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ソウルフィルド・シャングリラ 第四章(1)

承前 目次

第四章 ふたりの日々 Two Souls, One Life


西暦2199年7月2日午前8時00分
澄崎市南西ブロック海面下居住区内、第2階層、〝護留のねぐら〟

 目覚めたら、一人だった。
 悠理はぼう、としばらく寝起きの視界が安定するのを待った。焦点が段々合ってきて、
「――ふゃ。ぁら、れ?」
 見慣れない天井が目に入ってきて、悠理は慌てて飛び起きた。
 薄暗く湿った場所だった。壁際にぐるりと一様に錆ついたコンテナが無造作に積まれている。窓はなく照明器具さえも見当たらないが、建材や塗料に増光素子が入っているらしく不自由はない。床には汐臭い水溜りが幾つかあった。雰囲気からして、廃棄された倉庫のようだ。
 悠理はそんな空間の中央に置かれた、スプリングの壊れたソファの上で毛布に包まれていた。毛羽立ってはいるが、清潔だ。
 換気ファンがゴンゴンゴンと回転する鈍い音が遠くから聴こえるくらいで、辺りはとても静かだった。
 ――えーと?
 記憶が、どうもはっきりとしない。だけど、不安は感じない。考えるのは副脳が論理フレームを立ち上げて最適化を開始するのを待ってからゆっくりとでいいや……。15歳の女の子が考える休日の過ごし方ではないけれど、だって眠いし眠いしねむいし
「起きたのか。おはよう」
「ひっきゃあ?」
 至近から聞こえた声に、悠理は力の限り力の抜けた悲鳴を上げ、器用にも毛布を体に巻きつけたまま10センチ程ぴょんと跳ね、そしてソファから転げ落ちた。ごっ、といい音を響かせコンクリート打ちはなしの床に後頭部を強打する。とても痛い。
「――大丈夫か?」
 酷く冷静な声が降ってきて、それが余計に悠理を焦らせた。油火災に水をぶちまけたようなものだ。混乱した頭の中身そのままに体を無茶苦茶に動かす。
「え、あ、ええええええと!」
 毛布がなんだか三次元では絶対にありえない感じに絡まってしまい、悠理は床の上で芋虫の如く這いずってなんとか立ち上がろうとするが失敗した。こけて床に臀部を強打する。すごく痛い。
 そこに、手が差し伸べられた。
「あ、」
 一瞬ためらい、
「――ありがとうございます」
 手を取った。温かくも冷たくもない、乾いた掌だった。悠理は助けを借りて、するりと毛布から抜け出し、一息吐く。そこにまた冷たい声が被された。
「手」
「あ、ご、ごめんなさい」
 悠理は慌てて握りっぱなしだった手を離す。そしてその時になって、初めてまともに声の主の顔を至近距離で見た。
 少年、だった。酷く嗄れた声だったので、もっと年上だと思っていたので瞬きをする。
 悠理がまじまじと少年の顔を見つめていると、顔は不機嫌そうに歪んだ。
「――言いたいことは分かる。声だろ。昔、潰れたんだ」
「ああ、いえ。ええと――一応お聞きしますが、ま――あなたが私をここにお連れしたんですよね?」
 護留さん、と名前で呼ぼうとして、結局呼べなかった。今まで同年代の人間との会話など皆無だったので距離感が取りづらい。
「寝る前に顔を合わせてからまだ半日も経ってないけれど、もう忘れたのか君は? それとも下賤の輩の顔を覚えるのは苦手でいらっしゃるか、天宮の新当主殿は」
 あんまりな物言いに悠理はさすがにカチンと来る。
「仕方ないじゃないですか! フライヤーの中は暗かったからよく見えなかったし、その後ここに来るまでもなんかもう色々あって――色々あったんですから!」
