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いつか僕らは死んだ誰かを思い出して微笑む『フラニーとズーイ』

やあ、僕だよ。飽き性ちゃんだよ。
サリンジャーの話題をちらと出したらどうしても頭から離れなくなってしまっていて、本棚から『ナインストーリーズ』を取り出そうとしたのだけれど、そういえば電車に忘れたか誰かに貸してそれっきりだったかで手元になかったんだよね。

とりあえずサリンジャーを摂取したくて図書館に向かうと、『ナインストーリーズ』がなくて『ライ麦畑でつかまえて』が三冊あったの。
所蔵図書の偏りって何が原因で起こるのだろう。こうなったら意地でも『ライ麦畑でつかまえて』を選びたくない。

だからこの本を選んだのだけれど、結果、サリンジャー欲がより燃え上がってしまってこの欲求を持て余すほどさ。
それじゃ、今日も楽しんでいっておくれよ。

本書あらすじと感想

『フラニーとズーイ』J.D.サリンジャー
村上春樹翻訳の方を読了した。野崎孝翻訳もはるか昔に読了済み。
タイトルの通り、「フラニー」と「ズーイ」の二部構成の本である。一九五〇年代のアメリカの風俗や宗教についての造詣があるとより楽しめるのだろうが、村上氏曰く、

 今日我々がこの『フラニーとズーイ』を読むとき、おそらく読者の大部分はそこにある宗教的言説を、実践的な導きの方法としてではなく、むしろひとつの歴史的引用として、一種の精神的メタファーとして処理しながら読み進むことになるのではないかと思う。そういう文脈で読んでいけば、読者は表面的な「宗教臭さ」に惑わされることなく、この物語の核心に比較的容易に、率直に迫ることができるのではないだろうか。
(中略)
 一般読者にとっては、そういう細部の事実がわからないと、この小説の意味が本当には理解できないというようなことはないと僕は考えている。

とのことなので、ふわっと「こういうもんなんだ」程度でも十分面白い

第一部「フラニー」。「パーティ」や「フットボールの試合」を予定に組み込むような典型的エリート大学生の「レーン」が、チャーミングな女子大学生「フラニー」と「プラットフォームでよくあるキス」をする場面から始まる。

「フラニー」も手紙に「キスキスキスキス(中略)」と書くような若い女の子であったはずなのだが、「レーン」に皮肉と非難と批評と文句をつらつらと告げ、心身衰弱、ついには失神してしまうまでの話だ。

第二部「ズーイ」。「バディー」が「散文によるホーム・ムーヴィ」を綴っているという設定の中、美しい(と自他ともに認めている)俳優のはしくれ「ズーイ」が母「ベッシー」や最も近い姉弟で祈りに固執している「フラニー」とそれぞれ問答する。

問答の場所は過去の陰鬱や栄光が色濃く残る、「グラス家」の居室だ。
物語の終わりに「ズーイ」は「シーモアとバディー」の「二人の兄が共有していた部屋」に入り、「バディー」のふりをして「フラニー」に電話する。そうして、「シーモア」の思い出を共有出来た彼女が微笑んで眠りにつき、この「冗長」な話は終わる。

日本のサリンジャーファンにはお馴染みの「村上翻訳か野崎翻訳か」という議論だが、僕は食わず嫌いで野崎翻訳派だった。

『ライ麦畑でつかまえて』を野崎翻訳で読んでしまっていたし、『ナインストーリーズ』は村上翻訳が出ていない(僕が調べた限りは)。
僕の中のサリンジャーは『ナインストーリーズ』なので、読んでないけれど、『フラニーとズーイ』も野崎翻訳一択だと思っていた。

多少村上節は感じられたけれど、それはそれで小説家の翻訳らしくていいのではと僕は感じられた。
もしもっと血気盛んな頃に読んでいたらAmazonレビューでこき下ろしていた可能性もなくはないが、穏やかな僕が読む分には前に読んだ本を初見のように読めてお得だなと思った(海外作家だからこそのメリットだ)。

