彩りと日常 第二話
第二話 ブラウンベージュ
「だから、しないってば!」
駅前のスクランブル交差点の真ん中近く、私はスマホ越しに大きな声をあげた。
反応して、行き交う人たちの視線が私に集まるのを感じる。思わず点滅している信号の横を足早に通り抜けた。
……はずかしい。
手元のスマホが気に掛かる。
いつの間にか、耳から通話中のスマホを遠ざけてしまっていた。母親が言いたいことは、聞かなくてもわかっている。
でもこの周囲の注目を集めている状況で、田舎の母のお小言に付き合っていられない。
横断歩道から20歩ほど進んで、ぐるっと周囲を見渡す。周囲の人はみんな自分の時間を生きることに必死で、私のことなど気にしている人はいない。
私は安堵し、すっと耳元にスマホを近づけた。
「……って隣の奥さんも言っててね……。 さっきから返事もないけど、ねえ、ちゃんと聞いてるの?」
タイミングが良かったようだ。
自分の母親ではあるが、ここ最近のお節介には辟易としている。
「あなたもいい歳でしょ? いつ結婚するの?」
耳にあてたスマホから、この数年聞き続けているコトバが体内に入ってくる。
……ほんとうに、余計なお世話だ。
「もう、お母さん、さっきも言ったでしょ?! 私は結婚なんてしないの!」
繰り返される同じ質問に苛立ちを隠せず、語気が荒くなってしまった。
少しの後悔を感じたが、すでに返事が返ってきていた。
「いつもそればかり言ってるけど、努力はしてるの? そうこうしているうちに5歳も年下のお隣さんに先越されるわよ。
のんびりしていたら、そんなタイミングなんてあっという間に逃しちゃうんだから! あ、もうお母さん地区会に出かける時間だから、切るわね」
突然母親の声は途切れ、私は雑踏の中に置き去りにされた。
……この人はいつもそうだ。
自分勝手に言いたいことを言って、自分勝手に通話を終える。
親子関係が悪いとかそう言うことではない。
少し自分勝手で、世間体を気にする。
そういう人なのだ。
それこそが父親との離婚の原因ではないのかと、私は思っている。
そして彼女の血は私の中にも流れているという紛うことのない事実に、少しの嫌悪感を抱く。
これほど小煩く結婚を急かされるようになったのは、ここ数年だ。
25歳の4月、母親は突然私のマンションにやってきて言った。
「女は結婚して、子どもを持ってこそ一人前」加えて、「それを伝えるためにわざわざ田舎からきた」と。
なぜか私の好きでもないマドレーヌを手土産だと言って持参していた。
このホットケーキミックスで作ったマドレーヌは、母親が唯一作れる焼き菓子だ。
今でも母の思考は全く理解できない。
まぁ、親子だからって全てを理解することは不可能だ、ということぐらいわかっては、いるけれど。
当時、新しい学校に配属されたばかりで、私には全くの余裕もない状況だった。
学校事務という仕事は、転勤してもしなくても4月が猛烈に忙しい。
短大を卒業してから、ずっとこの仕事をしているが、転勤するとより一層追い詰められる。
4月には、新しく転勤してきた先生たちの事務処理、前任者からの引き継ぎ内容の確認と処理。容赦なくやってくる給料日に向けた会計処理、あれこれと必要だと言ってくる先生たちへ物品の発注、差し戻さないといけない書類たち・・・
ひっきりなしに仕事が舞い降りてくる。
時には何度も同じ説明をしないといけない相手に、少しの殺意をおぼえるぐらいに忙しい。
「忙しい」という漢字は「こころをなくす」と書くというが、私はまさにその状態だった。
日頃やり取りをすることの多い校長先生にも、少しだけ落ち着いた6月になってから、「初めて原さんの笑っているところを見た」と言われる始末だった。
そんな中、母から「結婚して一人前」や「わざわざ伝えにきた」と言われたものだから、2年経った今でも思い出すだけで苛立ちを覚える。
あの時私に余裕があれば、当時付き合っていた彼と罵り合い、別れるなんてことにはならなかっただろう。
もしかしたら、彼と結婚をしていたかもしれない。
私はもうすぐ28歳になろうとしている。
母の言うところの「行き遅れ」らしい。
「母の生きてきた時代と、今は違う」と、どれだけ伝えても伝わらない。
これでも私なりに足掻いてはいる。
婚活アプリを入れて登録もしてみた。
でも理想の相手はソコにはいなかった。
結婚をしている友人を通じて10人以上を紹介してもらった。
「優良物件」と思われる相手には既に彼女がいて、付き合うことすらなかった。
やがて男性を紹介してくれる友人も、候補の相手を探すことが難しくなったらしく、徐々にその数も減ってきている。
最近では、3ヶ月に1人いるか、いないかだ。
母親に言われなくても・・・自分が一番、わかっている。