 叫んでいると身体が覚醒プロセスを加速させ、昨夜の記憶が段々と蘇ってきた。
 市警軍の追手の群れを、護留が文字通り血路を拓いて躱し、南西ブロックの廃棄区画のマンホールから地下に潜ったのだ。
 地下は悪性変異したナノマシンが除染もされずに放置された墓場のような空間だと思っていた悠理は驚いたものだが、真っ暗な地下を全く容赦無い速度で進む護留に手を引かれて着いていくのに精一杯で、それでここについてソファを見つけたら家主に一言断りも入れる間も惜しんで倒れこみ、記憶はそこで途切れている。
(男の人の前で寝ちゃってたんですか私は!!!!)
 勝手にこの部屋で唯一の寝具らしい寝具を占拠した挙句に、だ。
 羞恥心と苛立ちで副脳の心理評価マネージャーもダウン寸前だ。
「……そうだな、色々あったな。僕の言いかたが悪かったよ、ごめんな」
 悠理の勢いに護留は少し気圧された。それを見て溜飲がすっと下がる。
「――なんだか小さい子をあやすような口調なのが気に入りませんが、特別に許しましょう。私は小さなミスには寛大な上司だと開発室の部下にも評判だったのですよ」
 満足そうにうんうんと頷く悠理。
 護留は小さく溜息を吐く。想像していた性格とまるで違った。本当にこれが天宮家の当主なのだろうか。
「それで改めてお聞きしますが、ここは、一体どこなんですか?」
「……そんな情報を人質に教えるとでも思うのか?」
「えっ? 私人質だったんですか?」
 今度は護留が悠理の顔を凝視する番だった。
「だって別に拘束もされてないですし、それに――私を助けてくれましたよね?」
 ここまでの逃亡中、もちろん天宮や市警軍の追手はきた。想定以上に少なかったので無事この護留の隠れ家まで辿り着くことができたのだが、その最中で幾度か戦闘になり、悠理の言うとおり護留は彼女を守って追手を撃退した。
「――君は大事な人質だから、そりゃ護るさ」
「あなたの言う『人質』というのがまず成り立たないと思うんです。だって、私の……暗殺を頼まれたんですよね。天宮、から。でしたら情報をくれなければ殺すって脅しても無視されて終わりじゃないですか?」
 悠理は淡々と他人事のように言った。
「……天宮も一枚岩ではないだろう。君を支持する派閥だっているはずだ。それに今回の君の即位は、前当主である君の父親からの推挙があったと聞くが」
「私を支持する人なんて、公社の社員と親族の中に、一人もいません」
 悠理は断言した。寂しさや悲壮さを感じさせない、ただの事実を再確認するようにごくあっさりとした口調で。
「そして――暗殺を依頼したのは、恐らく父です」
「それは――」
「フライヤーの中であなたが私の殺害を頼まれたと聞いた時に、すぐに理解しました。
 私は、生まれてから一度も公社の外に出たことがない。他ならぬ父が私をずっと閉じ込めてきたのです。それをお披露目のためにいきなり外に出すのはなぜかと疑問に感じていましたが――他の目のうるさい社内でなく、社外で殺すためならば、しっくりときます」
「――ちょっと待て。一度も外に出たことがないというのは本当なのか?」
「ええ。学業も全て通信授業でしたし、仕事場ももちろん社内でしたから。家族での旅行などは全くありませんでした」
「だけど、それなら……」
 なぜ自分は、悠理の顔を見て〝懐かしい〟と感じるのだろう。今こうして会話しても、攫ってきた悠理に対して、天宮に抱く言いようのない憎悪を感じることはない。それは多分にこの懐旧の念が影響している。
「……? とにかくあなたが今現在私を人質に取っておくメリットはありません。今私を殺しておけば恐らく暗殺の成功報酬として天宮から莫大な額が支払われるでしょう」
