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ソウルフィルド・シャングリラ 序章(4)

承前

 雨は止む気配を見せず、都市は白く烟〈けぶ〉っている。
 少年はソファに腰を下ろし、ナイフを手で弄っていた。刃が手を傷付け、その度に筋繊維や血管が飛び出し不細工に傷口を塞ぐ。そのせいで少年の両手は上から肉の網で縛りつけたように、膨れ、歪んでしまっていた。
 不意に爪の隙間から飛び出した肉の帯がナイフを弾く。ナイフは重力に引かれ、きん、というあの美しい澄んだ音を、
 ぱきっ
 ――響かせなかった。かわりに、枯れ枝が折れるような乾いた音がした。
 虚ろだった少年の目が、にわかに生気を取り戻し、そして動揺の色に染まる。母さんのナイフが、どこか壊れてしまったのだろうか?
 慌てて拾い上げるが、特に異常な部分は見受けられなかった。だが、ほっとした次の瞬間、刃の部分が丸ごと滑るように流れ落ちる。
「え、あ? わう――」
 焦って意味のない呟きが漏れ――そして少年は愕然とした。自分の声がまるで老人のようにしゃがれていたことにではない。落ちたナイフの刃に対しての驚愕だった。そして、
(始端〈オープニング〉フラグの認識を確認。魂魄解凍開始)
 頭の中で〝声〟が聞こえた瞬間、眼前以外の景色が吹き飛んだ。少年の中で超高密度の情報が高速で展開され、根を張り始める。それは少年の存在を根底から変え、組み直していく。
 ・――ナイフの刃は、白銀色の、比重の大きそうな流体へと変化していた。E2M3混合溶液。〝ヘルメスの水銀〟とも呼ばれる、超高性能ナノマシン群体の液体相。擬魂〈ぎこん〉制御により刃形に成型され、抗老化処置や魂魄整型手術などに用いられる、亜生体〈デミバイオ〉メス。形態解除されたことにより酸化が始まっているが――微弱過ぎる。一度使用された痕跡が認められる。正規の環境基準を満たしていない空間で、擬魂による超稠密〈ちゅうみつ〉制御ではなくそれより粗雑な、人の魂魄と精神接続して使われたようだ。起動ログによると、これの視認が『じぶん』の始端フラグの一つとして設定されていたらしい。ナイフに執着したのはそのためか。――目が翳む。全身の感覚器の能力を観測のために数倍に引き上げたのが原因となり、ゲシュタルト崩壊が起こっている。脳、精神、そして魂に過負荷が発生中。ハイロウ内での反魂子〈はんごんし〉生成が停止している。素体維持のための閾値が得られない。警告〈アラート〉。内丹炉機構〈リアクター〉に異常。トラブルシュート開始……終了。内丹炉群の半数以上が壊死している。先の素体の破損、それに伴う超再生現象〈モルフォスタシス・フェノメナ〉が原因と思われる。応急処置では間に合わない。『引瀬由美子〈ひきせゆみこ〉』により設定されたプロトコルに基づき、この素体の転生措置を決定する。素体記憶初期化中……終了。問題部位の凍結を開始……終了。外挿された魂魄と素体の残留思念に基づくクオリアの合成開始……終了。エナンチオドロミー処置開始……終了。末那識〈まなしき〉層ALICEネットとの相互リンクを切断中……終了。阿頼耶識〈あらやしき〉層ALICEネットへ接続中……終了。新規素体名称を設定中……終了――・
(――『Azrael〈アズライール〉-02』、起動……成功)
 我に返った。
 ――ぼくは今、なにを考えていた?
 ……思い出せない。大丈夫、混乱しているだけだ。一つ一つ確認していけば問題ない。
 ここは、澄崎市北東ブロック第1都市再整備区域50番街E14号通り。
 本当に? ああ、本当だとも。こうやって番地まできちんと覚え
(何百とある再整備区の番地を、ぼくは覚えていたのか?)
 心臓が大きく跳ねた。――落ち着こう。落ち着け。外堀から埋めていけばいずれ全てがはっきりする。
 そう、まず、今一番必要なものからだ。自己の存在を最も強く定義づける言葉。自分の、名前は? 簡単だ。すぐに思い出せる。ぼくの名前は、
 ……『引瀬護留〈ひきせまもる〉』。
 ――違う!
 強烈な違和感。違う。その名前は自分の名ではない。その名はぼくをすり抜けていく。ああ、しかし――いったいどうやって確かめればよいと言うのだろう? ぼくの本当の名前を呼んでくれたのは、母さんだけだ。だけだった。母さんは、いない。連れ去られた。
 誰に?
「天宮」
 ふ、と。その名は脈絡もなく――だがそれが必然だとでも言うように浮かんできた。
「天宮――悠理……」
 錆びた声音で呟きつつ、少年はソファから立ち上がり視線を南の空に飛ばす。その先には雨のベールで覆われ翳みつつもなお圧倒的な、天を摩〈ま〉する超高層建築が聳〈そび〉えていた。
 天宮総合技術開発公社・本社ビル。
「あそこに、いるのか」
 母さんが。そして〝天宮悠理〟という名の人物が。天宮悠理。誰なのだろう。だが、まあいい。いずれやつらの仲間なのだろうから。ならば誰であろうと構わない。
 ……僕は、どうやってこの名前を思いついたのだろう?
 ――ああ、そうか。きっと、母さんが教えてくれたんだ。
 記憶の欠如、認識の齟齬、思考の撞着。
 だけど不思議と不安はない。意識はむしろクリアで、これから何を成せばいいのかも分かっている。
 少年は――引瀬護留は、E2M3混合溶液を拾い上げる。護留が手を触れた瞬間、青白い輝きと共に液体金属は再びナイフの刃を形成した。
 強く握り締める。刃が肉を裂き骨に半ばまで食い込むが、その傷は先ほどまでとは比べ物にならない速度と精密さで滑らかに塞がった。
 これが武器だ。これから天宮と戦うための、僕の最初の武器だ。
 護留は決然と歩き出す。なにかを欠いた表情で、なにかを得た情動で。擦れ切った声で、雨音に掻き消されまいと、
「待っていろよ!!」
 叫び、なにも分からぬままに、
「絶対に! 僕は、全て取り返してみせるからな……!」
 護留の姿は、雨の中に消えて行った。

