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パン屋日記 #56 最後の一皿まで

好きだった瞬間がありました。

シェフから手渡しで、
料理を受け取る瞬間です。

料理の受け渡しは通常、
「デシャップ台」と呼ばれる
カウンターで行います。

できあがった料理が次々とそこに出され、
ホールスタッフが伝票と照らし合わせて、
それらをピックアップしていきます。

デシャップ台への料理の出し方は、
料理人によってさまざまです。

料理の向きまで揃えて
きっちり並べる人もいれば、

忙しさにまかせて
タァンと乱暴に出す人もいます。

そして、いい料理人ほど
出した料理をすぐに届けてほしがります。

「最高」の賞味期限は、とても短いのです。



わたしは、シェフが入社してからは

調理の最終工程の音が聞こえたら
先にデシャップ台に行って、
料理が上がるのを待つようになりました。

バーナーで炙られたチーズが
ぐつぐつと音をたてたり、

色鮮やかなソースが
ドレスのように広がったり

芸術作品のように高く積まれていく
フリットを眺めたりするのが好きでした。

ちょっとズルをして、
伝票のチェック欄には先に印をつけて

なんならもう、
伝票を胸ポケットに入れてしまって、
右手を出して待機します。



初めてされた時は
ずいぶん驚いたのですが

シェフはこの右手をめがけて、

でき上がったお料理を
ダイレクト・パスします。

料理は、デシャップ台に置く方が
楽で安全です。

手がすべりませんし、
受け取り手のことを考える必要がなく

いつでも、どこにでも

自分のタイミングで
タァンと置くことができるからです。



それ以降シェフは、
必ずと言っていいほど
料理を手渡しするようになりました。

わたしの手が上の方にあっても、
下の方にあっても

よそ見をしていても、
はじの方にいても

スポッ

スポッ

と、料理をキメていきます。

なるほど、

「絶対に落とさない」という
前提さえあれば

料理をデシャップ台に置くときの
衝撃とロスタイムを
ゼロにすることができ、

きれいに立てかけたエビが
こてんと寝落ちすることもなく

料理にとって大変やさしいのです。

わたしはこの渡し方を、
コミュニケーションとしても
勝手に気に入っていました。

シェフは調理中、
ガシャン! ドカン! バタン! と
どんなに光の速さで動いていても

料理を手渡しする瞬間だけは、

ふっと真空になるように
静かだったからです。



約2ヶ月のコロナ休業が明けた、
ラスト・ラン初日

わたしは、
久しぶりに会ったシェフに
人見知りをしてしまって

気軽に話しかけることができませんでした。

料理の受け渡しも、うまくいきません。

2日目の午後になり、やっと勇気を出して

「シェフはお休みの間、
 お家で何してたんですか?」

と話しかけました。

シェフは少し考えて、
うつむいてふっと笑って

「トレーニングしてました」

とだけ答えました。

わたしは、

「そっかあ!
 だから全然太ってないんですね!」

と返したのですが

後から考えるとあれは、


「毎日お料理を作り続けていました」

という意味だったと思うのです。

かみ合わないなりにそんな話をした後は

少しずつ、思い出すように
タイミングが合うようになり

短いなりに長かった

店の歴史の、最後の一皿まで

お客さまに「最高」を
お届けすることができたのでした。



【大好きな「シェフ」のお話】

◾️立派なコックさんと熱帯魚のぶくぶく
https://note.com/icca333/n/nc1b8147af53e

◾️シェフコンクール
https://note.com/icca333/n/nf18ef98958bd

◾️ささやかで強烈なメッセージ
https://note.com/icca333/n/n58f00dc592e2

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