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命は続くよ、どこまでも


 突然だが、鳥葬をご存知だろうか。

 弔いの方法といえば、一般的には日本では火葬が普通だ。滅多にお目にかかることもないけれど、火葬場ではらはらと灰が舞う中熱気の中に白くなった骨が横たわっているあの光景は強く眼に残っている。ここ最近で死について考えている時、たまたま葬儀の仕方にはどんなものがあるのか気になって調べている時に「鳥葬」を見つけた。

 これはチベットに残る葬いの方法である。死後、魂が抜けた遺体を鳥葬台と呼ばれる場所に運び、布施としてハゲワシに与える。群がってきたハゲワシに啄ばまれたその肉体はいつしか綺麗さっぱりなくなっているのだという。
 そもそも寒冷なチベットでは火葬をするにも薪が必要になったり、土葬をするにも分解する微生物がいないという事で、この鳥葬が理にかなっている方法なのだという。
 
 私はこの葬り方を知った時、驚きとともに素敵だなとも思った。
 一度興味がある方は調べてみて欲しい。確かに写真で見る限りでは、日本では非日常すぎるその光景に思わず目を伏せそうになるのだが、私は何だか見入ってしまうものがあった。

 この鳥葬、今まで自分たちが多くの命を食してきた分、自分たちが食される側になるという、命の連鎖の中に組み込まれていくという一面もあるのだという。
 親族たちは遺体を鳥葬へ出してしまえばその後、食べられていく様を見守ることもないらしい。ただ自然へ放たれた体にハゲワシたちが群がってきて、鳥たちはただ命を紡ぐために死肉を食べるだけ。憐れみや悲しみなどなんの感情も抱かない。ただ彼ら彼女らの栄養になって空へ還っていく。
 自然の摂理のままに事が進んでいく。それがなんだか、ただただ素敵だと思ったのだ。

 人として生きていると、考えなくてもいいような事に囚われてしまう事がほとんどだ。少しばかり知能があるだけで、地球に住む生き物という点では他の動物たちとは変わりないのに、裕福になればなるほど煩悩ばかりに埋もれて、毎日食事ができたり、着る服があったり、住める場所がある事さえ当たり前だと思ってしまう。

 けれど貧しい国の人々や、世界のほとんどの生き物たちは、毎日生きるために必死だ。食べるものがなければ死んでしまうし、自分で身を守らなければ強い者に襲われてしまう。

 そう思うと食われる心配もない私たちは、いかに日常を安心しきった状態で生きているのかと思う。
 これはこの前書いた事にも通ずるのだが、本当は誰も明日を安全に生ききられる保証などどこにもないのだ。確率が高いか低いかの問題で死は突然やってくる。

 だから何が言いたいか。日本でも鳥葬をするべきだという事が言いたいのではない。葬いの仕方なんてその土地の理にかなった方法ですればいいと思う。
 それ以前に生きている時、私たちも同じ地球の生き物であることを忘れてはならないなと思ったのだ。人間だけが地球を操っているわけではない事を、頭のどこかできちんと自覚しておかなければいけないなと思う。自分のことだけ考えるのではなくて、周りのこともしっかり見ながら感謝をして生きていく事。

 命の連鎖でこの世界は回ってきたし、これからもそうやって回っていくのだろう。
 いくらテクノロジーが台頭しても、生死までなくなってしまうような世界にはならなくていい。

読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。