「依存」と「支配」は本質的に同じものである!唾棄すべき邪悪は今すぐ損切りしろ!
おすすめに出てきたのだが、私は基本的にスピリチュアル系なんて見ないのだが、ゆっくり解説にするとある程度キャラで緩和されるからずるいところがある。
ただ、この中で挙げられている「依存」に関しては自分自身も嫌な思いをこの10年くらいしてきたので、それに関して今回は記事として書こう。
まずこれは持論なのだが、「依存」と「支配」は本質的に同じもの、通底するものであり、それを見抜かないと自分が利用・搾取されて終わりである。
私は以前にも書いたが、決して誰かに「依存する」側ではなくむしろ依存「される」側であり、誰かに対して一度も依存したことはない。
もちろん仕事の上で仲間などに「頼る」ことはあるし、この社会は他者との関わりを持たずして生きることは不可能だが、それでもプライベートで誰かにべったりと依存したことはない。
だが、依存された経験は二度ほどあるが、1つが10年ほど長続きした学生時代の友人Nであり、もう1つが以前も述べたがTwitterで出会ったある女性Kのことである。
※個人的事情に関するお話なので、少なからず感情的な所が出てしまいかねないので、なるべく中立的かつ冷静に書くようにします。
どちらのケースも最終的に相手の奥底に渦巻いている「支配浴」「独占欲」なる邪悪なものに嫌気が差して縁を切ったのだが、それぞれのケースについて説明していこう。
まず1つ目のケースだが、私は大学4年の時に経済学部経済学科のNとひょんなことから関わりを持つようになったが、今思えばNこそが私が最初に出会ったエナジーバンパイアだった。
包み隠さずいうと、Nは二浪して私と同じ大学に入ったということだが、私が入った大学は東京都内にわりかし近い埼玉の二流の大学であり、外国語学部英語学科が看板学部である。
だからそこの経済学部となると偏差値はもっと下であり、偏差値も55くらいだから普通に勉強していれば落ちる方が難しいわけだが、なぜか彼は二浪を自慢・武勇伝のごとく語っていた。
話をしてみても、表向きは自由闊達で明るい雰囲気を出しているが所詮それは上っ面でしかなく、奥底にはネガティブなオーラというか学歴コンプなるものが渦巻いていた。
私自身が看板学部所属だったこともありやたらと羨望(尊敬ではない)の眼差しを向け、「でもお前はいいよなあ。外国語学部なんだろ?」ということを何かにつけてしょっちゅう言っている。
それだけではなく、なぜか私に「おいお前!そこで俺をフォローしろよ!」みたいなことを酒に酔った勢いで言ってマウントを取ってきたり、何かと私に対して粗雑で横暴に振る舞ってきたりしていた。
就活に対しても考え違いを起こしていて、旅行が好きだから旅行系の資格を取って旅行会社を受けたが全く受からなかったと言ったり、その後もやたらと宅建だの何だのという妙な資格マニアになっている。
で、ある時期から当初出会った時の面影が全くないくらいだらしない体つきになっていて、体つきがそうなるということは必然的に波動も低くなって話す内容もひたすら仕事の愚痴とやらかした芸能人の批判ばかりだった。
要するにかつてのよりひとやシバター、今でいうPDRのようなことを彼はしていたわけであるが、最初は「まあ付き合いか」程度に思って許容していたものの、ある時期それがふと閾値を突破して我慢の限界を超えた。
そんな関係でよく10年も持ったと思うのだが、私だってそんな彼に変に優しくして甘やかしてしまいなあなあの関係で有耶無耶にしていたことも今では反省点としてあり、もっと早く切るべきだったと自戒している。
なぜ10年目で切ったのかというと、丁度それが2017年という私にとって大きな転換期となった年だからであり、自分の将来や人生について真剣にどうすべきかを考えていたのだ。
だから私はその人には何も告げず着信拒否した上で連絡先を削除したが、縁を切って問題があったかというと全くなく、むしろ解放された気持ち良さがそこにあった。