母親の言う通り、私も結婚したい。
でもそれは、誰でもいいわけではなく、自分が納得できる相手と。
例えそれが計算と打算の結果でも、私が納得できることが最優先事項なのだ。
窓から差し込む太陽光がポカポカと暖かい。
眠気覚ましに、と淹れたばかりのコーヒーの苦い香りとお日様のニオイがまじり、私を寝かしにかかる。
……少しだけ、寝てしまおうか。
「原さん、この書類お願いします」
午後のまどろみに身を任せそうになった矢先、声を掛けられてドキッとする。
事務室に若手のホープと「主に女性の」先生たちにもてはやされている、男の先生だった。
今年、他の学校から転勤してきたばかりのイケメンの彼は、今朝訂正を依頼した書類を提出しにきたようだ。
確かこの人も独身だったはず。
私は眠りに落ちそうになどなかったかのように、書類を受け取る。
さっと目を通し、訂正を依頼した箇所を確認する。
やっぱり……、抜けているところがある。
「すみません、この書類のココの部分ですが、直っていないので、もう一度修正をしてもらえますか?」
きっと再度修正を依頼されるなどと思ってもいなかったのだろう。
職員室では、「ホープ先生」などと、女の先生たちに安直なあだ名を付けられている彼は、書類を前に固まっている。
時折、事務室に来た同年代の女の先生たちが「彼は誰と付き合うのか? 誰が狙っているのか?」という類の話をしていく。
申し訳ないが、私には「ホープ」ではない。
もう転勤してきて8ヶ月経つというのに、毎回どこか抜けた書類を提出してくる、ただの困った先生のうちの1人だ。
まぁ、そんな先生は彼だけではないのだが。
そそくさと事務室を後にした彼の後ろ姿を見ながら、思わずこぼれる。
「……こんな職場では出会いすらない」
17時、ノックと共にガチャリとドアが開いた。
「お疲れ様です。原さん、今日はもう上がります。」
入ってきたのは、年配の用務員さんだ。
定年退職後に再雇用として、学校で働くようになり、雑用をしてくれている。
「お疲れ様です。校長先生からの差し入れの焼き菓子があります。私、マドレーヌは食べないので、よかったら持って帰ってくださいね」
私がそう伝えると、彼はお礼を言った。
「ありがとうございます。ここの焼き菓子おいしくて、家族も好きなのですよ」
ん……? 変だ。この人がお礼以上に言葉を続けるなんて。
目の前で嬉々とした表情で焼き菓子をカバンに入れる彼を傍目に、自分の中に生まれた違和感の正体を探す。
つい先日まで、仏頂面で無愛想だった用務員さんが、お礼を言い、さらに会話を続けた。
この間までの彼は、お礼をひとこと言って終わっただろう。
今では、ずいぶん柔和な表情になった。
何か良い事でもあったのだろうか?
聞こうか、聞くまいかと逡巡しているうちに彼は帰ってしまった。
私は、自分のこういうところがキライだ。
いざという時に迷って決断ができない。
仕事のことならズケズケと言えるのに、肝心なところで言い淀んでしまう。
こういうところが前の彼氏との別れの原因にもなったのだ。
ひとり取り残された事務室の中では、電子機器の放つ重低音がバックミュージックのように響いている。
私は作業の手を一度止め、深呼吸をして伸びをする。
ふと、手元の入力作業を続けようとパソコンのモニターに目を向けた。
「え?! もう17時20分!!」
今日は退勤後に食事にいく約束がある。
一昨日、短大時代の友人から久しぶりにMINEがきた。
あなたに紹介したい人がいるという連絡だった。
昨晩も念入りにパックをして、今朝も気合を入れてメイクをしてきた。今から着替えて、化粧を直していたらギリギリだ。
とにかく早く仕事を切り上げて、電車に乗らなくちゃ。
待ち合わせには、5分前に到着することができた。自分の中で過去最速ではないかと思うぐらい早く更衣室で着替え、化粧を直し、髪を巻き直し、駅まで髪型が崩れないように気をつけながら歩き、電車に乗って・・・とバタバタだった。
待ち合わせに間に合った自分を褒めてあげたい。
そうまでして参加した食事会であったが、友人の紹介してくれたその人はパッとしなかった。
見た目も勤め先も普通。
無口で、話を振られない限り、自分から口を開くことさえ、ほとんどなかった。
社交辞令のような会話には応じるものの、ほとんどがどこかのマニュアル本に載っていそうな、そんな会話が続いた。
ただ、2人きりで食事に行こうとお誘いがあった。
今回の食事会の中で、彼が自分から口を開いて発言したのはこの時だけだった。
この点で成果があったと言えるかもしれない。
次に会うのは、来週。
この人が私の結婚相手になるのだろうか……?
そうなれば、毎日のように母親にあれこれと言われなくても良くなるのだろうか?