 淡々と言ってのけた悠理に対し、護留は眉をしかめる。
「今ここで君を殺した方が、僕にとって得だと。そう勧めているのか?」
「――はい」
「君はそれでいいのか? ならず者に攫われるくらいなら自害すると言い切った君が、僕についてくることにしたのにはそれなりの理由があるんだろ」
「……あの〝幻〟を見て、確信したのです。私の知りたかったことは、外の世界に――いえ、あなたが知っているのだと。
 ですが、『引瀬』の姓を持つ者に殺されるのなら。それは仕方のないことだと私は受け入れます」
「――引瀬由美子に、引瀬眞由美か。彼女たちについては、僕も知りたい」
「あなたは二人を知らないのですか? ではあなたの名はただの偶然だということなのでしょうか」
「偶然ではない、と思う。引瀬由美子の幻については以前から見ていたから。君の言うとおり、ひょっとしたら僕は引瀬眞由美の弟なのかもしれない」
「言い方が曖昧すぎてよく分からないのですが……結局あなたは――何者なのですか? 天宮がわざわざ私の暗殺にあなたを指名したことを考えると、ただ者ではないのでしょうが」
「そんなの、僕が聞きたいくらいだ。僕には、五年より前の記憶が一切ない。五年前、路地裏で〝一人〟で目覚めたのが最初の記憶だ」
「五年、前……」
「そうだ。他人がこの幻を見たなんて初めてのことだし、失われた過去を取り戻すためにも、君は生かす。大体君を殺しても、恐らく報酬の代わりに銃弾が送られてくるのは目に見えてる。僕は多分、あの爆破テロの犯人に祭り上げられているだろうしな」
 それに僕にはどうせ人は殺せないしな――という言葉が肺から漏れることはなかった。
「――わかりました。それでは、不束者ですがこれからよろしくお願いします」
 居住まいを正しぺこぺこと丁寧に頭を下げる悠理。三度もお辞儀をするのは天宮独特の作法か何かだろうか。
「あ、ああ。よろしく」
 距離感の取りづらい娘だ。天宮家当主に相応しい威厳や知性を確かに垣間見せることもあれば、こうやって急に砕けた素振りも見せる。
「あの、ところで――」
 きゅうぅぅぅ。
 静寂の中、悠理のお腹が鳴る音はよく響いた。
 悠理の顔色が赤くなり、次いで蒼くなり、そして白くなって、最終的に真っ赤になった。
 ――これが、本当に天宮家当主なのだろうか?
 護留の再度の疑念を裏付けるかのごとく、悠理は酸欠の金魚のように口をしばらくぱくぱくさせた後猛烈な勢いで言い訳を始めた。
「あ、あのこれは違うんですその! あなたが連れて行ってくれるって応えてくれてやっぱり私の居場所がばれちゃまずいだろうなと思ったんでALICEネットの接続を切ってるからエネルギー補給も受けられなくてお祭りだからおいしいものたくさん食べられるのかなあと思ったら全然そんなことないしお披露目の儀式めちゃくちゃ長いしずっとりんご飴の味のこととか考えていて立ちっぱなしだし人といっぱい話もしたしで疲れてて私もともと小食なんですけどお祭りのために更に我慢してたせいでつまり今猛烈にお腹が空いているんですが普段からそんないやしんぼうではないんです断じて信じて!」
 護留は溜息を吐く。
 ぐうううぅぅ。
 そこに追撃のように再度鳴る悠理の腹の虫。
 酸欠の金魚から死んだ金魚にランクアップした悠理はもう押し黙り、ただただ涙目で自分のお腹を押さえつけている。
「安心しなよ。りんご飴を二本いっぺんに食べようとしても、いやしんぼうではないそうだから」
「はひ?」
 悠理の肩を叩き、
「――取り敢えず、朝ごはんにしよう」
「ひきゃあ?」
 悠理は軽く叩かれただけで勝手に飛びあがり勝手にまたこけた。

