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誕生日を機にこれまでの人生を振り返りたい

誕生日なのに?

26歳になった。今日は平日だけど、年に一度の誕生日だからということでわざわざ有給をとった。だけど別にすることがない。友人や恋人と会うわけでもないし、どこかへ一人旅に行くわけでもないし、美味しいご飯を食べたいという食欲も今のところない。誕生日というのはそれだけで確かに特別な日ではあるが、その日に何か特別なことをできるかどうかはその人次第だろう。僕の誕生日は毎年こうだ。一人で、自室で、何か特別なことをしたいという気持ちを抱えながら、結局何もせず、気付けば夜になっている。そう、いつもこうなのだ。だから悲観することはない。一人で何にも縛られない時間だからこそできることもあるだろう。今年は、26年間というこれまでの人生にあった、あんなことやこんなことを思い返しながら、最終的には今後の人生に思いを馳せるということをしてみたい。なるべく正直に、自分の人生と向き合いたい。


小学校入学前

家族構成

物心つく前に両親は離婚していた。だから、僕の中では家族といえば母と2つ上の兄と僕の3人だ。最初からこうだったから自分としてはそれが当たり前なのだが、人によってはひとり親だということが悪いこと、聞いてはいけないことだと感じる人もいるらしい。小さい頃に親の仕事とか年齢とか身長とかそういうことを聞かれて、父親はいないのだと答えた時にされたなんとも気まずい反応をずっと覚えている。だから今でも親のことを質問されるのが苦手だ。苦手なだけで、今は適当に返答することも上手くなったとは思うのだけれど。

母子養護施設的な場所

ということで、しばらくは3人家族での生活が続いた。小学校入学の頃くらいまでは母子養護施設的な場所に住んでいた。僕らと同じように母親と子どもだけの家族が何世帯か入居しているような施設だった。当時の記憶はあまり鮮明なものはないが、同じ年くらいの子どもや、ちょっと年上の子ども、その母親たち、そして職員の人たちなど、色々な人たちとそれなりに関わり合いながら、それなりに楽しく過ごしていたように思う。正月に餅つきをしたり、ホール的な所で宴会をしたり、近くの神社のお祭りがあったり。どこまでが本当の記憶か分からないが、ぼんやりと楽しかったような気はする。

「この線より向こうに行っちゃだめだよ」というようなニュアンスのことを母親か施設の職員に言われたことをなんとなく覚えている。施設の敷地の内外を分ける白線があったのだが、それを越えてはいけないという話だった。確か、小学生になるまではその線の外に一人で出てはいけないということだったと思うが、当時の僕はそれを遵守していた。年齢的に当然のことではあるが、だいぶ狭い世界の中で生きていたんだなと思うとともに、26歳になった今の自分に与えられた自由の大きさを実感する。補助輪付きの自転車をその白線の内側で誰かに見守られながら漕いでいた。

保育園

施設内には保育室というものがあり、母は兄と僕をそこに預けて仕事に行っていた。小学校入学前の最後の1年間は外の世界にある保育園に通うようになり、そこで一気に自分の生きる世界が広がったような感覚がある。保育園には同世代の子どもがこれまで見たこともないほどたくさんいたし、保育室なんかとは比べ物にならないほど広い遊び場や、遊び方も分からないようなおもちゃがたくさんあった。そんな環境で、笑顔で自由に楽しそうに遊ぶ子どもたちを見て圧倒された。大体の子どもたちは既に数年はその保育園に通っているわけで、子どもたちの間には子どもたちなりのコミュニティが形成されていた。僕はといえば、施設で何人かの子どもと関わっていたとはいえ、その人数も頻度も多くなかった。保育園の子どもたちと比べてその年齢での対人関係スキルというものはとても劣っていたと思う。保育園での一年間、それなりに子どもらしく楽しくやっていたとは思うが、今振り返るとこの時から人との関わりが得意ではなかったのだと思う。

