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「音楽は世界を救う」のかーMrs. GREEN APPLEと令和4年

■ヒットチャートを賑わせる恋や愛の傍らで


今日もヒットチャートはたくさんの恋や愛で溢れている。
アイドルの歌う明るくて甘酸っぱいラブソングに留まらず、若者の間で売れっ子のミュージシャンがヒットを飛ばす曲も大体がラブソングだ。カップルの素朴でささやかな幸せを歌った流行りの恋愛ソングもそうだし、身を切るような切ない失恋の歌もそう。いつの時代も、演歌や歌謡曲の時代だって、無数の恋人たちの日々をいろいろなラブソングがBGMとなり彩ってきた。
ヒネクレ者で巷を色めかせる恋愛にはあまり興味がない僕にだって好きなラブソングぐらいはあるし、ラブソングを何よりも愛している、心から救われたという人も少なくないだろうから、具体名は挙げない。だけれど、ちょっと美しく無色透明推薦図書なラブが多すぎる気もする。もっとほかにも歌の題材に選んでいい議題が、僕たちの住む世界にはあるはずなのに。

フェスブームに伴うバンドブーム全盛期だった2010年代か、それより少し前の“ロックバンド冬の時代”なんて言われた時期には、自分の人生観や大事なひととの別れ、命の儚さなんかを歌いたい時にも、ラブソングに仮託しないと照れ臭い、または売れないというような風潮があったように思う(完全に主観だけれど)。様々なバンドマンが知名度の如何にかかわらず不滅のラブソングを歌い、そしてそれなりに売れていった。
そして未だにヒット曲の王道にはラブソングが溢れているわけだけれど、その傍らで“TikTok時代の新星!”だとか言われずとも、確実にドでかいファンダムを建設していたり、人気を確実に伸ばしつつあったりする若手のミュージシャンの中には、ラブソングとは少し違う主軸を持っているひとたちも確実に増えているように思えるのだ。

僕の好みの範囲になってしまうかもしれないが、たとえば『悪魔の踊り方』なんて明らかにラブではなさそうなタイトルの曲で注目を集めたキタニタツヤ。紅白でのサプライズも記憶に新しい藤井風くんも、素朴な言葉でどこか信仰的な思想をも感じさせる作詞が魅力的だ。バンドならヒリヒリするような若者のメンタルをカッコよく描き出しているな、と感じているのはDannie May、PEOPLE 1、あとNEEもラブと言うにはいささか乱暴すぎる(褒めてる)。よくよく考えたらあのKing Gnuだって、ブレイクしたきっかけの『白日』は人生の無常について歌った曲じゃないか。
思えば尾崎豊の時代からバーチャルミュージシャンの花譜ちゃんまで、カルト的な人気を集めているミュージシャンはラブソングが決して主軸ではない(いやラブソングの名曲も彼らは確実に持ってはいるけれど!!!)。彼らは照れ臭がることもなく、万人におもねることもなく、恋やら愛やらもひっくるめたその先にある、人生や命、青春の苦しみ、ひいては人間存在そのものについて歌おうと試みてきた。彼らが音楽で表現しようとしているのは、僕たちが生きるこの世界そのものだった。

■Mrs. GREEN APPLEはずっと“世界”を歌っている


Mrs. GREEN APPLEは、そんな世界そのものを歌おうと試み続けているミュージシャンやバンドの中でも、特にでかいファンダムを打ち建てているバンドだ。いわゆるバズった曲だってたくさんある。有名なところだとやっぱり『青と夏』だろうか。青春キラキラソングだが、その普遍的な感情の捉え方や情景描写(「風鈴がチリン」……の件が印象深い)には、今年遂に30代の大台に乗った僕もキュンとする。
彼らはその他の今時流行りの恋愛ソングなどと同様に、TikTokなどのSNSでヒットを飛ばし続けている。2年間もの間活動休止をしていたわけだが、その間も話題性が尽きなかったのは、そういう注目を浴びる機会が多かったからだろう。

しかし彼らの楽曲にずっと通底するテーマ性は、いわゆる万人に好まれるラブソングや恋愛ソングとは少し違った。今から何年も前、作詞作曲を担うフロントマンの大森元貴くんが17歳の頃から、彼らはずっと“世界”や“生命”、“人生”、そしてその中の一大イベントである“青春”を一貫して歌い続けている。

