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ソウルフィルド・シャングリラ 第四章(2)

承前

 食後。あまりたくさん食べることはできなかったが(顎が疲れる!)、それでも困憊の窮みにあった体に滋養の補給は殊の外効いた。悠理は体重を預けると沈みっ放しになる底なし沼のようなソファに座り、波状に押し寄せてくる睡魔と戦っていた。
 眠るわけにはいかない。
 ここで眠るのはだけは、いけない。
「眠りたければ好きにして構わない。僕は見張りをしているから」
 護留はこんなことを言っているが――しかしさすがに、ほぼ初対面の異性の前で眠るのは女としていかがなものだろうかいやここにきた時も眠ってしまったけれどあれは不可抗力みたいなものでというかお祭りが愉しみすぎて前日ろくに眠れなかったからだし市長さんの話は長くてたいくつだったしねむるのはいけないのにさっきも寝たばっかりだけどごめんやっぱりねむい……
 すー。
「……寝つきがいいな」
 考えてみれば当たり前だ。人生で一度も外に出たことがなかった少女が、テロ直後の凄惨な現場や、銃を持った兵士たちに追われたら疲れもするだろう。雨の中をそのまま走り抜けてきたから体力の消耗だって相当なはずだ。弱音を吐かないだけでも称賛物かもしれない。
 出入り口やその周辺にハリネズミのように仕掛けてあるセンサーの数値が送られてくる手元の計器をちらりと見やる。異状無し。
 ここは廃棄区画の地下100ートルにある地下居住区の廃墟だ。はるか昔に大規模なナノマシンの暴走事故が起こり封印されたらしい。それでもナノマシン汚染の少ない地域にわずかに人は住んでいる。護留がここに住み着いてから四年と半年、地上ではあれほど傍若無人に振舞っている市警軍が侵入してきたことは一度もない。
 もし当局が護留たちが地下に逃げ込んだという手掛かりを掴んでも、幾つもの階層に分かれ、地上の空間より遥かに広いここを全て探索するのには相当な人手と時間がかかるだろう。
 悠理暗殺のためにあそこまでやった天宮が相手だと、確実とは言えない。だが少なくとも即座に発見される恐れは低い。
「しかし、これから先どうしたものかな……」
 悠理の言うことが事実ならば、確かに天宮との交渉など無駄だろう。悠理がこちらにいれば、空宮やその他の大手企業ならば取引に応じるかも知れない。だが、
「――気が、進まないんだよな……」
 そういう問題でないことは勿論理解していた。しかしフライヤーの中で聞いた、〝『Azrael-01』の守護を第一優先事項として行動せよ〟という頭の中の声に従わなければという気持ちがどんどん湧き起こってくる。
 護留は彼女に既に親しみさえ感じている自分を発見して呆れ、苦笑する。
 頭の中の声に従うなんて、まるで誇大妄想狂〈メガロマニアック〉だ。傍から見たら護留は全く狂人そのものだろう。理解者などいない。
 いや、悠理なら――天宮の当主であり、『Aarael-01』であるらしい――彼女なら、あるいはわかってくれるのかもしれない。
 当面は悠理から情報を聴取していく必要があるだろう。それが終わってからは――それから考えよう。
 ソファの正面に置いた錆びついたパイプ椅子に深くもたれる。室内にある家具らしい調度はこの椅子と今悠理が寝ているソファ、そして作業台としても使っている木製の机くらい。流し台は部屋の隅で古道具の地層に埋もれていた。生活臭が酷く乏しい空間。それはこの五年の護留の生活を象徴するようだった。
 暇なので悠理の寝顔をなんとなく眺める。口からよだれを垂らして熟睡している。
 ……果たしてちゃんとした情報を彼女から得ることができるのだろうか。
「眞由美……」
 そこはかとない懸念を護留が浮かべた時、悠理が寝言を呟いた。先ほどまでは日向で眠る猫のような顔をしていたのが、苦悶に満ちた表情に変わっている。
 今にも泣きそうな顔をしているにも関わらず、涙は溢れず目元は乾いたまま。まるで、夢の中ですら泣くのを我慢しているかのように。
「大人なんだか、子供なんだか……」
 フライヤーの中で見せた威厳、先の会話での稚気。天宮悠理がどういう人間なのか良くわからない。五年以上追い求め、様々な情報を調べてきたが、自分は本当に彼女のことはなにも知らないのだなと改めて気づく。
「――もまる」
「えっ?」
 唐突に名前を呼ばれ、焦る。続けて不明瞭な寝言。思わず聞き取ろうと護留は身を乗り出す。
「――っておい!?」
 そこに狙い澄ましていたかのような動きで、突然悠理がガバっと護留のことを抱きすくめた。
 地下は地上とは違い、人の体表面の老廃物や増えすぎた常在菌を捕食分解するナノマシンがいない。そのため、ほとんど嗅ぐ機会のない他人の――それも年頃の女の子の体臭が鼻孔いっぱいに広がる。
 細い腕のどこにそんな力があるのか護留が身を捻ろうとしてもびくともせずどうにか外そうと足掻いていると、
(阿頼耶識層へのアクセスを確認……承認)
 頭の中で声。同時に周囲の景色が捲りあげられていく。
「はあ!? なんでこんな時に! ちょっと待て、おい!」
 幻覚が始まった。