小学生

第一回引っ越し、第二回引っ越し

確か、小学1年生の時に引っ越しをした。これが僕の記憶に残っている第一回引っ越しである。場所は小学校のすぐ近く。徒歩5分くらいの場所にある、古い平屋の賃貸だった。一戸建てのように見えて、実は二つの賃貸物件が横並びでくっついている建物だった。あまり覚えていないが隣にはおじさんが一人で住んでいたと思う。おじさん側との境にある壁はかなり薄く、なんならおじさんがトイレを流す音なんかも聞こえていた気がする。ということはきっと僕ら家族の生活音もおじさん側に丸聞こえだった。兄と僕はよくケンカして大声で泣いたりしていたので、おそらくおじさんもかなり困ったことだろうと今になって思い当たった。

この家での思い出はほとんどない。気付いた頃には第二回引っ越しをしていた。と言っても、新たな家はおじさんがいた家から徒歩2分ほどの場所だった。どうしてこんな近くにかなり早いうちに引っ越したのか、その理由は母しか知らない。だが、引っ越して良かったと思う。新たな家は本当の一戸建てだった。しかも2階建てで、かなりでかい。自分の部屋ももらえた。生活のレベルが上がったような感じがしていた。

この新たな家には、祖母(母の母)や従兄弟(母の兄の息子)や何人かの友達が遊びに来てくれた。兄の友達も遊びに来ていて、一緒にゲームしたりもした。今思うと、この頃の自分は幸せだったと思う。家族と一緒に生活していて、たまに誰かが遊びに来てくれて、もちろん外でも友達と遊んだ。母が用意してくれた食事が当たり前のようにあったし。家族で旅行に行くとか、そんな特別な思い出があるわけではないけど、満たされた幸せな時間だったと思う。

どこかの児童養護施設的な場所

ただし、良かったことばかりでもない。具体的には覚えていないが、小学校低学年のいつかの夏休み、僕は兄とともに住んでいた市の外のどこかの児童養護施設的な所に預けられていた。その施設の名前も覚えていないので、そこがどんな位置づけの施設だったのかも今となっては分からない。どうしてそこに預けられることになったのかは何となく察してはいるが、本当のところはよく分かっていない。夏休み明けからは普通に元の小学校に通っていたはずなので、おそらく一ヵ月前後の間の出来事なのだが、当時の僕にはもっともっと長く感じられる期間だった。忘れてしまっていることも多いと思うが、その施設の印象は、暗く不気味で怖い場所という感じだった。

知らない街に車で連れられ、到着したその施設ではまず職員室のような場所に案内された。そしてそこの職員が施設での生活の仕方などの説明や、歓迎するというような旨の話をしていたと思う。職員の笑顔は不気味に見えた。途中、「お水どうぞ。」と水を渡されたので飲もうとすると、「お漏らしはしない?絶対するなよ。」と言われた。職員の顔は無表情だった。さっきまでの不気味な笑顔よりも怖かった。恥ずかしいことだが施設にいる間、ほとんど毎夜尿失禁をしてしまった。家ではなかったことだから、この時の自分がどれだけ不安を感じていたか推察できる。兄が一緒で本当に良かった。

この施設に行く前、母とある約束をしていた。施設で食べたご飯をメモ帳に書いておき、無事家に帰ったら母に見せるのだと。メモ帳は果物のオレンジが表紙に描かれた小さいものだったと思う。確か、家の近くの百均で買った。その約束は母から言い出したのか、それとも僕が決めたことなのかは覚えていないが、とにかくその約束が強い心の支えになっていた。施設での食事は入所している子どもたちが食堂に集まって一斉に食べていた。僕は食後に欠かさず食事内容をメモしていたと思う。ある日の昼食後、事件があった。いつも通りメモをしていると、突然メモ帳を取り上げられた。メモ帳を目で追うと、顔見知りの子どもがいた。僕より少し年上くらいの人だったと思う。そいつは僕の目を見てニヤニヤしていた。そして次の瞬間、大事なメモ帳をビリビリに破り始めた。僕は驚くとともにこいつを止めなくてはと思い必死になったが、そいつから手帳を取り返すことはできなかった。戻ってきたのはバラバラになった紙切れだけだった。その後、職員にその件を訴えたが、「そんなものを持ってくるのが悪い」というようなことを言われたような気がする。手帳を取り返そうとした時の、「約束したんだよ」と何度も泣き叫ぶ自分の声を今でも覚えている。