僕が彼らの音楽を好きになるきっかけは、『ナニヲナニヲ』『パブリック』『ミスカサズ』という3曲だった。もうこの時点で、お察しの方はお察しでしょう。拗らせ厄介古株ファンであると。『パブリック』の歌詞の比喩の巧みさ、深い人生や人間存在への含蓄に心臓を掴まれ、MVを観ながら号泣し、『ミスカサズ』の冒頭の青春の憂鬱を凝縮したような溜息に一瞬で引き込まれたクチだ。
『ナニヲナニヲ』も例外では無いのだけれど、彼らの楽曲には意外と性愛を匂わせる歌詞も多い。でもその生々しさは、全てが人間存在というものへの疑念や儚さへの想いを根源としていて、いわゆる“恋愛ソング”とは違った生々しさになっている。例えるならば、自分自身の内臓を目の前でかっぴらいて見せつけられるような、捨て身のグロテスクさだ。それが、20代前半の思春期をまだ引きずっている、捻くれて拗らせた僕の思考にぶっ刺さったのだった。

■“わからない”ことが多すぎるから拠り所が欲しい


僕が生まれて間もない頃、世界はある種の恐慌の最中だった。なんたってバブルが崩壊し、全てがデジタルに移行しつつある時期で、そこに加えて更に“ノストラダムスの大予言”なんてもんが広まっていた。あれを本気で信じていたというひとは僕の観測範囲でも少なくない。我が家は母親はじめそういったものを「胡散臭い」と笑い飛ばすタイプなので実害は少なかったけれど、当時の世間の、ほんのりとしたオカルトとカルトの境目がよくわからない怪しげな空気感は今でも覚えていて、そのせいか否か、僕は立派なオカルト好き少年に育ってしまった。

実際、あの時代はいわゆるカルト宗教ブームだったらしい。若者にとっては教科書やテレビの中の出来事に違いない、あの大きなカルト宗教教団による凄惨な薬物テロだって、記憶はないが僕が生まれてから起こった事件だ。その後、あの宗教団体のおかしな部分がどんどんとマスコミによってひとびとの衆目に晒されるようになり、僕の中にも「胡散臭えな」といったイメージが植え付けられ、お陰様でオカルトは好きだがカルトはしっかりと疑ってかかれる人間に育つことが出来たわけだけれど、それまでは確実に、あの教団だって誰かの救いになっていたんだと思う。そうでなければ、あんなに大規模な悪事を働くことなど出来ない。

不安なことが増えると何かに縋りつきたくなるように、世界に不安が溢れると、心の拠り所になるものを大勢のひとが求めるようになる傾向がある。芸術や音楽や文学もその“拠り所”になりうる存在だが、一番わかりやすいのが宗教だ。
宗教は「わからないこと」を取り扱うものなのだという。その「わからないこと」とは、たとえば不況、たとえば将来への不安、たとえばコンプレックス……「何をどうしたら解決するのかわからないこと」「原因がはっきりわからないこと」なんじゃないかと思う。世の中がわからないものだらけになると、僕たちはなにかに縋りたくなる。

わからないことをわかるようにしてもらうか、わからないまま受け入れていくか。この2択によって、求めるものが変わる。わかりやすい結論を提示してもらうために他人の力を借りるか、それともわからないことをわからないなりに、納得出来るように努力するための道しるべを提供してもらうか。宗教にはその2種類のニーズに応えるものがあるそうで、しかし僕はどうしても前者――わかりやすい答えを貰うための信仰、というのは「胡散臭い」ような気がしてしまう。だって人間誰もが思い悩み頭を抱え、高名な学者さんたちでさえも結論を出せないようなことに簡単な回答を示してしまうだなんて、そんなありえない回答は何らかの思惑を秘めた嘘としか思えない。
対して後者の役割は、いわゆる宗教だけでなく、芸術や文学、そして音楽をも果たしてくれるもののように思える。それらは「こういう風に生きていきましょうね(ニッコリ)」なんて優しく易しい具体的な答えを示してはくれないけれど、僕たちと一緒に悩み、隣にそっと座って良き友になってくれる。ミセスをはじめ、さっきまで触れてきた人生や世界や生活について歌うミュージシャンたちの音楽は、僕たちにとってそういう存在になってくれているに違いない。