 気が付くと、護留は小綺麗なオフィスの中に佇んでいた。
 そう、佇んでいたのだ。引瀬由美子の主観でもなく、ただ客観的に眺めるでもなく――能動的に動ける体を得て、護留はそこに存在していた。
・――昨日の、『完全起動』とやらの影響なのか、これは?――・
・――やはりあなたも来たんですね、護留さん――・
 振り返ると、そこには悠理がいた。
・――あれ? あまり驚かれないんですね――・
 正直、予想はついていた。昨日の〝声〟によれば悠理こそは『Azrael-01』、護留と恐らくは同種の存在なのだから。こうやって幻を共に見るのもおかしくはないだろう。思いついて、質問してみる。
・――ここに来る時、君にも?――・
 敢えてぼかして尋ねたが、悠理ははっきりと頷いた。
・――はい。阿頼耶識層へアクセスすると聴こえました――・
 想像していた通りの答えだったが、続く言葉は護留の想像を越えていた。
・――阿頼耶識層は、ALICEネットの最上位領域です。澄崎市の全データが格納されている場所で、失効テクノロジーはおろか発散した技術すら喪われずにここにはあるとまことしやかに言われています。公社にいた時の私の権限では到底アクセス不可能だったエリアです――・
・――ALICEネット? ここがか?――・
・――間違いありません。今こうして行っている会話もALICEネットを介した共時性通信ですし、私の姿も精神擬体〈アバター〉になっています――・
 言われてみれば、悠理は先ほどまでの黒いドレス姿でなく、白衣のような公社の制服を着ている。胸には天宮の社章が刻まれたピンバッジ。周囲にはフワフワとホログラムの御使い達が浮かび揃って喇叭を吹いていた。
・――僕はALICEネットが使えない……はずだ――・
 言い淀む。悠理の乗っていたフライヤーを開いた時のことを思い出したからだ。いや、この幻がALICEネットに接続して見えているものだとしたら、護留はずっと以前から使えていたことになる。
・――私も接続するのは初めてですが、ここに繋がるためにはエナンチオドロミー処置と呼ばれる施術をする必要があるんです。その処置を行うと一般領域――末那識〈まなしき〉層と呼ばれる部分からは不可逆的に連結が解かれ、接続が不可能になります。処置されていない私がここに来られているのは、ALICEネットとの接続を切っているからかもしれませんし、多分――いえきっと、あなたと一緒にいるからだと思います――・
 悠理の言うことが正しければ、護留がALICEネットに接続できなかった理由も判明する。エナンチオドロミー処置なるものなど受けた記憶はないが――五年より前に受けていたのかもしれない。
・――あっ!――・
 悠理が声を上げ、指を差す。そちらに視線を向けると、オフィスのドアが開き、女性が二人入ってくるところだった。見つかるかと思い咄嗟に身を隠そうとするが、こちらを完全に無視して二人は会話を始めた。
・――動き回れるだけで、昨日の幻とそんなに変わらないようですね。こちらからの介入は無理みたいです――・
・――ならとりあえず、静かに見るとするか――・
「いやーついにあんたたちも結婚とはおめでたいわね。しかも哉絵〈かなえ〉が妊娠までしてるなんて――雄輝〈ゆうき〉とあんたは見ててずっとヤキモキさせられてたけれど、やることはやってたのねぇ」
「ちょっ、由美子先輩、声、声落としてください!」
 女性のうち一人は、もはや護留にとっては馴染み深い存在である引瀬由美子。もう一人、哉絵と呼ばれた女性は――微かに記憶にある。以前護留が少年の死体漁りをした時に見た幻で、最期に扉の向こうから駆けてきた三人のうちの一人だった。
「もう、先輩おばさん臭いですよ! 前はもっとこう、クールビューティって感じだったのに……」
「ほほう? 哉絵も言うようになったわね? まあでも確かに私も自分で歳を取ったなーって思う時は増えたわあ」
「いえ、自分で言っておいてなんですが、由美子先輩はまだ充分お若いと思いますけど……一昨日も徹夜でみんなの実験データをまとめてくださいましたし。助かりました」
「あーあれはいいのよ。理生の大バカ野郎があんたたちのデータを私に渡すのを一週間も忘れてたのが悪いんだから。これから一週間あいつはみんなのドレイだから。好きにコキ使っていいわよ」
「いえ、それは悠灯先輩に悪いんで……遠慮しときます」
「ていうかそう、徹夜よ! まだその疲れが抜けきってないのよ! 若い頃は二徹三徹もできたのに、これが老いかーって実感するわあ」
「疲れてるのなら、第壱実験室の冷蔵庫に悠灯先輩お手製の栄養ドリンク剤がありますよ」
「本当? じゃあ後で頂くとしましょうか。先輩のは凄く良く効くからなあ。ただ成分を聞いても笑って誤魔化されるのがコワイんだけど……」
「あはは……」
「そう言えば、子供のもう名前は考えてあるの?」
「いえ、まだですけど、先輩達に倣って眞由美ちゃんみたいに私たちの名前から一字ずつあげようかなと」
 平和で楽しそうな会話。今まで護留が見てきた幻――そのほとんどは断片的な物だったが――からは感じられなかった雰囲気に戸惑いを覚える。隣の悠理は真剣に見入っていた。
 その時、オフィスの扉が騒々しく開け放たれると、嬌声と共に子供が一人駆け込んできた。
・――あれは……――・
 悠理が思わず駆け寄った。護留も一歩遅れて後を追う。
 新たにやって来たのは、五歳前後の女の子だった。だが、どことなく見覚えがある。
・――眞由美……――・
 悠理が震える声で呼ぶ。そう、昨日の幻で見た引瀬由美子の娘だった。
 悠理は感極まった様子で肩を震わせている。一体どういう関係だったのかは知らないが、大切な人だったのだろうということは話ぶりからは護留にも分かっていた。
 だが悠理は何やら「はぅっ」と吐息を漏らし、
・――か……――・
・――か? どうした大丈夫か――・
・――かわいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!――・
 力の限り叫んだ。
・――かわいい! かわいい! かわいい! え、うそこんなに小さい眞由美とか! すごいちょこまか動いてるし! あー抱きしめたいよーこねくり回したいよー――・
・――お、おい、とりあえず落ち着け……――・
 眞由美を何度も捕まえようとする悠理を制止し、それ以上の凶行をとりあえずはやめさせる。
 悠理は我に返ったのか、深呼吸をし、
・――……お見苦しいところをお見せしてすみませんでした。以降気をつけます――・
・――本当にな――・
 半眼で睨めつける護留から目を逸し、悠理はアバターに汗を垂らしながら幻のほうに視線を固定する。
「おかーさんおかーさん! まゆみがここにかくれたこと言わないでね!」
「はいはい。誰とかくれんぼしてるのかな、眞由美は?」
「えへへーあのねー花束〈はなたば〉おねーちゃん!」
・――えっ……――・
 眞由美が緩みっぱなしだった顔を一気に青褪めさせた。表情すら消え失せていく。
・――どうした。花束って名前に心当たりが?――・
・――はい、それは……――・
 カーテンの後ろに眞由美が隠れると同時に、またもやドアが開き笑顔の女性が入室してきた。
「まーゆーみちゃん! って、あら、由美子先輩と哉絵、ここにいたの?」
「プロジェクトも大詰めだからねー。たまにはこうしてのんびりしないと。あんたはなにしにきたの、花束」
「ああ、眞由美ちゃんとかくれんぼしてたんですよ。来ませんでした?」
「んー? さあ見なかったなあ。哉絵は?」
「私も見てませんね」
 二人がそう答えると、カーテンからくすくすと笑い声。花束はにっと笑うとカーテンを大げさにめくり上げた。
「きゃーっ」
 嬉しそうに叫ぶ眞由美。それを見ながら悠理はついに口元を抑え床にうずくまってしまった。
・――おい、大丈夫か?――・
・――すみません、これ以上は……駄目みたいです――・
 悠理のアバターが揺らいだかと思うと、辺りの景色も薄らいでいった。