忌まわしい頭痛

確か5年生の頃のことだ。朝最初の授業が始まるよりも前の時間に友達と会話をしている時だった。ふと視界の一部が欠けていることに気が付いた。「あれ?なんか見えない。」などと僕は言い、友達は「ゲームのしすぎじゃないか。」などと言っていたが、それは視力の低下とは違った。視界の中で一部何もない所があるのだ。視点をずらすと、その見る先が白く光っているような感覚で、その先に何もなくなってしまう。初めての事で明らかに異常だった。その後、学校は早退し病院を受診する。診断は、偏頭痛だった。こいつとは今に至るまで長く付き合っている。本当はこうやって具合の悪い時を思い出すだけで、今にもその症状が再び発生してしまいそうで怖いので、普段は思い出したり、その名前を頭に頭に浮かべることさえ極力避けている。しかし、僕の人生を振り返る上でなかったことにはできない要素の一つであることは間違いないので、今だけは頑張って向き合ってみる。と思ったがもうやめたい。具合が悪い気がしてきた。とにかくこいつは苦しい病気だ。ドクドクと脈拍と同時に襲う耐えきれないほどの激しい頭痛、それに伴う激しい嘔気と嘔吐。こいつが来るとその日一日は自分が全く使い物にならなくなるし、そこから数日は頭が重い。少しでも無理をしようものなら、またあいつがやって来そうで、常に恐怖を感じながらしばらく過ごすことになる。布団を被って、「なんで自分だけ」と泣きながら痛みに耐えたことがこれまで何度あっただろうか。少しずつあいつが来る頻度は落ちてきているが、まだ油断はできない。もう一生来ないでほしいと心から思う。

中学生

第三回引っ越し

中学生の時にまた引っ越している。今度はアパートの一室。一階の玄関を入ったら正面に階段があり、二階にも部屋があった。一階がキッチンとリビング、二階は兄と僕の部屋だった。この家には高校卒業まで住んでいたので、自分の中ではかなり長く住んだ家ということになる。僕が高校2年の時に兄は大学生となり、家を出た。それからの2年間は母との二人暮らしとなった。兄がいた3人での暮らし、母との2人での暮らし、今となってはどちらも懐かしい。家族で暮らせる時期なんてそんなに長くないのだから、もっと大事に過ごせば良かったと思う。当時の自分にそんなことを考えるのは難しかった。

部活

小学校では陸上部だったが、中学では何か別のことをしたかった。ただし、小学校からの経験者が多くいるような部活はなぜか怖くてとても入る気にはならなかった。そうして、小学校まではなかった部活に目を付け入部することになる。しかし、入った部活には幼少期からそのスポーツをしていたという人が複数人おり、僕の入部の理由は何の意味もないものになった。しかも詳細は省くが、先輩たちは色々な意味で怖い人ばかりだった。当時の僕のコミュニケーション能力は本当に酷く、学校ではほとんど会話をせずに1日が終わるということも多かった。そんな中でその部活を楽しめるわけもなく、日に日に居心地が悪くなっていった。それでも途中でやめるという選択肢はなぜか頭に浮かばず、なんとか練習に参加し、なんとか頑張っていた。2年生の頃、足を怪我して、入院し手術をした。その後も一応しばらくは見学という形で部活に参加していた。だが何がきっかけだったかははっきりと覚えていないが、3年生になる前に退部した。途中でやめるという選択はあまり良くないことかもしれないが、結果的に部活をやめたことは良かったと思う。ストレスだった部活から解放され、勉強の成績が向上した。自分で言っても恥ずかしくないほどに当時はお勉強ができた。部活をやめて勉強時間を増やしたというわけではないので、それだけ部活による負担が大きく、脳のキャパを占めていたんだろうと思う。

高校進学

小学生の頃から担任の先生などに〇〇高校だな、と当然のような顔で市内で一番頭のいい学校と言われる高校を勧められていた。一番頭のいいと言っても田舎の数少ない学校の中でという話なので、全国レベルで見ればそれほど優れた高校ではない。実際、本当にその高校に進んだのだが、高校入学後に他の選択肢はなかったのだろうかと考えたことがある。もしも市外のもっと優れた高校に進学しようとしていたらどうなっていただろうか、もしもっと優れた高校に入学できていたとしてもそこでの勉強についていけただろうかなどと想像した。とはいえ過去は変えられない。きっと今までずっと最善の道を選んできているはずと思うしかない。

