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85歳の人曰く



 今から85年前の昭和14年、すなわち1939年に彼は生まれた。
 第二次世界大戦が起こった年だ。
 2024年現在の現役世代のほとんどが、何もかも、教科書の中でしか知らない世界に、日本に、彼はいた。

 御年85歳の彼、ここでは仮にNさんとする。
 Nさんは私の夫の勤務先に、現行制度的に超シルバー人材なのかそれとも別口なのか色々と不明ではあるが、とりあえず、アルバイトとして月に数回働きに来続けているおじいさんだ。
 小さなおじいさん。
 背中が曲がっていて、頬骨が出ていて、日焼けをしていて、年季の入った農協のキャップを被った、真っ白な髪のおじいさん。私は身長が150センチちょっとなのだが、女性の中でも比較的小さめの私よりも更に小さい。
 木の枝みたいな手を腰の後ろで組んで、チョコチョコチョコッと歩く。

 私の夫はそのままの意味で『外で働く人』だ。
 風が吹こうが雨が降ろうが暑かろうが寒かろうが、いつでも外で働くスーパーマンだ。職業名を明かす必要は無いから伏せはするが、いわゆる『職人さん』にあたる。何を隠そう、ワークマンのウルトラハイパーヘビーユーザーである。私はこの先もし宝くじで12億米ドルで当選したら奨学金を返済したのち株式投資をする予定でいるのだが、その際にはワークマンの株を買おうと思うくらいには夫がお世話になっている。しょっちゅう足袋を買っている。

 夫は会社員の身分ではあるが、業界的に定年らしい定年がない。
 だから、やろうと思えば何歳でも働ける。
 Nさんは特に『やろう』と思っていたわけではないが、働き続けて、ふと気づいたら100歳の方が近くなっていたそうだ。
 私が生まれた時点ですら50歳も半ば、夫が入職したとても若い頃からもう既におじいさんだった人である。

 Nさんのキャリアは長い。
 ドイツがポーランドに侵攻した1939年に生まれ、1945年にポツダム宣言を受け入れた日本で玉音放送を聞き、激しい混乱が続く中で彼は働きに出た。悲壮感は特になく、学校には行ける時に行ったそうだ。当時は子どもが信じがたいほどたくさんいて、でも教師も教えられる施設も少ないから、小学校にも夜間部というものがあったそうな。
 私には到底、想像すらも及ばない、『食べ物が無い』時代にNさんはまず働くことを選んだそうだ。ご両親やご家族のことは伺っていない。私がヘラヘラしながら聞くべきではないことだ。
 10歳の時点で、Nさんはなんらかの対価を得て働いていた。
 10歳をスタートとするなら、そこからずーーーーっと働き続けてきた彼のキャリアは今年75年目にあたる。
 15歳からは完全に一人足(夫やNさんはこういう言い方をする。『一人区』としている時もあるが、私が聞き取れていないだけかもしれない。)扱いで、そこからをスタートにしたって、キャリア70年目だ。中途採用どころの騒ぎではない。人によっては生まれてから死ぬまでの長さを働き続けてきた。
 私は社会人10年目。比べるものではないが、こんなもん、比較にもならない。

 夫は高校を出てからすぐに働きに出ている。今やすっかりヒゲもじゃサングラス四十肩ダイナマイトボディおじさんと化しているが、新卒の頃は、写真を見る限りピチピチツヤツヤの金髪サングラスのシュッとしたお兄ちゃんだった。全然近寄りたくない見た目だったが、笑顔の、どうにも人の良い感じは今と変わっていない。そういった頃から、Nさんは仕事の『手伝い』にこられていたそうだ。なぜって既に年齢的には定年しておられたからだ。

 Nさんはず〜っと、夫のことを見守っていた。
 現在は『タカさん(夫のこと)のお手伝い』に落ち着いているそうだが、夫は絶対にNさんのことを疎んだり粗末に扱ったりはしない。でも転んで骨なんか折られたらおしまいだから、気にしつつ一緒に働いている。

 私と夫が結婚した時、夫はもちろんNさんにも報告をした。
 Nさんは本当に『パーッと顔を明るくして』喜んでくれたそうで、私のことを、どんな女性なのか聞きたがったという。