別にスピリチュアルがどうのこうのということではないが、私自身が次に進むためには邪魔になった人間関係など負債にしかならないから、塩漬けにならないよう損切りしたのである。
そして2つ目のケースは去年Twitterで出会った女性Kなのだが、彼女はいわゆる占い師を名乗っており、2600人以上ものフォロワーを抱えている人だった。
なぜかそんな人がひょんなことから私に対してやたらフォローして執着してきたのだが、これもまた酷くて、彼女は精神疾患持ちのいわゆる「メンヘラ」である。
私がLINEの連絡先を交換した時、Kはなんと私に毎日のごとく電話をかけてきて、8月に私が1週間ほど夏風邪を引いたときも心配するどころか「自業自得」と詰った上になぜか毎日電話を強要してきた。
そのくせ都合のいい時だけ私と対等な関係みたいなことを強調してくるので、とうとう私も我慢の限界が来て10月の終わりくらいにこれまた一方的に私から損切りして関係を終わらせる。
一人目の元友人Nとは違って半年も経たずに関係性は終了したが、今振り返ってみると、KもNも共通していたのは「メンヘラ気質な他人軸のキョロ充」だったという事実だ。
他人に依存する人の全員が全員ではないだろうが、私の経験則を教訓化すると、「依存」の本質は「支配」というところに最終的に行き着くということである。
以前、「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」というが、それはあくまで社会・政治・経済などマクロな問題に関して考察する時であって、ミクロな人間関係は経験値によってしか学習できないのだ。
その上で依存症の強い人たちは要するに承認欲求を満たしたくて心の安寧となる精神安定剤が欲しいだけであり、正に蚊やトコジラミの如くエネルギーを持った健全な人に吸い付いて労力を吸い取るのである。
そしてあわよくば、そのエゴを私に依存することで満たしたらそれだけでは飽き足らず、今度は私に対してワガママを言って甘えだし、最終的にはマウントを取ってくるようになった。
「ドラゴンボール」における悪人時代のベジータやフリーザのように、他者を蹂躙し跪かせることで支配欲を満たし、自分が一番であるという幼稚な優越感と虚栄心を満たしたいだけである。
そう、依存と支配は自分軸では決して成立しない、依存する寄生先や配下の下僕がいなければその欲を満たすことはできず、しかも根本にあるのがエゴイズムだから際限なく膨れ上がっていく。
本当に自分軸で生きている人は孫悟空のように他者との関係性なんかなくても生きていけるくらいの自立した精神を持っているが、それを持たないとかつてのベジータやフリーザのようになる。
漫画としての表現だから多少なり誇張して架空のこととして描いているが、ベジータやフリーザがかつて持っていた「悪」とは根元的なところで実は誰しもが持ちうる心の闇なのだ。
それが唾棄すべき邪悪というところにまで膨れ上がった結果がサイヤ人編とナメック星編のような膨れ上がる悪意がもたらす過激な戦争に至ったのである。
本当に自分軸で生きることができるようになるには生きる動機や自信を「他者」ではなく「自分」の中にしっかり持っておくことが肝要だ。
私は小さい頃から次男という立場だったのもあって親がそこまで愛情を与えてくれなかったからこそ、逆に本当に大事なものは自分の力で獲得していかなければならないと思っていた。
親に甘えることが許されなかった分、自分でどうにかしようという自立心や反骨精神も人一倍強く自分の中に育てることができたのではないか、と逆に両親に感謝している。
だから、依存や支配をしてマウントを取って生きている彼らのようなキョロ充をもし見かけたら絡まれたりしたら、無言で連絡先をブロックして自分の好きなことに打ち込むがよかろう。
一度きりの人生、どうせなら自分の好きなことややりたいことをして生きていきたいものだ、そこに他人からの余計な指図はいらない。
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