高校生

病気

高校生の頃について書きたいことはいくつかあるが、大体の話が高校2年の時の病気の話に繋がると思う。初めは高2の夏、家で過ごしていた何でもない時だった。首の右側にしこりを見つけた。何の気なしに首に触れた時に偶然気が付いたのだった。痛みはなく、よく触ってみると数センチほどの大きさがあった。数日後病院を受診し、いくつか検査を受けた。検査の結果は次の受診の時に知らせるとのことだったが、その受診までの間も自分でネットで調べてなんとなくこれはこの病気かもしれないと当たりをつけていた。いざ、受診。「落ち着いて聞いてください。」の後に病名を言われた。「甲状腺癌です。」と。事前に予想を立てていたこともあってか、この時僕は全く動揺しなかった。冷静に医者の説明を聞き、これから入院し手術が必要なことなどを理解した。僕は至って冷静でいつも通りなのに、その場にいた医者や看護師、そして母が醸し出す負の雰囲気がとても強かったことをよく覚えている。入院のために何日か学校を休まなければならないと聞いても特に勉強の心配などもしなかった。どうせすぐ取り返せると思っていた。むしろ、突然訪れた非日常の出来事にどこかワクワクしている自分もいた。医者の説明でも、自分がネットで調べた情報でも、死に至ることはほとんどない種類の癌であることは分かっていたので、その点も不安にならずにいられた理由の一つだと思う。

手術は無事終わり、その後しばらく入院して状態を見てから退院した。手術後も痛みはほぼなく、自分の感覚では元気なのに点滴が繋がっていたり、首からも管が出ていたり、なかなか退院の許可が出なかったりと自由がないことに不満が募っていた記憶がある。とはいえ、かなりスムーズに経過し、また学校に通うことができるようになった。しかし本当に辛いのはこれからであった。

まず、学校に久々に行った時に誰かに「なんで休んでたの?」と聞かれ困った。病気で休んでいたと言えばいいだけではあるのだが、もし何の病気かと聞かれたらどうしようかと思った。癌という言葉が持つインパクトは強く、正直に「甲状腺癌」と答えたら過度に心配させてしまうのではないかと考えた。人に心配をかけたり、誤った理解をされるのは避けたかったので、本当のことはなかなか言えず、適当に誤魔化すことだけが増えた。どんな内容であれ、言いたいことを言えないという状態は不健康だと思う。この時の自分にもう少しコミュニケーション能力があれば、ちょっと説明するだけで楽になれたのにと思う。

それから、その後も検査や治療のために何度も受診や入院をしなければならなかった。大学時代も含め10回前後入院しているはずだ。日程は色々なイベントに被らないように調整していたが、毎回の入院の度に数週間も自由を奪われる。大学受験に向けた勉強に大きな影響を与えたことは間違いないと思う。受診は今も定期的にしているし、今後もおそらくゼロにすることはできない。

進路

高校卒業後の進路は、人生全体の進路と言っても過言ではないくらい人生を大きく決めると思う。僕は、病気のことも関係して大学で看護学を専攻することになった。一方で高校1年の頃の僕の頭の中には、工学部や理学部、具体的な大学としては東大なんかが浮かんでいた。それらが実際叶えられる目標だったのか、叶えられたとしてその後の人生がどうなっていたのかなんてことは分からない。だけど、病気という自分の意思では避けることのできない大きな出来事によって看護という進路が決められたような感覚があり、釈然としない気持ちになることがあるのも事実だ。

大学生

第四回引っ越し

高校を卒業して大学に進学するため一人暮らしをすることになった。これが僕の第四回引っ越しである。一人暮らしの拠点はボロボロのアパートだった。決め手は何よりも安さだった。大学のキャンパスから近く通いやすい立地で、家具家電付き。古いアパートだから壁が薄かったり、虫が多かったり、枯れ葉が風で集められて玄関前に溜まったり、野良猫が夜になると集まってうるさかったり、悪い点はいくつもあったが、安いのが良かった。結局ここに大学4年間住んだ。悪い点も目を瞑ったり耳を塞いだりすればないのと同じ。なんだかんだいい家だったと思う。

