朝貌の話


朝貌は、昔は桔梗や木槿のことを言ったようだ。朝に綺麗な貌を咲かせるからだろう。


朝貌といえば利休の朝顔の茶の湯の話が真っ先に思い出される。

宗易の庭に牽牛花(あさがお)が見事に咲いているということを太閤へ申し上げる人があり、 太閤は、さらば見に行こうと、宗易の朝の茶の湯に行くことにした。朝顔は庭に一枝もなく、全く不機嫌になられたが、さて、小座敷へ入って見れば、色あざやかな朝顔が一輪、床にいけられていた。
太閤をはじめ、召しつれられた人々は、目が覚める心地がして、宗易ははなはだ御褒美にあづかった。これが世に言う 利休朝顔の茶の湯 である。『茶話指月集』(藤村庸軒聞書 久須美疎安編)

宗易=千利休
太閤=豊臣秀吉だ。

当時、我々のいう朝顔は、まだ新しい花で、それが咲き乱れているということのめずらかさがまず話題になり、その珍しい花にもかかわらず、一枝残らず切り取り、一輪の儚い美しさを提示したことに利休の挑戦があると思う。

朝かほや 手をかしてやる もつれ糸 屠龍

酒井抱一は屠龍(とりょう)の号で俳諧をした。上手いのか下手なのかわからない句だが、琳派の描く蔓の曲線が目に浮かんでくる気がする。


松花堂弁当の名の由来となる松花堂昭乗は、瀧本坊から新しい庵にうつるとき、その庵の名を春日大社の禰宜、久保利世(長闇堂)に相談したと思しき消息が残っている。松花堂と槿花堂が候補にあったらしい。もしこのムクゲの方を選ばれていたとしたらショウカドウベントウは、キンカドウベントウになっていたわけだ。

ちなみに松花堂弁当の由来も記しおく。
昭乗は、農家が種入れとして使っていた十字型の仕切りのある器をヒントにこの形の器を作り、絵具箱や煙草盆として使用していた。

昭和の始め貴志彌右衛門の大阪(桜宮)邸内の茶室「松花堂」で茶事が催された際、彌右衛門が料亭「吉兆」の創始者となる湯木貞一に、この器で茶懐石の弁当をつくるように命じたのがはじまりとか。毎日新聞が「吉兆前菜」として取り上げたことで話題となり、松花堂弁当の名が広まる。十字形の仕切りがあることで、見た目が美しいだけでなく、互いに味や匂いが移らないと考えたためである。湯木は他家から松花堂弁当の依頼を受けると、その都度貴志家への挨拶を怠らなかったとか。


朝に咲く 恋の憂いの色の花 瓢々子


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