 夫は私のことが大好きなので、全く悪意なく『嫁さん、理系の大学を出て、英語ができて(注:できねえ)、病院や〇〇で働いているひとまわり年下の子なんですよ』と言った。

 Nさんは、死んじゃうんじゃないかと思うくらい驚いて、喜んでいたそうだ。

『大学! はあーッ! 何て立派な女の人だろうねえ! 大学! へえーッ! 大学を出た女の人かい! すっごいなあ、すっごいねえ〜! 英語なんか、とんでもないね! おれなんか、ひらがなだってあんまり読めないもん! いやあ、立派だ、立派だねえ〜ッ! よかったねえーッ!』

 上記は夫曰く再現率100%のNさんなのだが、私の方が驚いた。
 てっきり、女性の進学について否定的な意見が出たり、子どものことを聞かれたのではないかと疑っていた自分がいたからだ。

 そんなことはなかった。
 Nさんはただただ純粋に、女性が高等機関で学問を修めることができる時代のことを、国が発展したことを、大喜びで受け入れていた。否定もせず、憂いもせず、ただ喜んでおられた。
 彼のおっしゃる『ひらがなだってあんまり読めない』は、少し私には重すぎる。

 それから、子どものことなどは全く聞かれなかったという。
 先入観を持って、否定的なことを言われると思い込んでいたのは私の方だった。
 視野が狭かった。これは恥ずべきことだ。思いあがらず、常にフラットでなくてはならないと情けなく感じた。

 のちに、一度だけ直接ご挨拶に伺った。
 私は職業上あらゆる感染症に対して警戒し続ける必要があるため、特にご高齢のNさんにお会いするまで時間がかかった。何がどう潜んでいるかわからないような環境に勤めているので、免疫力の下がっている人に万が一にでも何か移してしまったら冗談では済まない。だから、手指消毒マスク装着ワクチン複数回接種の上、ほんの少しの時間だけお会いした。

 Nさんは、私から見れば、よくいるおじいさんというか、後期高齢者だった。
 お庭で草をバリバリむしっておられた。
 猫が二匹、日陰に寝そべって偉そうにNさんを見ていた。居間に直接繋がるスライド式の大きな窓にレースのカーテンがかかっていて、裾がひらひらしていて、お部屋の様子が少し明らかだった。椅子に座って眠っている小さなおばあさんがいた。Nさんの奥様がお休みをされているようだった。事前に、ご体調が優れず、あえてご自宅に戻られていることを聞いていた。家庭菜園にはトマトや豆類が植わっていて、葉っぱが綺麗に揺れていた。

 夫が『Nさん、この子、嫁さん』と紹介すると、本当に、泣けてくるくらいに嬉しそうなお顔をされて、帽子をとって深く頭を下げてくださった。
 もちろん、私もきちんと『ミズノと申します』と言って頭を下げた。
 Nさんは、奥様のことは起こさなかった。
 私も夫も、よく眠っていて欲しいと思っていたから良かった。
 Nさんは優しい男の人なのだと分かった。

 彼は私の学歴と職歴についてよほど衝撃的だったようで、挨拶もそこそこに、『あなたは大学を出たの』とお尋ねになった。事実なので、私はシンプルに『はい』とお答えした。Nさんはうんうん頷いて、えらいねえ、と破顔した。

 私は大学を出たことについて、えらいねえ、なんて言ってもらったことはなかった。すなわち、当たり前になったのだ。当たり前にしてくれた人々がいて、その人々よりも年嵩の人が、時を超えて喜んでくれた。

『おれの頃なんか、食っていくしかなかったからね。戦争、負けちゃったからねえ。シンチューグン(進駐軍?)はクラブなんかもあったけど、日本人は、男なんかはみーんな死んじゃったから、女の人がたくさん働きには出てたけどね。でも、学校はね、みんなが行けるわけじゃなかったからね。今はね、いい時代になったね。お仕事もしてねえ。看護婦さんとは違うの?』

 私はまた、『はい』と答えた。

 ちなみに自分の親くらいの世代に『看護婦』やら『リケジョ』やら『女医』やら『女教師』やら有徴化して言われると、私はジェンダーと職業の観点から人間の姿を保てなくなるくらい悔しい上に怒り狂う気持ちになるのだが、85歳の生き物に言われても気にならない。しょうがねえのだ、こればっかりは。 

 大変ご高齢だったり、認知症が進んだ方に『看護婦さん』と呼ばれても、ご本人を混乱させるわけにはいかないため『はい』と答えたりもする。看護師ではないのだが、言葉の使い方と受け止め方は時と場合とついでに生まれた時代による。