前に挙げた村上氏のエッセイの通り、『フラニーとズーイ』は宗教くささが至る所にあり、サリンジャーの小説に共通した「死」の匂いとも相まってとっつきにくさがあるかもしれない。

そのとっつきにくさが青春時代の煮詰まった空気を上手く表現していて、宮本輝の夏を思わせるような、それこそ村上春樹の恋人関係外の性的コミュニケーションのような、自分は特別だという思いに囚われた若者特有の気持ち悪さが快いのである。

また野崎翻訳も読んで比較したいなぁ。
今回二度目とは言え、別の翻訳家のもので、かつ初見読了したのは二十年近く前(!)なのだ。
同じ状況で読んだらどう変わるのだろう。今からめっちゃ楽しみ。ふふふ。

えっ!この翻訳しかないの?!

僕が図書館に借りに行ったら、野崎翻訳のサリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』のみで『ナインストーリーズ』も『フラニーとゾーイー』も取り寄せになるという。

ただでさえ、色々欲求不満だというのに待てるわけがない

ついこの間村上春樹を読んだばかりで間を置きたかった心持ちはあった(疲れるから)が、これしかないのなら我慢するしかない。
世帯収入が二馬力だったことを忘れ、二分の一馬力だと自覚すべきだ。

貧乏学生時代がなければ心がぶち折られていただろうが、僕は我慢を、こういう機会がないと読まない本を読める喜びに変換して意気揚々と帰途についた。

この物語はグリーフワークだと僕も思う

あまりレビューを読み漁ったわけでないが、『フラニーとズーイ』(あるいは『フラニーとゾーイー』)についてグリーフワーク」に触れたオリジナルレビューはこれしか見当たらなかった

彼女が微笑んだのは「シーモア」のまともな話を「ズーイ」と出来たからだと僕は思う。
作中の「シーモア」の二十一歳の誕生日は現在のグラス一家らしからぬ楽しげな、ごく一般的な家族愛が満ちた一日であったことが記述されていて、彼らが「シーモア」の死(『ナインストーリーズ』の一遍、「バナナフィッシュにうってつけの日」で彼は自殺する)で深く傷ついたことが想像できる。

この物語は決して読みやすくないからこそ、「グリーフワーク」としてみると優秀な物語だ。
僕も誰かを失くした経験があって、その悲しみを自分のものだけにしておきたいのに、でも苦しくて密やかに共有したいと矛盾した気持ちにどうにかなってしまったことがあった。

僕はつまり、「フラニー」だったし「ズーイ」だった
誰も失くしたことがなかった乙女の僕が気づけなかった、サリンジャー作品の一面である。

バナナフィッシュ探しごっこに付き合ってくれる友だちがいた時代

その時僕はサリンジャー『ナインストーリーズ』に凝っていて、厭世家でいながらいかに明るく振舞えるかの実験をしていた

ところで、「シーモア」についての思い出と言えば、僕にとってはこの「実験」なのである
スピリチュアルも大好きだったし、『GOTH』(乙一著)も同時期に読んでいて殺人事件や死亡事故の記事を蒐集する(三日も続かなかった僕は飽き性ちゃん)痛い思春期だった。

でもさ、言い訳をさ、させてもらえるのならね。

僕の周りもそんな感じだったよ。
やたら生死を考えるタイミングが多く(付属池田小事件や9.11がごく最近起きていた)て、すごく死ぬってことが近い時代だったんだよ。

今の子どもたちは何が一番近いのだろう。
コロナウィルス流行もかなり、歴史的にインパクトの強い出来事だ。でもコロナウィルスの恐怖よりそれに伴う強制的な閉塞感や頭打ち感の方が強いのだろうか

僕はもう、そういう強い感情を引き出せるような年齢をとうに過ぎてしまっていて、ただ穏やかに日々を過ごすばかりである。
(もう少ししたら誰かとまた、バナナフィッシュ探しごっこしたいなあ。)


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