そう思うと安堵する自分に対してモヤモヤする。
約束の日までは、いつも通りの目まぐるしい毎日が過ぎていった。
職場ではパワハラスレスレの校長先生の話し相手をし、ホープ先生の間違いを6つは直し、女の先生たちのウワサ話にも耳を傾け、迫り来る給料日やボーナスの調整、備品などの予算残金の調整をする日々だ。
ボーナス期には、私の中にいつもある不満が産まれる。
同じ空間で似たような就業時間だが、私と先生たちの給料には大きな差があるのだ。
なんだかんだ文句も聞こえてくるが、教育公務員の彼らは事務職の私よりも多くの報酬を得ているのだ。
先生たちの苦労や理不尽さも聞いて知っているが、給料表を目の当たりにすると腑に落ちない部分があることも否めない。
それに加え、最近では毎日のようにかかってくる母親の電話。
あまりにもしつこく繰り返される内容に私はうんざりしていた。
昨日は、ついうっかり今度の食事会のことをもらしてしまい、まだよく知りもしない相手のことを根掘り葉掘り聞かれるハメになった。
挙げ句、母親は私にこういったのだ。
「その人、絶対に逃したらダメだからね!」
翌日に食事会を控え、私は事務室で1人データ処理の仕事をしている。
急ぎの仕事がある。
明日のためにも早く仕上げなくては……。
カタカタと入力音だけが響く空間の静寂を突然チャイムが切り裂く。
しばらくして一枚とびらを隔てた廊下を行き交う、生徒の楽しそうな雰囲気が事務室にまで届く。
楽しそうな空気につられて、なんとなく沈んでいた気持ちが少し持ち上げられる。
やっぱり子どもたちは私に元気をくれる。
「トントントン・・・」
事務室のドアのノック音が聞こえる。
「どうぞ」
返事を聞いて入ってきたのは、特別支援学級に在籍する子どもたち3人と担任の先生だった。
ふわっと香るおいしそうな懐かしい匂い。
彼らの手には、麻あみのバスケット。
中には包装された焼き菓子らしきものがたくさん入っている。
「えっと、さっきの時間に調理実習で作りました」
「マドレーヌです」
「販売しています。40円です。」
「買ってくれませんか?」
代わるがわるに紙を見ながら、一生懸命に伝えてくる子どもたち。
私は2つマドレーヌを購入することにした。
嬉しそうに事務室を出ていく子どもたちの姿を見送る。
ちょうどいい、少し休憩をしよう。
コーヒーを淹れ、給食で飲みきれなかった牛乳を混ぜ、カフェオレにする。
マドレーヌの包装を解くと、バニラエッセンスの甘いかおりが鼻腔をくすぐる。
あ、このにおい、……知っている。
高校2年生の進路を決めようとしているときにも感じた……あのにおい。
このにおいは、母親の作るホットケーキミックスを使ったマドレーヌだ。
超簡単に製作できるこのマドレーヌを母親は事あるごとに作っていた。
「これしか作れないから」
料理下手な母親が唯一作れる手作りのお菓子。
私の人生の転機には必ずこのにおいがある。
私は高校生の頃、学校の先生になりたいと思っていた。
高校のクラス担任の先生にあこがれたからだ。
ただ、離婚したばかりのウチには金銭的な余裕がなかった。
そのため、進学先に短大を選んだ。
短大ではアルバイトをしながら、必要最低限の単位を取得し、早く就職できる道を選択せざるを得なかった。
学費を捻出するために奨学金をもらっていたので、成績も気にして生活をした。
進路選択の際には、せめて学校という場所には居たいと思い、学校事務の道を選んだ。
その頃からだろうか、マドレーヌを食べなくなったのは。
もう何年も前になるのに、私の中には諦めきれないナニカがくすぶっているのかもしれない。
マドレーヌを口に含み、歯をゆっくりとかみ合わせる。
ムール貝のような形状のそれはしっとりと、しっかりとした食感だが、ところどころにホットケーキミックスが見え隠れする。
口の中いっぱいに広がる優しい甘いにおい。
甘味料のもたらす、ひとときの誘惑。
お気に入りのマグカップに入れた、カフェオレを口に含む。
先ほどまでの甘さが緩和され、少しばかりのコーヒーの苦味と牛乳の優しさに包まれる。
忘れていた私の大好きだった組み合わせ。
さけてきたマドレーヌ。
「カフェオレなんて子どもの飲み物だ」と元彼に言われて、背伸びして飲んでいたブラックコーヒー。
私がさけていたのは、マドレーヌだろうか?
それとも母親?
いや、私がさけているのは……
カフェオレを飲まなくなったのも、同じだ。
私が逃げてきたもの、それは「私自身」。
いつも決断の時に、判断せずに人に委ねてきたのはないだろうか。
大事なことから、小さなことまで、人任せにしているのではないか。
私は、これからの人生も人任せにしようとしているのではないだろうか。
ポトリと提出書類に涙がこぼれ落ちた。
「お疲れ様です」
私は校長に帰る旨を伝えた。
「今日は早いね、どっか行くの?」
校長の問いに、いつもは適当に言葉をにごすところだが、食事会の今日は答えようと思った。
「はい、私の運命を取り返しに」
第一話「マーブルオレンジ」
第三話「シルバーマジック」
第四話「Blue flame in my heart」
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