      †

・――それで、結果は? 成功ですか?――・
・――はい――いいえ。ユウリ様の魂魄及び識閾下〈しきいきか〉を走査した結果、当初の目標の内、一つは達成したと判断致しております――・
・――一つ?――・
・――ユウリ様の魂魄――『Azrael-01』の覚醒は成功しています。元型〈アーキタイプ〉変性による身体の脱色素化も発症が確認されました。しかし、仮想人格〈ペルソナ〉の消滅にまでは至らなかった模様です。やはり、引瀬由美子博士の遺していったデータだけでは不完全だったと……検証が終わった後にデータをすり替えられていたようです。『Azrael-01』と『Azrael-02』のデータは完全に破棄されていました――・
・――それを完全なものにするのが貴方たちの仕事だったはずでは? 貴重な二週間の期間では足らなかったと? そして、その挙句に失敗ですか? 仮想人格を消さなければ、彼女の開放は成されないわけでしょう――・
・――申し訳ございません――・
・――……引瀬博士が出奔したのは科学部のミスではありませんから、これ以上は不問に付します。現在、情報部に特別高等巡邏隊を使わせて博士の『遺作』を捜索させています。回収された博士の遺体には魂が残っていなかった。何らかの素体に、完全なデータを刻んだ魂を入力して逃げ仰せたようです。屑代――情報部に、あの引瀬の作品を見つけられるとも思えませんが、他に手もない以上、期待せずに待つことにしましょう。どちらにしろ空宮に対して強引に過ぎる手段で牽制を行ったのでこれからしばらく――事によっては数年間、こちらは表立って動けません――・
・――では、それまでのあいだ、仮想人格の処置はいかが致しますか――・
・――〝彼女〟の覚醒が成功している以上、放置してもさして害はないでしょう。むしろ下手な操作は行わぬように。現在の主人格はあくまでも仮想の方です。これ以上素体の劣化が速まれば元も子もない。くれぐれも薬物投与や洗脳は控えるように――・
・――了解致しました。使用済みの被験体〈マルタ〉は例のプラント行きでよろしいでしょうか――・
・――ああ、引瀬の娘ですか。ええ、必要なデータは取れましたし構いません。引瀬博士に対する人質としてだけでなく、侍女としても役に立ってくれた子ですからね、丁重に扱ってやってください――・
・――かしこまりました、理生〈りお〉様――・