 悠理の悲鳴が再度響き渡ったのはそれから五分後のことだ。
「ちょ、ちょっと! 一体あなたは一体なにを一体しているんですか一体!?」
「落ち着け。今『一体』と四回も言ったぞ君。天宮語か? 僕は肉を焼いているだけだ」
「に、肉って。それ、電池……」
「電池じゃなくて、有機発電機だ。IGキネティック制御で回転する筋肉の塊。自分の会社の商品も知らないのか?」
「それくらい知っていますよ! けど、」
 護留は悠理を無視して金串に刺した青黒い肉片をトーチで炙り出した。有機発電機を喰うのは、廃棄区画の非市民でさえ悪食と呼ばわる行為だ。上流階級の人々にとってはそれこそ泥を啜ったほうがまだマシだと言うだろう。だがALICEネットからのエネルギー供給を全く受けることができない護留は、食える物ならなんでも食べる。悠理暗殺の前金として受け取った金は工作費等にほとんど費やしてしまったので、食料の備蓄もそろそろ乏しくなってきていた。
「ほら」
 差し出された肉片は未だぴくぴくと動いていて、何とも形容しがたいケミカルな臭気を撒き散らしている。
 悠理は頬を引き攣らせ、串と護留の顔を交互に見る
「ああ、心配しないで。毒はないよ」
「それも知ってます!」
 悠理は涙目で護留を見るが、彼はコンロで熾した火の上で、サイコロ型に切り分けた肉片をフライパンで炒めるのに忙しいようだった。
 ――ううううう。
(お祭りの食べ物愉しみにしてたのにぃ……)
 悠理が行った侍女や部下たちからのさりげないリサーチや、権限を最大に用いてのALICEネットでの検索の結果、祭りの屋台ではこれに似た串焼き肉はポピュラーな軽食として親しまれていることは知っていた。
 知っているが故に理想と現実のギャップを受け入れがたい。事実を受け止め切れない。
 だがエネルギー供給が絶たれた今早く何かしら食べないと倒れてしまうのもまた、現実なのだった。
 かつてない煩悶の渦に叩き込まれた悠理は、冷や汗をたらーっと流しながらも受け取り、手にした焼肉を凝視する。それはやはり悠理に取っては食物ではなく、ヘモシアニンが含まれた青黒い有機発電機のバラパーツだ。副脳が勝手に肉串のカロリー計算を始めたのでプロセスをキルする。
 ――これ、食べないとやっぱり失礼なのかな……。
 結局は空腹よりも、施された物は無碍には出来ない育ちの良さに負けた。
 息を止めて、そうっと口先に持っていく。だがそれでも焦げた人工蛋白の特有の異臭は鼻腔に侵入してくる。決心が鈍るが、もうなるようになれと捨て鉢な気持ちで悠理はそれを口に含んだ。目を強く閉じて、急ぎ咀嚼するが、
「か、かた……」
 中々噛み切れない。味は――思っていたより悪くはない。鮮度の悪い海鮮類のような匂いが鼻をつくが、それさえ我慢すれば何とか食べられる範囲だった。だがとにかく固い。有機発電機の筋繊維が丈夫なのは知っていたがこれ程とは。自社製品について一つ詳しくなったなと自嘲する。
 噛み切れないで口腔内に残った繊維をどうしようかと悠理は考え込んだ。吐き出すのはさすがにダメだろう。天宮の当主として。いやそれ以前に女の子として。護留はどうしているのだろうかと思い、対面を見ると、
「ま、護留さん? 一体なにを一体食べているんですか一体!?」
「今『一体』を三回も言ったぞ。見たままのものを食べている」
「いや、そう言うことじゃなくてですね、いえ、そうですけど」
 護留は、生の肉片に齧りついていた。
「――お腹、壊しませんか?」
「大丈夫だ。こっちの方が食べやすい。焼くと固くなるから」
 へえ、と納得しかけて悠理は思い直し、
「……分かっていて、私には固い肉を?」
「君が構わないのなら、生で食べてみるか。不味いけど」
「……遠慮します」
「賢明だ」
 護留は大真面目な顔で頷くと、新しい生肉に手を伸ばした。
 悠理は黙って、口の中のものを床に吐き出した。

(続く)

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