(阿頼耶識層からの切断処理を確認……承認)
 柔らかい感触。ついで匂いが戻ってきのを感じる。幻覚から覚めた護留はまだ悠理に抱かれて固定されたままだった。それどころかますます強く抱きしめられる。
「なんで――眞由美と〝あの人〟が、あんなに仲良く……」
「深刻になるのは構わないが、とりあえず離してくれないか」
 腕をタップしながら護留が控えめに言うと、悠理は慌てて外してソファの上で身を引いた。
「な、なんで護留さんを抱きしめてたんですか私!?」
「真剣に僕の方が聞きたい」
 護留はようやく開放されて大きく息を吐く。つとめて悠理の匂いを意識しまいと大袈裟な深呼吸をした。
「この幻覚は、いったいなんなのでしょうか」
 そんな護留の様子にも気付かず、悠理はまだ血の気の戻らぬ顔で問う。視線の焦点はあっておらず、そこに見えない誰かを求めているようでもある。
「それも――僕が聞きたいくらいだ。僕は、僕に関して何も知らない。さっきの花束って人は、誰なんだ?」
「――母です」
「え?」
「私の――母親です。五年前――あることがきっかけで病床に就き、以来ずっと意識が戻りませんが……。あれは確かに、私の実の母親です。
 天宮花束。
 憎むことすら出来ない、私の仇」
 悠理は、腐った血を肺腑から絞り出すような声で答えた。

(続く)

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