 少女が目覚めて最初に感じたのは、寂しさだった。
 自分の部屋の自分のベッドに少女は一人で寝かされており、病人用の白く清潔な肌着を纏っていた。部屋の中は薄暗く、今が昼か夜か判然としない。
 その薄暗がりを頼りに、何もかも悪い夢だったのだと思おうとしたが――無理だった。
「眞由美は、死んだ」
 少女は呟いた。
「眞由美は、死んだんだ」
 言葉が、体に染み渡る。
「う、うううう――っ!」
 凶暴な怒りに駆られて、腕を振り上げた。しかし、怒りは発生と同様に一瞬で冷め、少女は腕をだらりと下ろした。
「……ごめんなさぃ……ごめんなさい――まゆみぃっ……」
 泣かないと約束したはずなのに。後から後から、涙は溢れ出てきた。それを拭おうともせず、少女はただ中空を無為に見つめ続ける。
(わたしは、これからどうすればいいんだろう)
 それは自分の内に呼びかける問いだった。『あの子』が何かいいアドバイスをくれるのを期待して。こういう事態になったのは、確かにあの子の存在が原因かもしれない。けれどあの子は何もしていない。それにもはや少女にとって、自分の内に棲〈す〉む〝私〟だけが頼りだった。
 ――なのに。
「あれ?」
 いつもなら即応してくれる、あの子の斜〈はす〉に構えた思考が。返って、こない。
「え? あれ!? うそ、うそうそうそっ!!」
 少女の背筋が冷たくなる。幾度も幾度も呼びかける。それらは幾度も幾度も虚しく空っぽの心の中で谺〈こだま〉した。
『――奴らが欲しているは、私だけなのだから。あなたには、悪いことをした』
 すとん、と。それだけは思い出せたあの子の言葉が降ってきて。
 納得、できてしまった。あの子もいなくなった。消されてしまった。父はわたしの「機能障害を正す」と言っていた。そしてあの子は狙われているのは自分だと言っていた。具体的に、どのようなことをされたのかはわからない。だけど、これだけは絶対確実に言い切れる。
 わたしは、一人になってしまった。この家――即ちこの世界で、自分の味方は、自分の友だちは、誰一人としていなくなってしまった。
「――くくく」
 笑いが漏れた。狂気に侵された笑いではない。この後に及んでなお、狂気に身を委ねられない自分を嘲り哀れむ嗤いだ。ああ、狂えればどれほど楽だろう。だが少女の精神は残酷に正気を保っている。
「くふふふ、はは、あはははは……」
 涙を流して笑いながら立ち上がり、起動コードを唱え照明を燈す。壁のスクリーンを夜間微発光モードから外景投影モードへ。
 少女の視界いっぱいに、天宮総合技術開発公社・本社ビルの150階、地上777メートルから見た澄崎市の街並みが広がった。
 外はまだ明るかったが雨が降っていた。全てが霞(かす)んでいる。まるで、都市が泣いているようだ。

『何も心配しなくて結構ですから。だから、何があっても泣かないで下さい、悠理様。
 強く、生きてください』

 わかった。私はもう、泣かない――泣けない。ともに涙を流せる相手が、泣いた後に共に笑える相手が、いなくなってしまったから。たくさんのかなしみと一緒に、消えてしまったから。
 弱音を吐くのはもうやめよう。あらゆる機器も使いこなそう。誰にも頼らず生きてやる。誰よりも強く生きてやる。
 天宮の次期当主として、完璧な振る舞いをしてみせよう。
 そうすれば、不用意な言葉でよくないことを招き寄せる心配がないから。
 かなしいことは、もう起こらないだろうから。
 私は、天宮悠理は、今日これより独りで生きる。
 ――もう、眞由美には心配かけないよ。
 だから、
「あなたも、泣かないで。私の中で、ずっと笑っていて」
 涙も笑いも、自然に止まっていた。悠理は眼下に広がる風景を、近くて遠い、こことは別の世界を飽くことなく眺め続けた。

(第一章へと続く)

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