資本主義が人間から奪った本当に大切なモノ
かつてカール・マルクスは言った。
「一般に労働の目的が富の増大である限り、私はあえていうが、労働そのものは有害であり、破滅的である。」と。
150年経った今も、いや今だからこそ彼の「資本論」が骨身に染み渡る。
なぜ私を含む多くの人間が労働を辛く感じるのか、その核心とは何かについて、自分なりの発見を綴っていきたい。
人間の幸福とは何か
その前に、そもそも人間とはどんな時に幸福を感じる生き物なのだろうか?
ミシガン州立大学の分析によると、「他者の役に立っていると確信できたとき」だそうだ。
「いやいや。一人でゲームしてればそれでいい。」「綺麗事でしょ」と思う人もいるだろうが、私はこれは正しいと思う。
自分が何気なくやったことで相手にお礼を言われて少し嬉しくなったりしたことは誰にでもあるだろう。そういうレベルの役に立つ、でいいのだ。
言い換えれば「自分にとって苦痛にならない範囲で、相手が喜ぶことをする、そして実際に喜んでもらう」、というのは、間違いなく全人類の望みだと思う。
ここでの要件は以下である。
①自分にとって苦痛でないこと
②相手が喜んでくれそうであると自分が思えていること
③実際に相手が喜んでくれてお礼を言ってくれること
これら3つを合わせて幸福要件と名づけよう。
なぜそれが嬉しいかと言えば、そもそも人間とはどんな動物であったかに話は遡る。
よく人間は社会的動物だというが、それはまさしくその通りで、基本的に人間は一人で生きられるようにできていない。
集団で生きるのが自然であり、そのためにはその集団にいられるように自分なりに役割を見つける必要がある。
役割を見つけ、役割を達成し、「ここにいられる」という安心感を得る。
つまり、人間は集団で生きていく作りになっているがために、「他者の役に立つ」ことに幸福を感じるようにプログラミングされている。
これは逆に一人でいると「孤独感」を感じるのも同じメカニズムである。
「孤独感」というアラームに集団の中に入っていくように促されているのだ。
ここまで複雑な社会を創造できる人間は確かに賢いかもしれないが、それと同時に動物であるという事実からもまた逃れることはできないことがわかる。
労働と幸福
ここで本題の「労働」と「幸福」の関係性を考察していきたい。
この世には本当に様々な職業が存在する。
中には幸福感を覚えながら労働をしている人も間違いなくいる。
では、その労働によって幸福を感じている人とそうではない人の違いはなんなのだろう?
私は先ほどのメカニズムを知ったとき、幸福要件が労働によって満たされている人は幸福を感じ、そうでない人は幸福を感じていないのではないかと仮説を立てた。
もしくはより広く、労働環境が幸福要件を満たすことを許しているか否かと捉えてもいいのかもしれない。
わかりやすい例で医療従事者で考えてみたいと思う。
まず医療行為・治療行為が自分にとって苦痛ではなければ①は満たされている。
次に②に関しても、基本的に患者に対する医療行為は喜ばれる可能性が高い。
また、患者によるだろうが、「ありがとうございました」等、完治後にお礼を述べる人もいるだろう。中には「命の恩人です」などという人さえいる。
上記を踏まえると、確かに労働と幸福はつながっていそうだ、と思う人は少なくないだろう。
だがここで私が考えたいのは、むしろ同じ仕事にもかかわらず満たされていない場合の話である。
①に関して、中には血が苦手という個人の特性により苦痛を感じる場合もあるだろうし、さらに多いのは圧倒的な長時間労働という職場環境による苦痛だろう。別に医療行為にやりがいを感じていようが、医療従事者も一人の人間であり、劣悪な職場環境で身体的及び精神的苦痛を感じるのは至極最もと言える。
②に関しても、たとえば本人としては本当はこの患者にはもっと時間をかけてこうやった方が予後がいいのでは・・・と考えたとしても、方針の問題で勤務している病院ではそれを叶えることが難しいこともある。この場合も、もちろんできる範囲で努力はするのだが、真面目ゆえに「相手にとって本当にこれでいいのだろうか?」と悩んでしまえば「相手はこれで喜んでくれるだろう」という確信がぶれていくことになる。
そして③に関しても、中にはモンスターペイシェントと言われる、医療従事者に対して必要以上に負荷をかけるような人間相手だと、疲弊する場合もあるだろう。もちろん体調不良で病院に来ているのだから、機嫌よくいるのが難しかったり、時には八つ当たりしてしまうことはあるだろうが、そういう患者ばかりを相手にしている期間と、①②の苦しみが重なった場合には、燃え尽きてしまったり、離職を考える人は少なくないのではないだろうか。(昨今のコロナ時など)
ここまで述べた上で何が言いたいかというと、
それは