復帰後の雑誌インタビューで、大森元貴くんは音楽について、フラットすぎるほど淡々とした語彙で語っている。

「人生において音楽を作ることって、結局は気を紛らわすためにやってるだけなんだなって」

『音楽と人』2022年8月号

自分の腹をかっ捌くようにしてポップスを生成するひととは思えない物言いだが、過去には「結局人生って暇つぶしなんで」とも話していた彼らしい言葉でもある。そしてそれは、終わりの時期もわからない、不可解なことばかりな、人生という名の前の見えない無限に思える有限の時間を過ごす僕たちも一緒だ。何らかの暇つぶしがないとやってられない。「わからないこと」について考えれば考えるほどに苦しくて、それを乗り越えていくために、たとえ一時的なものであっても納得するために、僕たちは大いなる“暇つぶし”を心の拠り所とする。僕たちの心の拠り所となってくれている音楽の作り手である彼ですら、その音楽を拠り所として生きているんだろう。彼にとってもまた、音楽はある種の宗教なんだ。

 

■ミセス復帰作『Unity』――人間らしい神聖さ


今年4月の復活、約2年以上ぶりに発表されたMVやアーティスト写真。正直めちゃめちゃびっくりしたし、僕と同様の感想を持ったファンはきっと少なくないはずだ。Mrs. GREEN APPLEは変わった。そんな“深い”話ではなく、単純にヴィジュアルがだ。今検索エンジンで彼らの名前を入力して画像欄をひと目見るだけで、多分彼らについてそんなに詳しくないひとでも一目瞭然だろうと思う。元貴くんにさえ「深海魚みたいな色」と言われたりょうちゃんの華やかな髪色。昔はサッカーに青春を捧げていた純朴青年の若井くんまで、すっかり薄いお化粧がよく似合うようになっている。「KPOPアイドルみたいになった」という意見も想像に難くないな、とは思った。個人的にはネオヴィジュアル系ブームド真ん中の時代を通ってきたクチなので、ヴィジュアルの変化に関しては割とすぐに受け入れられた。バンド復帰の前から元貴くんがソロ活動において、同じようなヴィジュアルで活動していてそれがとても美しかったのもあるだろう。
それ以上に見過ごせない変化は、やっぱりメンバー編成が変わったことだ。5人だったメンバーが3人になってしまうのは、やはりすぐには受け入れられない。

復活ライブと同日にリリースされたミニアルバムを配信で一足早く聴いてからライブに臨んだ。僕は彼らの存在を知った時既に彼らよりも(戸籍の上では)大人だったからか、彼らの音楽に秘められた思春期後半ならではのヒリヒリするような幼気のきらめきに、畏れにも似た神聖性を見出していたふしがあった。今作ではそれが以前よりも薄れているな……と感じたのが正直な感想。決して悪く言いたいわけではない。それが薄れても尚、聴き手を包み込むような優しさと、全曲に見事にまんべんなく溶かし込まれた“憂い”の成分が、ああミセスのアルバムだなあ、と感じさせてくれたからだ。
そしてそりゃ当たり前だ、とも思う。2年も経てばそりゃ人間は成長もする。ミセスは、そしてその楽曲の作詞作曲を担う大森元貴というひとは今この瞬間にも生きている人間で、神聖性を見出されるような架空の少年などではないのだから。在りし日の畏怖すら感じられる神聖性は薄れたけれど、それ以上にひとびとを教え導くような、人間味ある聖職者のような思想を感じられるのが、今のミセスの音楽だった。

そして思考が成長に伴い変わるならば、見た目だって変わるしファッションの嗜好も変わる。時代に合わせて変えることだってあるだろう。そして、その変化のなかで、ずっと一緒にいた仲間が、その場を離れてしまうことだって充分にあり得る。
でも、彼らは世界について歌い続けていて、それだけ彼らの存在に人生を救われているひとが多い。それはある意味での信仰で、信仰心が強ければ強いほど、その変化を受け入れきれないひともきっと少なくないだろうと思う。心の拠り所としている存在には、なるべく盤石でいてほしいからだ。

 

■最も“救い”を欲するのは若者、“推し”を救いとすることへの危惧


「青春時代の真ん中は/道に迷っているばかり」という歌詞の歌謡曲がある。大昔の、僕の両親が若かった頃の曲だけれど、言い得て妙だなと思う。いわゆる青春といわれるような学生さんだけでなく、若いうち、それこそ今の僕(※90年代前半生まれ)だって日々迷い続けながら生活している。人生経験が浅いひとがさまざまな選択に迷うのは仕方ないことだ、だってそれだけ思考のための材料が少ないわけだから。
だから若者に近い存在であればあるほどに、心の拠り所を求め、それに縋りつきすぎてしまう。大昔から大学構内で自己啓発セミナーなんかを謳ったマルチ商法が横行していることからもよくわかる。心の拠り所を欲しがるひとたちは騙されやすいから、それを利用しようというひとたちが現れるんだ。90年代の、カルト宗教ブームがあった頃だって、過激な行動の中心は若者だった。

