呼吸
前にも書きましたが、写真が好きなわけではありません。
「写真が好き」などと、ただの一度も口にしたことがありませんし、今後もないでしょう。
「好き」か「嫌いか」で自分の行動原理を決めたり、あるいはアイデンティティを形成しようとするのって、結構危険ですよ。聞いてるか?OM SYSTEM。
法律とか規則とか言う前に、太古の昔、旧石器時代ですらすでに、個と個の対立はありました。「お前旧石器時代から生きとったんか?」はいはい、ある意味そうですよ。遺伝子レベルでね。誰だってそうでしょう。
旧石器時代を持ち出すまでもなく、今を生きている人間以外の動物を見れば一目瞭然。
猫だって「好みの対立」で争うんですよ。鳥もね。
「好き」とか「嫌い」って、それ自体既に「危険な思想」な訳です。とはいえ「危険な思想だから持ってはならない」と言ってみても、脳という臓器を持つ生物が「思う」ことを止めることは出来ない。
問題は「好き嫌いを行動に反映する」かどうか、そこで他者との対立が起きるし、その行動の内容が「公共の福祉」を害する場合には、それこそ法律とか何とか出てくる訳です。
ともあれ、はしょって申しますと「好き」や「嫌い」ということ自体が「本質的に危険性を孕んでいる」ことを忘れてはならない。
「私は実は痴漢をするのが好きなんです」
「ああそうですかよい趣味ですね」
とは、ならない。
「私は悪い奴が嫌いなんです」
「ああそうですかよい趣味ですね」
「だから悪い奴を見つけ次第シバキます」
「ちょっと待ちなさい」
極論「好き」「嫌い」って、そういう話なんですよ。
聞いてるか?OM SYSTEM。
で、写真ですが、私には写真は「呼吸」。好きだから取っている訳でもなければ、嫌いだけれど我慢して撮っている訳でもない。
「君はこういう風景が好きなんだね」
「違います」
「君は煙草屋さんが好きなのか」
「煙草吸わない」
「君はおしゃれが好きなんだね」
「中古品買い取り店と床屋と居酒屋はおしゃれですかそうですか」
「君は意味のない空間が好きなんだね」
「箱根登山ビルに謝りなさい」
「君はバスが好きなんだね」
「ウインカーみれ。運転士が気い遣ってくれなかったら巻き込まれてたわ」
「君はエスカレータが好きなんだね」
「寝れ。頭休めてからもの言おうや」
それでも言いますか?「写真が好き」。
サポートをいただければとても嬉しく思います。 写真を撮ったり、書き物をしたり、そういう活動に活かします。