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心も体も健やかに生きたい

最近はとても体も心も健全になったように感じる。毎日仕事をして帰ってきたあと、ご飯を軽く済ませて銭湯に行ってゆっくりお風呂に浸かれるのが嬉しい。
それからストレッチをして体をほぐしながら少し踊って、そのあとにイラストを描いたり読書をして12時ごろには眠りにつけること。
翌朝だって目覚めはいいものだ。5時半ごろには起きて準備をゆっくりしながら仕事や予定の支度をする。

なんでもない習慣だけれど、やっぱり疲れていない状態で自分のやりたい事ができる日々は楽しいものだ。
ご飯は何にしよう、何を踊ろう、どんな本を読もう、どんな絵を描こう、どんな音楽を聴こう・・・。
それで頭がいっぱいだから他のことを考える隙間もないし、仕事のことはタイムカードを切って退勤した時点ですっかり忘れてしまっている。
もちろん仕事中はプライベートなことは持ち込まないようにするのは大前提だが。

ここ一年半はそんな暮らしをしている。なんでこんなに酷く疲れることが少なくなったのかなと思い返すと、それはきっと人との関わりにきっぱり線を引いたからではないかと思う。

私はかつて高校や大学でクラスだったり部活で知り合った人とSNSで繋がっていた。大きな集団だったし当時は繋がっていないといつどこで何が起きているか把握できない怖さがあったのだと思う。そこで自分だけが置いてけぼりになる怖さをかつて何度も味わっていたから、嫌な思いをしたりすることがあってもSNSという場所はいつの間にか切っても切り離せなくなってしまっていた。

けれど大人になってからようやく集団から抜け出した時、ふと未だにSNSでその子達と繋がっていることで本来自分に使うべきエネルギーさえも持って行かれていることに気がついたのだ。

別に大して仲良くもなかったり深い話をする訳でもない関係の人の幸せな姿を見るときに限って、嫌気がさしたり知らず知らずのうちにイライラしている自分がいた。
でもそれは自分も然りで、自分の何気ない投稿も誰かの嫉妬や羨望のタネになっていて知らぬ間に嫌な印象を持たれているかもしれないと気付いたときに、早めに断てる関係は断ってしまおうと思ったのだ。

人間だからいろんな人がいる。だから必要な人も必要としている人もみんな違う。
だからとりわけ大切でもない関係を断ったところでどうってことないはずだ。

直接会えば人となりが見えるように、SNSの言葉選びや写真や投稿一つとってもその人の感じはなんとなくでも伝わってくるもの。

他人に対して「こんな素敵な生活送ってるんだぞ」とひけらかしたい人と、「まあこんな感じで生きてるんです」と多くは語らない人なら、私は後者の人たちといる方が気が楽なのだということに気づいてSNSのアカウントを本当に仲のいい人たちだけに絞った。

すると人の目を気にしたり左右されることもなくなり、自分がやりたいこともよりはっきりした。
普段やっているのは読書や振付や芸術鑑賞の記録程度の投稿なので、「映え」を求めている人からすれば一蹴される内容かもしれない。でもそれだけで気持ちが大いに楽になって自分の人生に使える時間が驚くほどに増えたのはとても喜ばしいことだった。

おかげでここ3、4年でようやく自分でも自信が持てるようなものが創れるようになってきた。だからと言ってあちらこちらにひけらかしたりはしないけれど。

そういえば先日マクドナルドに行ったら、窓際の席で隣同士に向かい合っている中学生のカップルがいた。まあまあお客さんがいる中で男の子は彼女の体を触りまくっていて女の子も嫌がるそぶりもなく彼氏の手を取りながら仕草で誘っていた。

商品も食べず互いの欲丸出しの頂点みたいな光景を見て、私は思わず新手のパフォーマンスか何かかと疑ってしまい、「おいおい「俺らにとっちゃ、マクドもラブホ」ってか?一丁前に韻踏んで誰とバトルしとんねん」」と心の中でツッコミを入れてしまうほどだった。

そこまで堂々といられる姿に一体どんなメンタルをしているんだろうとむしろ興味さえ湧いた。ラブラブ具合は物凄く伝わりましたがでもやっぱりそれを見せられたところで全くいい気はしなかったよ。ええ。

だから私はこれからも謙虚に粛々と学んで鍛えて記録して創って生きていたいなと思う。
人生において何度かやってくるいざという時やここぞという時にしっかり力を発揮できれば、それで私は十分満足できるはずだ。

どうしたら変に自分の貴重なエネルギーを使ってしまわないかを知って行動すれば、自ずと誰でも健やかに過ごせるようになるのではないかなあ、と思ったそんな今日だった。

読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。