【短編】月面に根は張れるか(後編)
あなたの恋人はどんな人ですか?
五分程度で読める短編小説です。
前編をお見逃しの方はこちら。
以下後半の本編です。
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掃除の済んだ家を出たのは、朝七時をちょうど回ったところだった。玄関から寝室、台所に至るまで完璧にピカピカなのは、次に住む綾子の知人へ向けたプレゼントのつもりだと彼女は言った。僕は綾子のそういう心意気が男らしくて好きだと思う。あと行動力があるところも。
月での生活で必要なものはすでに宅配便で送ってある。今は便利な時代だ、数年前に作られた月の住所を書き込めば一律の金額で配送してくれる、地球向けに送るよりは少々割高だけれど。
僕と綾子は出来るだけ小さくまとめた荷物を持って家を出た。彼女が買ってきてくれたリュックは当面僕の相棒になるだろう。センスのかけらもない僕のファッションは大抵が綾子の趣味で、初めて会った人や旧友に服や小物のことを聞かれるとしどろもどろになるから苦手だ。
最寄りの駅から電車を乗り継ぎ、宇宙ステーションへ向かう。東京のはずれにできたそれはまるで夢の国のように華やかで煌びやかだった。なんでも海外の有名建築家が設計したらしいが詳しくは知らない。
宇宙ステーションの特徴的なドーム型の鉄骨造が見えてくる頃、綾子は徐々に不機嫌になった。お気に入りのお菓子を開けてあげても、とぼけたことを言って笑わせようとして彼女は浮かない顔をしている。これは大変だ、と思いながら小さな綾子を見下ろしながら歩く。驚いたり焦ったりした時に顔や声に出ないのが僕の欠点だ。
そんな欠点を長所だと言い切ってくれたのは、綾子ただ一人だけだったなぁと考える。
ステーションのエントランスは思いのほか人が少なく、空港なんかとは勝手が違っていた。いくら月に行ける時代になったとは言え、まだまだ旅行先としてはメジャーではない。何せ僕は綾子がいなかったら一生地球を離れなかっただろうという人間だから。
無重力とまではいかないがふわふわの二人掛けソファで受付の順番を待つ。審査には時間がかかるらしいから、電光掲示板を時々チラ見しながらのんびり待つ。これで地球とも当分はお別れなのか、と少し感慨深い。
無骨にむき出した鉄骨以外はガラス張りになっているところが多く、外の景色が見えた。今朝出てきた馴染みの下町に似て少しくすんだ景色の中に、宇宙ステーションはたちそびえているらしい。はじめて見た時には宇宙人の侵略拠点か何かに見えたものだ。
いつもと変わらない景色の遠くの方に、ほんの小さく海が見えた。ステーションはやたらと上に伸びるタワーのような構造になっているので、東京湾がビル群の隙間隙間からちらちらと見え隠れしている。彼女もそれに気がついているのか、珍しくぼーっとして窓の外を眺めていた。僕はそれを見ながら黙りこくった綾子に話しかける。
「月ってどんな良いところだろうね」
「どうかな、良いところかも分からないよ」
拗ねた子供のような反応をする綾子に少しびっくりしたけれど、たぶん顔には出なかった。僕は何にも気にしない風にして続ける。
「月から見ると、地球の海がとっても青くて綺麗なんだって。見てみたくない?」
「見てみたくない」
やはり僕の聞き間違いや勘違いではないらしい。綾子は更に仏頂面になって眉間にシワを寄せた。そのシワに指を当てて伸ばしたい衝動に駆られたが、たぶん怒られるので我慢する。
彼女はきっと月に行きたくないのだ。どうしてかは分からない、でも月に住むための講習を受けた時に講師の先生も確かに言っていた。ホームシックのように、地球を離れる直前になって気持ちが落ち込んだり、急に嫌になる人は少なくないらしい。
僕はそんなものかなぁと思いながら聞いていたが、綾子のそれもやっぱりアースシックというやつなのだろうか。
何と言って宥めたらいいかしばらくは考えていたけど、残念ながらいい案は浮かびそうにもなかった。ステーション内に少しずつ人が増えはじめてきて、小さな子供が楽しそうに両親と搭乗を待っている。右手にはチケットがギュと握られており、しきりに自分で渡したいと話しているらしかった。それを横目に眺めていると、綾子が言った。
「あんなちっちゃい子も月へ行くんだね。あの子は一生のほとんどを月で過ごすことになるのかな」
「そうだね、月があの子の故郷になるのかもしれないね」
「なんだか変な気分だね」
変?と問い掛けようと思ったけど、彼女の不機嫌の理由がわかったから黙っておいた。代わりに僕は別の話をする。
「機内食はお肉と魚、どっちが良い?」
「お肉も魚も嫌、パンが食べたい」
「じゃあ買いに行こうか」
僕がのんきにそう言うと、綾子は不思議そうに首を傾げていた。僕は立ち上がって綾子の腕を引っ張る。釣られて彼女も立ち上がり、宇宙ステーションを出た。
「ちょっと、順番までもう少しだよ」
「うーん、でも今日は僕もパンの気分だから」
少し空間が空いてしまったお腹がぐぅと鳴った。それが聞こえたのか綾子が少し笑う。うん、いい調子だ。
「それに月から見る海よりも、地球から海を見たくない? 最近海なんてしばらく遊びに行ってないよね」
頭の回転な早い彼女は僕の言葉の意図が掴めてきたのか、少し弱々しく言った。
「でも、宇宙ステーションの窓からも海が見えたよ」
「そうなんだ、全然気がつかなかったよ。綾子はよく見てるね。でももう出てきちゃったし」
彼女と手を繋いでぐいぐいと引っ張って歩く。適当に歩いてきたけど、この道はどこへ出るんだろうとぼんやり考える。綾子なら知っているだろうか。でも僕の考えなしを彼女は「器が大きい」と言ってくれるからたぶん大丈夫だろう。
「それに僕、やっぱり着替えは必要だったと思うんだけど、どうかな」
「着替えならそのトートバッグの中にあるじゃない」
「ううん、この中身は全部お菓子だよ」
それも綾子の好きなやつばっかりだよ、と言って誤魔化した。もちろん下の方には着替えが入っているから、彼女には見えないように反対側に隠す。僕の表情筋は僕と同じで少し動きが鈍いから、すぐには顔に出てこない。だから何でもない顔をして言ってみた。
すると彼女の眉間のシワはいつの間にかとれていて、「お腹空いた」と言ってずんずん歩き出した。
「ムーン・サルトのモーニングセット、まだ間に合うかな」
「間に合うよ、きっと。クロワッサンはもうないかもしれないけどね」
僕がそう返すと、綾子は一度ぶすっとした顔を作ってから今度は思いっきり笑った。釣られて僕も笑ってしまう。彼女が笑っていたらいつだって楽しい。
僕も競うようにずんずん歩く。宇宙ステーションから少しずつ離れて行く。
「ごめんね」
綾子が小さく呟いた。
「僕があの町に根っこを下ろしてたから、綾子の根っこも釣られて絡まっちゃったんだよ」
よくあることだよ、と僕は言った。続けて、綾子はもう根無し草なんかじゃないよ、と言おうと思ったけど、彼女がクロワッサンがないならロールパンが食べたいなぁと話し始めたからやめた。
もしも次に月へ行く旅行する機会があったら、今度はコウモリ傘を持っていって綾子を蝕むアースシックをから守ってやろうと決めた。その前にコウモリ傘を買いに、彼女と出掛けなければいけないけれど。
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お読みいただきありがとうございました!
あとがきに続きます。
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