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「NEEDY GIRL OVERDOSE」レビュー②にゃるら氏の言葉

※この記事は三部構成記事の二部となります。第一部はこちらをご覧ください。

・はじめに

 第一部では自分がこのゲームを遊んだ感想、その面白さ、緻密な調整のすばらしさなどを書いた。これはあくまで私の考えなのだが、noteにこのゲームの生みの親であるにゃるらさんが「NEEDY GIRL OVERDOSE」について書かれた文章があり非常に興味深かったので、これを読んだ感想や考察を書いていきたい。
 なのでこの記事を読む方にはまずは下記のにゃるらさんの文章を読んでもらいたい。とにかく面白いので、なんならにゃるらさんの文章に満足したなら私のは読まなくても構わない。できれば読んでほしいが。

・超てんちゃんのモチーフと坂口安吾

 にゃるらさんはこのゲームにおいて、「とにかく超てんちゃんの顔の良さを前提とした世界」を作りたかったという。
 それは、ゲームの中でのあめちゃんの圧倒的にかわいいビジュアル、ファンが彼女のかわいさについて語る姿、そして現実世界において無限に寄せられるファンアートやコスプレ、ゲームを離れて活躍する超てんちゃんの姿を見れば達成されているのは言うまでもないだろう。
 同時に、彼女が記念配信やSNSでふいに見せる、思索的で哲学的な姿が、このゲーム世界、あるいは現実世界のいびつさを自覚し相対化している、つまりその世界に作り手が耽溺しきってはいないというのがこのゲームをより魅力的なものにしていると、この文章を読んで感じたのだった。
 にゃるらさんは坂口安吾作品に出る「性格が最悪な代わりに、それがゆるされるくらい最高に顔がいい存在」が大好きであるといい、別のエッセイでその好例として「夜長姫と耳男」の姫をあげていた。

 私はこの作品については不勉強であったためこれを機に読むこととしたが、読んでみるとなるほど確かにあの超てんちゃんの配信コメントやリプライに来る人々や「ピ」、そしてこんな文章を書いている私がまさに「あめちゃん」という「夜長姫」によって狂わされた存在なのだろうと感じたものだった。青空文庫にもあるので、読んでみるときっと共有できるものがあると思う。

・先行作品としての「DDLC」

 「NEEDY GIRL OVERDOSE」を知った段階から私も思い浮かべてはいたが、にゃるらさん本人が先行作品として「Doki Doki Literture Club!」をあげられていていた

 DDLCは私にとって生涯ベストゲームの一つであり、にゃるらさんも記事の中でDDLCの完成度の高さとゲーム体験の満足度が賞賛されている。その二点は私がDDLCに感じることでもあるし、「NEEDY GIRL OVERDOSE」に感じることでもある。
 どちらも、美少女ゲームの形式をとりつつ、そこでプレイヤーが下す「選択」とその「結果」「意味」を非常にスマートな形で問うようなものとなっている。かといって「NEEDY GIRL OVERDOSE」がただのフォロワーではないのは、そこに時代性やにゃるらさんの嗜好と言った特殊性がふんだんに込められていることが大きいのだろう。

・「美」、私がインディー・フリーゲームが好きな理由

 この記事の中でにゃるらさんはゲームにおける「真善美」について語られていて、にゃるらさんは今作において重要視したのは「美」である、としている。
 ここで言うゲームにおける「美」とは「操作感でも正しいシナリオではない部分の面白さ」「製作陣の個性」であり、今作においては「前例のないゲームシステムを構築し、ギミックをつぎこんだ芸術性を見せつけて感動させる」ことだという。この文章を読んだとたん、とても腑に落ちた。「美」という概念には、私も覚えがあった。
 私の話になるのだが個人や小規模体制で制作されたインディーゲームやフリーゲームが好きだ。その中でも特に好むのは、プレイしている時にまるで作者、あるいは作者の価値観と「対話」しているような感じを受けるものだ。そのような作品はあとで折に触れて思い出したくなる。それはたとえば小説を読んでいる時に感じるものに近いかもしれない。
 そのような感覚を私に与えてくれる要素とは、コンセプトを体現したグラフィックやUIから受ける美意識であったり、メジャーなゲームではできないであろう逸脱的なストーリーや哲学一つのアイデアに徹底的にこだわることで得られるオリジナルな手触り細部から漏れ出してくるクリエイターの熱意、そのような、いびつさも込みの、個人の思いを注ぎ込んだ結果としての「美」であるのだろう。そういうものに触れられた時私はゲームをプレイする喜びを感じるし、私が好きになるゲーム、長く思い出に残る作品というのはそのようなものが多い。そして言うまでもなく「NEEDY GIRL OVERDOSE」もそういう作品だ。(余談だが私は任天堂やスクエニのファンでもあるため、にゃるらさんが言うところの「真」と「善」が保証されている作品も好きである)
 また、「美」が強調された作品として北野武映画をあげていることが印象的だ。にゃるらさんもおっしゃる通り「ソナチネ」は観てほしい。私が北野武映画で最も好きなのは「dolls」なのだが、考えてみるとあの映画を見たときに感じるものと「NEEDY GIRL OVERDOSE」に感じるものに近いものがあると思う。あの、「ああ…」としかいうようのない寂寥感と「これしかなかったのだろう」という無常観を、両者から感じるのだ。

・まとめ

 ここまでは、にゃるらさんの言葉から改めて色々と考えてみた。このようにクリエイターの言葉が残っているというのは本当にありがたいことだし、このような機会が作れたことには感謝しかない
 第三部では、なぜこのゲームが私に刺さったかについて、私自身も配信をすることなどを含めて書いていきたい。正直自分語りの要素が強くなるので、それでもいいという方のみ読んでいただければ幸いだ。

追記:第三部公開しました


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