奨学金

大学進学にかかる費用は全て自分で工面する必要があり、その手段は奨学金を借りるのが一番簡単だった。大学というのは国立だろうとかなりのお金がかかるもので、僕は大学進学を機に数百万円の奨学金という名前の借金をすることになった。ありがたいことに高校の時に病気をしたおかげで、その関係のNPOによる給付型の奨学金をいくらかもらうことができた。とはいえ、借金は膨大でしばらくの間は返済し続けなければいけない。

そんなわけで貯金ゼロ円どころか、貯金マイナス数百万円という状態で進学したので、少しでもお金を貯める努力をしなければならなかった。15時から23時までのバイトを週4くらいでやっていた気がする。気がするだけで本当のところは覚えていないが、けっこう頑張っていたのは本当だと思う。友達の貯金が100万円超えているとかいう話を聞いて、何円からスタートしてその金額なんだよと心に思ったことは何度かある。

そして就職へ

正直言って、大学時代のエピソードはほとんどない。看護という道に対して納得しきれていない自分がいて、そのせいで看護の勉強なんて全く興味を持てなかった。授業は適当に聞いて、適当にテスト対策して、最低限単位を落とさなければいいやと思っていた。では学業に割かなかった時間や労力を何か他の事に費やしたのかといえばそうでもなく、何をしていたのかも覚えていない。何でもいいから何かに熱中することができていればとたまに思う。もったいない時間の使い方だった。

そんな調子でとりあえず卒業はできた。そして一応看護師免許を手に入れることができ、他にできることややりたいことも特にないからということで看護師として働くことになった。

社会人

第五回引っ越し

都内の病院に就職した。特に働きたい病院などもなかったので、ネットで看護師人気病院ランキングみたいなものを見て、その中でまだ新卒の募集を行っている所に適当に応募した。作文とか面接をやった。適当に受けたその病院に採用されることになり、晴れて僕の就活はこの1回の試験のみで終わることになった。この病院には看護師寮があり、そこに住むことができた。大きなマンション一棟全部が看護師寮で、フロアごとに共用の洗濯機と乾燥機が2台ずつ設置されていた。古い建物ではあったが、大学の頃のボロアパートと比べればかなり綺麗でいい家だった。ただ、風呂トイレが別でなかったことと、立地的に手頃なスーパーなどが近隣になかったことが大きな欠点だった。

第六回引っ越し

病院の看護師はきつかった。色々なきつさがあったが、少なくとも自分のような看護師としてのやる気が乏しい人間には向いていない環境だったのは間違いない。看護師として向上心があり、看護師という仕事に誇りを持っているような人にはおすすめの職場だったように思う。学びたい人にとってはうってつけの環境だったのだろう。ということで、新卒で就職した病院は2年間勤めて退職した。現在は福祉作業所で看護師として働いている。今の場所の方が看護師として求められる専門性は多くなく、僕にとっても荷が重くない。何より忙しくなく余裕を持って楽しく働くことができている。転職に伴って病院の寮を出る必要があったので、新たな家に引っ越した。ここが現在の家だ。1Kでそれなりに綺麗で広い。安いスーパーも近くにあるし、悪いことの方が格段に少なく本当にいい環境だ。

これから

今の仕事をずっと続けることはできないと感じている。余裕があって楽しく働けているというのは素晴らしいが、どうしても飽きがきてしまう仕事内容なのだ。働き続けたところで新たに任される仕事はまずないし、ここで得られるものは全て得られたような感覚がある。何か新しいことがしたい。決して仕事を辞めたいとは思わないが、このようにポジティブな目的で転職したいと考えている。将来のことで考えるべきことは山積みになっているが、ひとまず直近では仕事のことをはっきりさせたいと思う。

最後に

朝に思い付いて勢いでここまで書いた。休憩していた時間を除けば、7時間くらい書いていたらしい。文章書くの楽しい。けど時間かかり過ぎ。

これまでの人生のあんなことやこんなことを思い返すことができて良かった。ここに書いたこと以外にも眠っていた記憶をたくさん呼び起こすことができていい経験だった。途中、当時を思い出して本当に泣きそうになりながら書いていた部分もある。自分が26年間生きてきたのだということを実感することができた。せっかくここまで生きてきたんだからもう少し生きてみてもいいかもしれない。

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