だからといって若者みんなが悪質な何某に騙されるわけではなく、無理のない範囲でなにかしらを頼りに人生をサヴァイヴするわけだけれど、そういう中で音楽を拠り所とするひとも多いわけだ。ミセスのリスナーにもきっと、そうして彼らを救いとしているひとが少なくないと思う。
バンドマンやミュージシャンに限らず、最近では“推し”という概念が一般的になる――どころか近年稀に見るブームを迎えているのもあって、アイドルやボーカルグループのメンバーだとかを応援して、それを心の拠り所としているひとも増えた。この仕組みに当てはめると、推しはカジュアルな信仰、宗教と言っても過言ではない。得体の知れない流行り病や海の向こうでの戦争の気配が日々を脅かす現代に、昔ほどカルト的なものがカジュアルでなくなった(寧ろ負の部分が露呈してきている)現代に、カジュアルに縋りつけるものとして推しは最適だった。

でも、推しは人間だ。信仰の対象として体系的に確立されてはいない、生身の人間(または架空の人間)だ。どう転んでも人間なんだ。
オタクとして生活しているとよく見かけるのが「解釈違い」という言葉。いろいろな場合に使われる、一概に悪いものだとは言えない言葉だけれど、推しが自分の思い通りになってくれない時に使うオタクも少なくないように思う。そりゃ、推しが思い通りになってくれなかったら嫌いになってしまう場合もあるかもしれないよな。縋りつく杖が不安定じゃ、上手く立てないもんな。
でも、推しは人間だ。どう転んでも人間。たったひとりの生身の個人を救いとする覚悟は、あなたにあるのかと問いたいし、自分にも問い続けている。

 

■大森元貴がステージで泣いた

7月8日。バンドの結成日でもあるその日にライブ活動を再開したミセスを、僕は映画館で見届けた。どでかいアリーナでのライブだったというのに、映画館のスクリーンの前もお客さんでいっぱいだった。
目の前のお客さんたちよりもずっと大勢のひとびとを前にしながら、ライブ終盤のMCで、元貴くんは目を潤ませ、言葉につまりながらゆっくりと言葉を紡ぐ。指先で涙を弾き飛ばし、彼はなんと、嬉しそうに「やっと泣けた!」と声を上げたのだった。

「今までステージの上で泣いたことないから、自分がすごくドライな人間のような気がしていて……」



ピンクの葉が揺れる大木、ジャングルのような鳥の鳴き声、川のせせらぎ、葉の擦れる音。CGアニメーションの映像が流れるスクリーンを背にし、紗幕の向こう側に3人の姿が見えた時、ああ、帰ってきてくれたんだ、と僕はやっと心の底から喜ぶことが出来た。少しだけポーズを決めるふたりに対して、上手側に立つ若井くんが直立不動なのが彼らしかった。
きらきらと笑顔を見せ、全力でパフォーマンスを見せてくれる3人は数年前にライブで観た姿となんら変わっていなくて。『StaRt』のギターソロで若井くんが背中を反らせるようにする素振りも、一時たりともじっとしていない、背後のセット上段まで動き回りまくるりょうちゃんの姿も、観れば観るほどに懐かしさとも新鮮味とも違った、でも似ている感情で脳がオーバーフローを起こしていく。
元貴くんは黒い革のヒールシューズの踵を鳴らして、シフォンのワイドパンツの裾をひらひらと翻しながら踊る。パールのイヤリングを揺らし、ドレスシャツのリボンをつまんでおどける様子は、いでたちこそ驚くほど変わったけれどそれ以外は変わっていなかった。もともと凄まじいパワーを持っていた歌声はさらに迫力と繊細さを増していて、でも左手を腰に当てる癖は変わっていない。そもそもダンスだって以前から同様のパフォーマンスは披露していて、それが少し本格的になっただけだ。口角をくっ、と上げて笑う、夢の中のような彼の表情で僕たちは何度も幸せになれた。