 さておき、Nさんは何度も『えらい』や『立派』と繰り返して褒めてくださった。なぜか夫の方が誇らしげで、鼻の下まで伸ばしていやがったが、まあこの人もたいてい優しい男の人なので構うまい。

 ご挨拶のために用意した菓子折を、Nさんは『悪いよ!』と強固に仰ったが、どうにか受け取っていただいた。ご夫婦ともに甘い洋菓子がお好きとのことだったので、食べやすい大きさのチョコレートを用意していた。こういう時、『ご高齢の方への御遣い物なのですが』という古い日本語を知っていると便利だ。百貨店で言うといい感じにいい感じのものを探してもらえる。他のどの場面で使えばいいのかは知らない。
 Nさんは包の中身がチョコレートだと知ると、小学生のように喜ばれた。

 『おれも、ウチの・・・も、大好きでね。ありがとうね。』

 夫から聞いたのだが、Nさんはコンビニのプライベート・ブランドのチョコレート菓子が大好きで、現場に行く途中で寄ると必ず二つや三つ選んで、車内で召し上がるそうだ。私たちにとっては何も代わり映えのしない大手三社、どこにでもある当たり前のコンビニで、Nさんは毎回百円くらいのお菓子をいくつか買う。ひとつは、奥様へのお土産に。

 Nさんは私たち夫婦のことを、手を振って見送ってくださった。
 私はNさんの姿が見えなくなってから泣いた。

 Nさんは別れ際に、しみじみと仰った。

『いい時代になったね〜。』

 胸に迫る、という日本語が、実際の体感を伴って理解できた。
 Nさんの人生の中には戦争があった。しかも負けた。食べ物がなかった。本当になかった。どんぐりやお芋の葉っぱや蔓まで食べたなんて信じられない。学校に行くことは当たり前ではなかった。義務として当然になった。驚異の識字率を誇る国になって、時代は目まぐるしく変わって、ビルが建って、電車がたくさん走って、満員で、バブルがあって、ドリフターズが流行って、バブルがはじけて、バタバタと会社が潰れていって、テロがあって、女性の政治家が続々現れて、女性の医師が現れて、女性が働くことが当たり前になって、子どもを生まない選択肢も当たり前になって、地震があって、津波があって、原発が爆発して、気仙沼が燃えて、国が揺れて、政治家がゴロゴロ替わって、感染症が流行ってかつての大スターが亡くなって、銃撃事件に斃れた人がいて、そのお葬式にすら文句をつける人がいて、会社でずっと見てきた金髪の若い男の子がいつのまにかすっかりおじさんになって、大学を出た女の子と急に結婚をして、チョコレートをお土産に持ってきて、日常の楽しみにはコンビニのお菓子が追加されて、そこにはいつでも食べ物があって、電気がついていて明るくて、そこに、その日に、今日、今この瞬間のこの日本に至るまでの100年近くを生きてきたNさん。草をむしるNさん。猫に観察されるNさん。残りの人生を優先して病院から帰ってきてくれた奥さんを起こさないでいてくれるNさん。
 優しい男の人。

 そんな人が『いい時代になったね〜。』なんて。


 かなわない。
 いくらなんでも。

 私に愛国心なんてものはまるでない。
 ないが、日本はいい国だと思う。この国に生まれた赤ちゃんや、今を生きる子どもさんたち、若い人々のためになるなら、税金が多少上がろうと『リケジョ』呼ばわりされようと頑張る。

 この働き方で、本日時点で85歳のNさんに追いつくまでのあと55年を生きていられるかは全然自信がないが、もし、生きていたら、同じように言いたい。
 きっと、ずっと様変わりした未来で、女性も男性も、過渡期と呼ぶべき現代よりはもう少し生きやすくなっていると信じている。名字の概念や結婚の概念、ジェンダーの概念や有徴化なんかはすっかり変わって、『女医なんて呼び方は最悪だ』とか『スカートを履く男性は当たり前だ』とか、わからないがまあ今みんなが抱えているいろんなややこしいこと全てがひとつでも解決されていった未来に、よぼよぼと、できれば夫と一緒にたどり着いて、若い人に言いたい。

『いい時代になったね〜。』

 なんて。



 ……私が85歳だと、夫、マジで100歳の方が近いな。無理かな。まあ無理なら天国からLINEで送ってもらうから、いっか。





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