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だらだらで、するするで、ぺろぺろで、ふわふわです。

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血圧を測って問診票を書いて、ラドンの泉の受付に提出する。引き換えに作務衣とタオルそれぞれ2組ずつ、下着代わりの短パン、500mlのミネラルウォーターが入ったバッグが渡される。

まず更衣室で、下着も含めて服を全て脱いで、短パンを履き、その上に作務衣を着る。エレベーターで2階に下りる。エレベーターのドアが開くと同時に湿度と温かさをわずかに感じる。このフロアに男女別の熱気浴室がある。

熱気浴室の中は、湿度は非常に高いが、温度は40℃くらいでそれほどでもない。もちろん暑いは暑いが。すのこの板の密度を高めたような床の上に、ベッドのようなデッキチェアがたくさん並んでいて、好きな場所を選んでバスタオルを敷く。作務衣は脱いで、短パンだけでバスタオルの上に横になる。そこからは水を飲みつつ30〜40分間過ごす。

デッキチェア2台おきにパーテーションが設けられている。いちがやさんはパーテーションの向こうに陣取り、わたしはたかやまさんととなりあって寝転ぶ。壁にかけられたアナログ時計を見ると、14時20分をまわったところだった。熱気浴室内にはわたしたちのほかに利用客はいないように見えた。朝から来ている人はもう帰る頃だし、まだ宿泊客は到着し始めたばかりで、ちょうど空いている時間なのだろう。

たかやまさんは横になって数十秒で、両腕をだらりと下げてぐうぐう眠り始めた。本当に眠っているのだろうかと思うが、呼吸の音はたしかに寝息で…と、白い肌を晒して無防備に眠っているたかやまさんをじっと見つめてしまっている自分に気がついて、あわてて視線を天井にやる。

いちがやさんのいるパーテーションの向こうからはもぞもぞと身体を動かす音がしている。ときどきペットボトルのキャップを回す音が聞こえる。眠るか考えごとをする以外になにもすることがない。そのわりに時間が長いのだ。

床下を流れている温泉の水音と、暗めの照明が徐々に眠気をもたらす。こんなに暑くてじめじめしたところに裸で眠るという体験はなかなかないかもしれないなと思って、まぶたを閉じてみることにする。あ、眠ったらダメなのかな? いや、別に、いいか、サウナじゃない、んだし…、……。


あごから首筋にかけて大きな水の粒が滴る感覚で目を覚ます。デッキチェアの上で起き上がると胸やお腹に溜まっていた汗が重力に従ってだらだらと流れていく。時計を見ると14時50分。もうすぐ入室してから30分経つころだ。ばっちり眠っていたらしい。ミネラルウォーターを飲む。ぬるいがおいしい。短パンは汗を吸って色が変わり、太ももに張りついている。汗が目に入りそうなのでフェイスタオルで額の汗をそっと吸い取る。

30分経ったので未だ熟睡しているたかやまさんを起こす。たかやまさんのきめ細かい肌に小さな汗の粒が浮いている。わたしと違って汗のかきかたが上品だった。うとうとしているたかやまさんにミネラルウォーターを飲ませる。いちがやさんが起きてくる。作務衣を着て、ぼんやりしているたかやまさんをふたりで誘導しながら熱気浴室から出る。

エレベーターで3階に戻り、血圧を測った部屋に戻る。ここで水分補給をしながら座って汗が引くのを待つ。

大きな窓は開け放たれていて外気が入ってくる。涼しくて気持ちがいい。景色もいい。わたしたちのいる希望荘は西にある鈴鹿山脈の陰に入ってしまったが、菰野や四日市の街にはまだ日が差している。

再びくうくう眠ってしまったたかやまさんを挟んで、わたしといちがやさんはただただ時間が過ぎるのを待つ。いい時間だ、と思う。わたしがペットボトルのミネラルウォーターを飲みきると、いちがやさんが無料サービスのウォーターサーバーから紙コップに水を汲んで持ってきてくれた。

たかやまさん
「私も飲む」

いきなり目を覚まして声を出したたかやまさんに少し驚きつつ、いちがやさんは紙コップを手渡す。「ありがと」とたかやまさんは言うと瞬く間に飲み干してしまう。

たかやまさん
「はあ。暑かった」

吐息とともにぽつりと出てきた言葉に「だねー」といちがやさんは返事をしながらたかやまさんの手から紙コップを回収し、またウォーターサーバーに向かった。たかやまさんは立て続けに水を3杯飲んだ。


身体が冷えきってしまう前に、替えの下着とタオルと作務衣を持って温泉に行く。ケーブルカーのりばの脇から杉林の中に回廊がのびていて、その先に木漏れ日の湯という露天風呂がある。

戸を開けて入ると脱衣所と湯船がある。それだけの設備だ。そしてわたしたち以外にだれもいない。貸切である。たかやまさんがそそくさと作務衣を脱ぎ、豪快にかけ湯をし、湯船に浸かる。シャワーもないので湯船のお湯でかけ湯をするのだ。わたしもたかやまさんにならってかけ湯をし、いそいそと湯船に入っていって、たかやまさんのとなりでお湯の中に身体を沈める。