彼は「やっと泣けた!」と、ステージの上で涙を流したことを喜びながら、「休んでいる間に、いろいろなことがあって。いなくなっちゃったひともいたりして」と、とても丁寧に言葉を選びながら話していた。パワーアップして復活しようという矢先でのコロナ禍、そして唯一無二だったはずのメンバーの脱退。きっと彼にとって、彼らにとって想定外のことが沢山あったことだろう。彼らが変わって、3人になってしまって、僕達はそりゃ寂しいけれど、一番寂しいのは彼ら自身であることを僕たちは忘れてはいけない。元貴くんがソロデビューした時でさえ、あーだこうだと少し勘繰ってしまったほどの僕は、音楽の宣教師のような彼がインタビューで「ソロデビューはメンバーへの僕なりの愛情表現」と話したことに、とてもほっとしていた。
人前で、涙を流せたことを喜んだ大森元貴さん。いつだってハッピーで可愛くてカッコイイ、Mrs. GREEN APPLEのボーカルでいようと努力を重ねてきたひとだから。いつだってメンバーの感極まる姿を、優しく母のように見守っているひとだから。彼の涙にもらい泣きする若井くんとりょうちゃんの顔を見ていて、僕も彼と同じように嬉しくなった。

 

■「汚れてしまう前に 大事に壊せますか?」


ライブも終盤近くに披露された『Part of me』のパフォーマンス時、元貴くんの声が珍しく裏返り、掠れていたのが印象的だった。花道の先端まで歩み出てきた彼はひとりピンスポットを浴び、ズボンを左手でくしゃくしゃになるほど握りながら、噛み締めるようにして歌う。さっきまで楽しそうに話したり、「泣いてんじゃん!!!」と感極まった表情を指摘しあっていた2人の姿が闇に隠れる。まるで、バンドというものに戻ってくる覚悟を決める前の、迷いの最中の孤独にいた彼を可視化されたような気持ちになった。大サビの前の「愛されたい」のロングトーンが捻れ、掠れ、それでも伸び伸びとアリーナに響き渡っていく。いつも美しく朗々と透き通った声の彼が。きっとどんな声になったとしても、ひと思いに歌い切りたい曲だったんだろう。

背中を向け、白い光の中に吸い込まれるようにして去っていく、決して大きくはない後ろ姿。MCで、「敢えて逆張り的にこの姿でここに立ってる」「なんだか、不思議な世界線にいるような気がするね」と、訥々と話していたことを思い出す。過去のバンドの姿を背負ったまま、フェーズ1フェーズ2と区切らずにその延長線上に帰ってくることも、彼らなら出来ただろう。でも敢えて、ガラッと違う姿をして帰ることを彼らは選んだ。ヴィジュアルを音楽表現の一部として完璧に仕上げ、今までありそうで本格的にではなかったダンスパフォーマンスも取り入れて。
きっとこの宇宙のどこかの世界線には、まだ5人で活動するミセスがいるのかもしれない。だけど、“あの頃”そのままの5人でいてくれているとは限らない。

音楽は信仰になる。それは、その音楽を生み出す音楽家(ミュージシャン)の心の拠り所にもなるほどに。ひとを、世界を救うだろう。しかしそれは個々の心の持ちように委ねられる。音楽を作るひとは、それを表現するひとは、推しは、世界を救えるようには出来てはいない。賢固でどんなに寄り掛かろうとも折れない、どんなに時間が経とうとも材質の変わらない杖ではない。変わってしまうこともあるし、折れてしまいそうになることだってあるんだ。それをわかったうえで、僕たちは信仰を続けないといけない。

彼らが今年の春に発表したのは、復活の狼煙としてあまりに完璧なポップスだった。『ニュー・マイ・ノーマル』。歌詞の中で、「汚れてしまう前に/大事に壊せますか?」と元貴くんは歌う。
彼が「青春だった」と言った、5人のミセスが素朴に繋いだフェーズ1。僕たちは未練を抱くのではなく、これからも愛していくために「大事に壊」さないといけない。変化を受け入れ、それごと丸ごと愛していくために僕たちだって努力をしないといけない。たくさんの救いを得ながら、それをライブや音源の代金といった金銭でしか返さないのは道理が違うだろう。

僕たちの心が盲目にならない限り、彼らの音楽は、僕たちの世界を救ってくれるんだと思う。

 

■参考文献

・『音楽と人』2022年8月号
・富山常楽寺『宗教はなぜあるのか?なぜ信じるのか?なぜ生まれたのか?』

・神仁『オウムに魅かれた若者たち』

・連載文春図書館 著者は語る『人類はなぜ“宗教”を生み出したのか キリスト教が“成功”した理由』


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