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私の背中を押したデンマークとオランダ

全てが謎だった。まず、ローラーブレードで颯爽と登校する子。小さな林檎をかじりながら授業を受ける子。徐に廊下に出ていき、ベンチに寝そべりながら問題を解く子。

教室の中は多くても15人程度だ。少ない・・・!何やらいろんな道具を駆使して、友達同士であーだこーだ言いながら何かをしようとしている。

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デンマークの中学校、2年生の数学の授業。内容は「図形」だ。ん?1人の男子が毛糸を取り出した。それで円を囲み、印をつけてから伸ばし、定規に当てる。なるほど、そうやって円周の長さを出すのか!世紀の大発見に浮かれる生徒達。

いや、ちょっと待てよ、円周の長さなんて「直径×3.14」で簡単に出るのに。なんでこの先生さっさと公式教えないんだろう?

中学2年生当時、そんなことを考えながらデンマークの中学校の授業に出席していた。当時は問題を生徒達自身に解決させるこの授業スタイルが、彼らの創造性を養い問題解決能力を高める最高の教授法だったなんて知る由もなかった。

何もかもが日本と違う。何もかもが新しい。全てが新鮮で斬新で、常に目を見開いて物事を観察した。中学生で体験したデンマーク・オランダでの10日間が、音大に入ってピアニストになることを夢見ていた私の将来像を根底から覆すことになった。今日はそんな話をしたいと思う。

英語って本当に通じるんだ

中学2年の夏ということは、本格的に英語を習い始めてたった1年強だ。事前に研修は受けたものの、まだ文法で言うところの現在完了すら習っていない状態でデンマーク人一家の家に放り込まれた。ステイ先はパパ、ママ、私と同い年の女の子、小学生の双子の妹の五人家族だ。

不躾ながら、そこで初めて実感した。「英語って本当に世界言語だったんだ」

デンマークはデンマーク語を話す国であり、私たちと同じように第二言語として英語を習う。しかし驚いたことに、私よりも年下の小学生の妹達までもが、母国語ではない英語をペラペラ話すのだ。

私は辞書を片手に応戦。もちろん、ゆっくりわかりやすく話してくれてはいたが、相手の言っていることがわかる!そしてこちらの言っていることも通じる!全然違う国の人たちと会話ができている、コミュニケーションがとれている!

この時感じたこの良い意味でのスリルが、私の英語の最初のブレイクスルーだった。英語という言語そのものよりは、異文化間でコミュニケーションをとることの素晴らしさを体感した。そして、そのツールとしての英語。英語って素晴らしい言語だ。極めないわけにはいかないと思った。

夢に見ていたアンネ・フランクの家

幼い頃に母に勧められて読んだ「アンネの日記」が衝撃的で、特に父親のオットー・フランクが書いたアンネ・フランクの伝記は何度も繰り返して読んだ。ユダヤ人迫害については絶対に知っておいて欲しいという母の願いにより、映画「シンドラーのリスト」を見せられたあの衝撃は今でも絶対に忘れない。

中学1年の頃に夏休みの自由研究で、「アンネ、ついに見つかる」という見出しで手作りの新聞の一面にアンネ・フランクの一生を大々的に取り上げ、廊下に掲示された。それほどに思い入れがあったアンネ・フランクの隠れ家に、まさか自分がアンネと同い年になった年に行けることになるとは夢にも思わなかった。

展示棚に大切に保管されていた本物のアンネの日記。開かれたページに書かれていた内容はもちろん読めなかったが、本当に綺麗な筆記体を書く。これが本物のアンネの日記、戦争時代に隠れ家で身の危険を感じながらも、書くことに意味を見出して希望を持ち続けたあのアンネの。本物の日記が目の前に。思い入れを持って伝記を読んでいた分、いろいろな思いが込み上げてきた。

隠れ家への入り口をカムフラージュさせるために作られた本棚も、夜間に窓を開けて眺めたと言われているストリートも、全部が自分が想像していた絵と重なる。自分と同い年の女の子が希望を持って生き続けた現場に来ることができて本当に良かった。幼いながらにそう思った。

海外に目を向けさせてくれた両親

現在、英語と関わり、英語に触れないなんてあり得ない、そんな生活を送っている。通訳・翻訳業にも従事したが、私の専門は英語教育だ。留学を目指す大学生や海外移住を考えるご夫婦、これまで様々なバックグラウンドを持った方々に英語を教えてきた。昨年までは、大手の子供英会話教室で生徒95名を抱えていた。

中学校でデンマーク・オランダを訪れて以来、私の目は世界に向いた。その後、研修や仕事、旅行で色々な国を訪れた。アメリカには2回留学し、修士号もとった。現在は夫の仕事の関係で南米のウルグアイに住んでいる。夫は高校時代のタイでの研修で知り合った同級生だ。夫の目も海外に向いている。夫はスペイン語圏だ。

こうして私が世界を知ることになり、生涯英語と共に生きることになり、さらに同じく言語の道を歩む夫と出会うことができたのも、幼い娘を遠いヨーロッパの国へ行かせてくれた両親のおかげに他ならない。特に父は、私が小学生の頃から独自に英語を教えてくれ、中学に上がってからはほとんど毎日、教科書の読み込みを手伝ってくれた。

「復習はしなくて良いからとにかく予習をしろ」
これが父の口癖だった。この口癖を胸に刻み、中学の3年間はとにかく先取り学習を心がけ、父に手伝ってもらいながら教科書を読み込んだ。

そんな両親だったからか、「デンマーク研修に応募したい」と言った時は二つ返事で了承してくれ、心から応援してくれた。デンマークのホテルに滞在中は、なんとホテルにFAXで「頑張ってるか」と手紙を送ってくれた。

両親がもし反対をしていたら、今の私はない。それに、母が幼い私にアンネ・フランクを紹介してくれていなかったら、オランダであんなに感動することはなかっただろう。私の背中を押したのはデンマークとオランダ。しかしその後ろには常に両親がいた。

心から感謝しています。






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