カテゴリーはアイデンティティではない(カテゴリー依存型アイデンティティ)
近年HSPやADHDやASDなどの言葉をよく見かけるようになりました。
またMBTI診断のような性格診断の結果(ENTPとISFJとかそういうやつ)などもよく見かけます
しかしながらこのようなカテゴリーをアイデンティティにしようとしている人がいる事に対しては違和感を覚えています。
今回はカテゴリーをアイデンティティにする人についての解説になります。
(名付けるならカテゴリー依存型アイデンティティという感じでしょうか)
ちなみに僕自身もADHD傾向が強いと認識しています。
病院で診断をもらいにいくほどではありません。
しかしながら傾向としてはかなりあるのではないかと考えています。
発達障害は障害という言葉がついてはいるものの、結局のところは単なる特性です。
特性に偏りがあって著しく日常生活に支障がある場合に発達障害という診断を必要とする、という風に捉えています。
発達障害を始めとする自分自身のカテゴリーを知る事で行動パターンやその原理を認識できるというメリットがあります。
つまり自己理解を深める事に繋がるという事です。
またADHDという言葉がある程度浸透している今であれば、そのカテゴリーを提示する事が説明書的な作用を果たす場合もあるでしょう。
しかしここで注意すべき事が一つあります。
それはあくまでもカテゴリーはアイデンティティではないという事です。
ADHDやHSPを自身のアイデンティティのように語る人というのが非常に多いのではないかと思います。
しかしながらADHDやHSPやMBTIはあくまでもその人の特性でしかありません。
その人がどのような思想を持つのか、どのように生きるかという本質を示すものではないという事には注意が必要でしょう。
同じカテゴリーでも生き方は多様です。
考え方も無数にあるでしょう。
精神的に成熟している人もいれば、精神的に未成熟な人もいる。
他人に優しい人もいるし、自己中心的な人もいる。
カテゴリーというのはマイノリティを可視化するために僕は必要なものだと捉えてはいます。
実際僕自身ADHDという概念に出会った事で自分が何故いつも同じ失敗をするのか、何が苦手で何が得意なのかを理解するのにかなり役立てられました。
ところが最近はこのカテゴリーが一人歩きしすぎているのではないかと思います。
マイノリティを可視化する目的とは多様性を尊重する事でしょう。
ところがカテゴリーに自分を当てはめて自分をそのカテゴリーの中に留めて動こうとしない人というのはむしろ多様性を否定しているのではないでしょうか。
ADHDやHSPなどのカテゴリーはアイデンティティになり得ません。
あくまでも特性であり、傾向であり、その人の一部でしかないのです。
その人らしさを持つとかアイデンティティを確立するというのはそのような特性や傾向を含めて自分自身と向き合って自分自身を受け入れていく事、そしてどのように生きるのかを自分自身で考えるという事です。
同じカテゴリーに属せば全員が同じ生き方をするという事ではないはずです。
カテゴリーをアイデンティティにするというのは自らのアイデンティティを否定しているに等しいのではないかと思います。
確固たるアイデンティティがない自分に耐えきれない人が自分を納得するために行う自己防衛であり生存戦略なのかもしれません。
これはよくある会社組織や学歴をアイデンティティにする人とやっている事は同じだと考えています。
「自分はこの会社で働いている」「自分は◯◯大学を出ている」などのステータスをアイデンティティにする人というのがよくいます。
しかしながらそのような偽物のアイデンティティを誇示したところでむしろその人自身のアイデンティティの無さを露呈させる事に繋がってしまうのです。
(これをステータス依存型アイデンティティとでも呼びましょうか)
今回の記事ではカテゴリー依存型アイデンティティ、そしてステータス依存型アイデンティティと思いつきで命名しました。
命名してみて一つ思った事があります。
それはアイデンティティがない人には依存が伴うという事です。
アイデンティティがない場合に生まれる葛藤から逃げるための自己防衛であり、生存戦略が依存なのかもしれませんね。
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