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東京日記〜はじめての六本木ヒルズ

引っ越しをしてから、毎日のように各種手続きが続いている。インターネットの工事をしたり、転入届を出したり、免許証の住所を変更したり。

電話も毎日のようにかかってくる。電話口の人は、みなAIのような喋り方をする。
水が流れるように通り一遍の説明をし、万一の時に備えて、責任から逃れるための予防線を張りまくる。

本日3人目のAIとの通話を終え、わたしはとうとう、虎になった。
AIとの度重なる通話で、心のやわらかい部分が消耗したというのもあるが

人は、少なくとも私の生活には、やらなければならないことだけでなく、「やってもやらなくてもいいようなこと」の成分が多少は必要なのだとわかった。映画を観ることにする。

私が観たい映画は、東京のあちこちで上映中だった。当面の間は節約生活なので、映画を観る機会はほとんどない。「せっかくなら、六本木ヒルズで観よう」と思いついた。
私の幼心にとって、東京とは、渋谷109、恵比寿ガーデンプレイス、原宿竹下通り、そして六本木ヒルズのことだった。

ワンピースを着る。電車を乗り継いで、六本木ヒルズへと向かう。

私にとって東京の代名詞だった六本木ヒルズは、思っていたのとはいろいろと違った。

まず私は、六本木ヒルズとは、「六本木ヒルズ」という大きなビルがドンと一棟建っていると思い込んでいた。
しかし実際には、複合商業施設全体を指す名称であった。

また、六本木ヒルズというのは、きっとパキッと四角く、シンプルでモダンなデザインだろうと思い込んでいた。
実際には、「設計に失敗したイオンモール」のような造りになっていた。

とにかく複雑で、地図がまるで役に立たない。立体的で難解な造りである。あと、古い。思っていたよりもずっと、外観の風合いが古い。

それもそのはず、六本木ヒルズは、もう20年も前にできた建物だったのだ。私の中にあるステレオタイプは、そもそも間違っていた上に20年も更新されていなかった。

平日昼間だったこともあり、人はまばらだ。一人で歩く人はほとんどおらず、かといって3人以上の人も見かけず、大抵の人が2人組だった。東京においては希少な「広々とした平面」の上を、いくつかの2人組が漂っている。

六本木ヒルズには、もちろんのこと、ガラス張りのおしゃれなカフェがあった。席にはかなり余裕があったが、横目で見ながら通り過ぎることとする。
おしゃれに語らう人たちは、ショーウィンドウに飾られているように見えた。私はマクドナルドへと向かった。

六本木ヒルズには、マクドナルドがある。私の心の六本木ヒルズに、マクドナルドは馴染まない。
高級な場所と、庶民的な店。ギャップがあるものの組み合わせは、いつだって刺激的で、魅力的だ。ラグジュアリーなマクドナルドってどんな感じなんだろう。わくわくしながら入店する。

現実は、いつも私を裏切ってくれる。
六本木ヒルズのマクドナルドは、14時にも関わらず、大行列のすし詰め状態だった。

入口付近のテラス席こそ、外国人が多くおしゃれな雰囲気だが、店内に入ってみれば、夏休みのマクドナルド舟入店と変わらない。

新聞を読むおじさんがいて、待ち合わせの女の子がいて、宿題をする子どもがいる。
学生グループ、カップル、作業着の男性、ベビーカーの家族、上京したての私。いま六本木ヒルズに存在する人間の9割はマクドナルドの店内にいた。

現実を眺めながら、ほくほくとチーズバーガーを食べる。そろそろ映画の時間だ。

六本木ヒルズの映画館は、TOHOシネマズだ。ロビーの面積こそコンパクトだが、その奥には9つものスクリーンが隠れている。フードメニューやドリンクメニューも通常通り。その中で一つだけ、初めて見るものがあった。「プレミアボックスシート」である。

映画の鑑賞料金は2000円。そこに1000円を追加で払うことで、特別な座席に座ることができる。
革製のソファと、木製の肘掛け。映画に没入できるよう、ひと席ずつ壁で区切られて半個室のようになっている。横幅はゆったり1.5席分。ソファの横には自分専用の荷物置きスペースもある。

平日昼間に3000円を支払って、1本の映画を観る人。どんな人が来るんだろう?やっぱり、カップル向けかな。

開演5分前。案の定、やってきたのは1組のカップルだった。

デートで、六本木で、プレミアボックスシート。特別感があって良い気がする。
しばし見守らせていただいた。どうも二人の様子がおかしい。

なるほど、この座席は、
椅子と椅子の間が木製の壁ではっきりと区切られている上に、隣の席との間に荷物置きスペースが設けられている。
普通に椅子に腰掛けると、左右にいる人の存在がしっかりめに遮断されるのだ。

恋人に話しかけたり、ポップコーンを分けたりするためには、いちいち大きく身を乗り出し、隣をのぞき込む必要がある。手などもちろん繋げない。デートには、圧倒的に不向きである。

つまりこのシートは、
意図的にしろ、結果的にしろ、「鑑賞環境の確保に課金し、映画にひたすら没頭する時間を楽しむ個人」のために設けられた席なのである。

私の方は無事、最後列の通路側で鑑賞を終えて帰路についた。
人気の少ない地下道を歩いていると、目の前を2人組の外国人男性が歩いていた。2人とも体格がよく、片方の人は身体の広範囲に刺青がある。もしもこの2人が今、パッと振り返ってバッグを奪おうとしたら手立てがない。iPhoneの警報の鳴らし方を思い出しながら、少しゆっくり歩いて距離をとる。

男性2人が上りエスカレーターに乗り、私は少し間をあけて後に続く。
刺青の彼のふくらはぎの内側に、なんだろう、私の遠い記憶を刺激する図柄がある。曲線。複数のへの字。男性の足元が、ちょうど私の目の高さまで上がった。


トトロだ。


男性は、ふくらはぎの内側にトトロを彫っていた。もっとも大きい、あの灰色の大トトロである。
男性が、ふいに足を組み替える。子どもの頃、ビデオテープが擦り切れるまで観たあのトトロが、私の方を振り返って「ニコ!」と笑いかける。

都会というのは、こんなにも人を疑い深くしてしまうのか。ふくらはぎの内側にトトロを彫る人に、悪いやつはいない。私は深く反省した。

ギャップはいつも、刺激的で、魅力的だ。

心と現実の狭間で
たくさんのギャップに出会うことができた、

はじめての六本木ヒルズなのでした。


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