「同じ労働であっても幸福要件が満たされているか否か幸福かどうか変わってくる」
ということだ。
逆に言えば、
「その労働を捉え直した結果、幸福要件に当てはまると思えば、同じ労働でも幸福を感じることができる」
ということでもある。
すごい!これならどんな人でもできるじゃないか!と思うと同時に、そもそもなんで同じ仕事なのに満たされなくなってしまうのか?という要因を考えてみると、そこには資本主義の限界が見えてきた。
資本主義とは
私なりに定義すると、利潤追求が基本となる考え方を中心とする社会だと思う。
現在、世の中の大半の企業は株式会社である。そして、株式会社の持ち主とは実は株主であり、経営者のものでもなければ社員(使用者)のものでもない。
経営者は顧客の方を見ていると見せかけながら、実は大半は株主の方を見て仕事をしている。
経営者はあくまで株主から選任されているので当たり前といえば当たり前なのだが、この歪さが、大半の労働者の幸福を奪っている可能性が高いと思う。
利潤の追求とは、基本的にコストをカットし、売上高を上げること。それにより株主は配当などで富を得ることができる。
そのため、株主はそういった利潤を追求できる人間を経営者に据える。しかもそれは大半は短期的な話であり、去年と比べて今年はどうなのか、という目線でしかない。
中には長期的な経営の視点から判断できる人もいるだろうが、大半は短期的な利潤の追求の魅力に抗うことはできない。
そうして決定された経営方針は、確かに株主を喜ばせるものかもしれないが、実は労働者にとっては、幸福要件を奪われることになってしまっているのではないだろうか。
たとえば長時間労働。
新しい人を雇うよりも、同じ人に残業代を払う方が企業としてはコストが少ない。
ならば同じ人にさらに仕事をやってもらって売上高のトップを上げるのが資本主義では理にかなっているのだ。
次に経営方針。
たとえば、診察は一人当たり最大◯分、なぜならばそれ以上は点数がつかず売上にならないから、など、医療行為にまで資本主義の考え方が侵食することも珍しくない。
また別の仕事で言えば、顧客にとってたとえあまり意味がなかったとしても、商品を売り、その営業成績で企業内の評価が決まるということも少なくないだろう。
確かに、「顧客はまだ知らないだけで本当に役に立つのだ!」と自分が思えている商品であれば苦痛は感じないかもしれないが、そうでない場合は良心が傷ついてもおかしくない。
また昨今よくあるカスタマーハラスメントも、企業が利潤の追求のために労働者を犠牲にしてきた結果だと思う。
内容ある相談なら真摯に受け止めるべきだが、難癖のクレーマーにまで丁寧に頭を下げる必要はどこにあるのだろうか?なぜ労働者はその場で戦う権利を剥奪されてしまうのだろうか?
なぜ顧客だからといって、人格侵害されても穏やかに対応することを求められなければならないのだろうか?それで得するのは誰なのだろうか?
ここまで考えれば、その方針すらも、労働者は替えが効くとタカを括り、株主の方しか見ずに利潤を追求する経営者のものだというのがわかるだろうか。
透明性が低く、人口がどんどん増えていく時代であればそのやり方は通用したかもしれないが、これだけインターネットで情報が広がり労働人口が減少していく世の中では、だんだん通用しなくなっていくだろう。
その中で企業側は、できるだけ労働者にとって幸福要件を満たせるよう、努力する必要がある。
それは福利厚生などのいつ使うかわからない制度のようなものではなく、日々の労働の中に横たわる充実感を殺さない努力だ。
資本主義の型では一見無駄にしか見えないものでも、実は労働者の幸福要件に寄与するかもしれない。
その目線を持たずに数字だけの判断が続けば、遅かれ早かれ大半の労働者は潰れるか離れ、殺伐とした現場だけが残るだろう。
既にそうなっているところもたくさんあるだろうが、そんな職場をどうにかしたいと願う人がいるならば、どうにか幸福要件を満たせるようにならないか仕事を捉え直したりして、知恵を絞ることをお勧めしたい。
資本主義の限界が見えてきたとはいえ、もちろん一朝一夕に世界は変わらないだろう。
それでも労働者にはその仕事における幸福要件を見つけたり捉え直したりすることはできるし、経営者には幸福要件を殺さない努力はできるだろう。
これだけ労働者の幸福度が低いと言われる日本でも、実はそんなシンプルなことで大きく変われるポテンシャルがあると、私は信じている。
「一般に労働の目的が富の増大である限り、私はあえていうが、労働そのものは有害であり、破滅的である。」
マルクスのこの発言に自分なりに付け足させていただく。
「だからこそ、自分の幸福を労働で満たせないか考える必要があるのだ。」と。
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