。
 それは、説明の楽しさや創造の努力を必要としtameshiをもっています。
 いつも使っていた風呂敷には一枚の布に五感の主張、コーデネイト、作法の主張そして不必要になった時点での賢さがあります。
また生活空間の活用としてつくられた屏風、食卓食器などの生活機器にも、充実感を求めるkotoをもとめました。
その良さを人に伝えるため時代を超えた表現としてアート、デザインという言葉で図ろうとしました。

もう一つの考えとして生活行動の意志としてmotenashiという観点で考えてみたらいかがでしょうか。
 ものを創る必要性にはどのような生活活動がありどのような意識を持っているのだろう。
どれくらい知性を持っているのだろう。
などを理性と感性で意志として創作した個性あふれるmonoとkotoが、十分motenashiを伝えたとき、デザインが完成し活用する人々にsahouを求め、空想という付加価値を与えることが可能となる。

 sahouを理解力の総集編と考えると、motenashiの意図を形として創作されたものこそdesignと呼べるものであり、五感の豊かさを中心とした表現は、より心を伝えるものであるとかんがえる。
 そして、理解を楽しみ、愛着の極みにある感性の交流が進行することでkoseiにつながると考えます。

 今、作法、空想が絶滅種となりデザインは物まねとなった、時代の終わりと、時代の始まりにこそdesignが必要。

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