まぶたを閉じてお湯の中で右手で左腕を撫でる。するするとした感触。ああ、紛れもなく、

ささづかまとめ
「これはいいお湯ですね」

たかやまさん
「うん。当たりのお湯」

ささづかまとめ
「文句なしです」

いちがやさん
「そんなにいいお湯なんだ」

いちがやさんが湯船の縁にやってきて桶でお湯を掬う。

ささづかまとめ
「いちがやさん、ほんとにここはすっごくいいです! ここなら違いがわかる人になれます!」

いちがやさん
「テンション高。ふふっ、どうかな、わかるかな」

かけ湯をしているいちがやさんが、楽しそうに言った。でもさすがにこれはどんな人でもわかるだろう。ぬるめのお湯で、ずっと浸かっていられそうなのもいい。このお湯に好きなだけ浸かるためにここに泊まるのもありだな、と思う。

いちがやさん
「おー、すごい。なんかすべすべするね」

わたしのとなりにやってきたいちがやさんはそう言ってにっこりした。

いちがやさん
「化粧水っぽいね」

ささづかまとめ
「あっ、また出ましたね、化粧水例え!

いちがやさん
「あははっ、だってそれしか例えようがないんだよ、皮膚感覚」

ささづかまとめ
「たしかに、皮膚を覆う水分って汗か水かお湯か化粧水くらいですからね」

たかやまさん
「場合によっては」

たかやまさんが何かを思いつき、言葉に出そうとしたが、黙った。えらい。成長を感じる。

ささづかまとめ
「でもここのお風呂は素敵ですね。正直ケーブルカー目的だったので偶然でしたけどよかったです」

いちがやさん
「そうだねえ。ラドンのやつはあんまりよくわからなかったけどね」

たかやまさん
「蒸し暑かった」

ささづかまとめ
「感想それしかないんですか?」

たかやまさん
「だって、そうだったから」

たかやまさんは無表情にわたしの顔を見つめてつぶやく。熱気浴はお気に召さなかったらしい。

いちがやさん
「汗かけて気持ちよかったよ?」

たかやまさん
「梅雨時の雨上がりに走ったときと同じだった」

ささづかまとめ
「たしかにあのお部屋、気持ちよさと不快感がせめぎあってましたね」

たかやまさん
「汗かくのは好き。もっと涼しいところで汗かきたい」

いちがやさん
「じゃあプール行くしかないね」

たかやまさん
「泳ぐのは嫌」

いちがやさん
「そうか。じゃあ冬にランニング?」

たかやまさん
「冬はさーさちゃんが走ってくれない」

いちがやさん
「あー」

ささづかまとめ
「だって真冬の朝の7時前とかに出ようとするんですもん。寒すぎます」

いちがやさん
「じゃあ冬のお昼に走ろうね」

たかやまさん
「お昼は眠りたい」

いちがやさん
「うーん、じゃあ夕方に」

ささづかまとめ
「夕方はわたしがごはんを作ったりするので…」

いちがやさん
「……。ふたりのライフスタイル全然合ってないね?」

たかやまさん
「だから朝行くしかない。この冬は朝走る。さーさちゃんがんばろう」

ささづかまとめ
「ええー」

時間がただただ過ぎていく。木々の枝葉を揺らすひんやりとした風に吹かれながら、温かくてなめらかなお湯と戯れた。


木漏れ日の湯を名残惜しみつつ大浴場の自助の湯(じすけのゆ)に行き、頭を洗って、景色のいい露天風呂にも浸かる。ここのお湯は水が足されているのかあまり特徴がなかった。ほかにお客さんも少しいる。

たかやまさん
「そういえばいちがやさんのお尻を洗ってあげる約束だった」

露天風呂の岩にもたれて、傾きはじめた太陽が暖かく照らす伊勢平野を眺めながら、たかやまさんが言った。

いちがやさん
「そんな約束してないよ」

たかやまさんのとなりでいちがやさんがのんびりと言った。

たかやまさん
でも、汚れてるよ

いちがやさん
「あのさ、ほんとやめなさいって」

いちがやさんが声のトーンを下げて言った。

たかやまさん
「ちょっと洗わせてくれるだけでいい」

たかやまさんは動じない。

いちがやさん
……具体的には?

具体的には?

たかやまさん
「ボディソープをたっぷり手にとって泡立てて、お尻の真ん中をふわふわと洗います」

どうしていきなり敬語なんだ。

いちがやさん
直接触らないんだね?」

たかやまさん
そういうサービスはしてないです」

すかさずいちがやさんがたかやまさんの肩を手の甲で叩いた。ぺち、と小さく音がした。三重って関西?

いちがやさん
「それやったら気が済んで、もう言わないね?」

たかやまさん
大事なことだから

いちがやさん
「言わないね?」

たかやまさん
「言わない」

答えになっていないけれどそれっぽい返事をするのはたかやまさんの得意技なのだが、百戦錬磨のいちがやさんには通用しなかった。

いちがやさん
「よーし。じゃあお尻、洗ってもらおうか

いちがやさんはそう言うと、立ち上がって露天風呂を出ていく。その背中から漂うやけくそ感が少しおもしろい。

たかやまさん
「さーさちゃん、がんばろう」

たかやまさんは顔をほころばせてわたしに言った。え? なんて?


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