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平成の30年とは要するに「カリスマの終焉」と「親近感の流行」だったのではないか?

どうやら、今年の4月末をもって初代から続いてきたAKB48の最後の初期メンバー・柏木由紀が卒業したことで、いよいよ本格的にAKBの時代が終わりを告げ、「平成」のアイドルが実質の終焉を迎えた
昨日の記事で蓮實重彦は平成の30年間を「ことの善悪以前の問題として「醜悪」が世界を覆い、今やその「醜悪」が日常化した中で暮らしている」とも分析していたが、この30年に関していうなら私の見解はこうである。
「カリスマの終焉」と「親近感の流行」であり、テレビが全盛期だった80年から徐々に翳りが出始め、90年代に入ってからはいわゆる「カリスマ」と呼ばれる人たちがどんどん減っていった
おそらく、原体験として「カリスマ」と呼ばれる世代をテレビ文化として体感したのは私たちプレッシャー世代〜ゆとり世代辺りまでであり、おそらくそれ以降のZ世代〜α世代以降は「カリスマ」と呼ばれる人物を見て育っていないであろう。

私が原体験として肌感で生きた90年代はやはり日本のテレビ文化が最後の影響力を持っていた10年であり、その時代を彩ったのは「アイドル」ではなく「お笑い」と「アーティスト」だったのではなかろうか。
少なくとも90年代前半は「アイドル氷河期」と言われるほど歌番組も紅白歌合戦などを除けばほとんどなくなって、アイドルが食うのも厳しい過酷な時代へ突入したが、その時代に台頭したのはアーティストとお笑い芸人である。
特にMr.Children・B'z・安室奈美恵・グローブ辺りの勢いは凄まじかったし、またお笑いでもダウンタウンやナインティナインを筆頭にゴールデンのバラエティ番組が全盛期へと突入していった時代だった。
そして一度人気が落ち込んだかに見えたジャニーズも90年代後半に入るとSMAPを中心にTOKIO・V6・KinKi Kids・嵐がデビューしていき、女性アイドル・アーティストもSPEED・MAX・モーニング娘。なども台頭していく。

そんな中でアイドル・タレントの価値が「カリスマ」「スター性」「憧憬」から「親近感」「友達感覚」「共感」といった「等身大」を重視した感覚へシフトしていくようになった
私の中で日本最後の芸能界のカリスマは男性が木村拓哉、女性が安室奈美恵であり、彼らを超える国民的カリスマスターというべき「圧倒的な輝きを放つスター」は不在となる
嵐の松本潤などもいい線は行っているが、彼の場合は木村拓哉のような「カリスマ」というよりもやはり「親近感」「共感」といったところでファンをはじめとして認知されているだろう。
そして女性アイドルもそうで、モー娘。もギリギリ初期の頃まではまだ後藤真希や安倍なつみのような圧倒的スターのオーラを持つ子はいたが、これがPerfumeやAKB48になると完全な「友達」となった

実際、AKB48が「ヘビーローテーション」を皮切りに台頭した2010年〜2013年のあたり、いわゆる「神7」と呼ばれるメンバーたちを最初にテレビで見た時、私はついに「カリスマがいなくなったな」と思ったのである。
48人もの「平均化されたかわいさ」の暴力で推していくスタイルはまるでプリキュアオールスターズを見ているようであり、特に大島優子と前田敦子なんかはまんま初代プリキュアのなぎさとほのかに見えてしまった
男性アイドルではなんだかんだ嵐一強になって嵐がSMAPに匹敵する最後の国民的アイドルだが、嵐がSMAPと違う人気の獲得できたのはやはりAKBのような「お友達感覚」「仲の良さ」「距離の近さ」といったものがある。
AKB48がヒットした時、私は彼女たちを客観的に「かわいい」とは思えてもかつての木村拓哉や安室奈美恵のような「圧倒的スター」なるものは全く感じられなかった


つまり、平成の30年間とはSMAPから嵐へ、そして安室奈美恵からAKB48へと見ていけばわかるように「憧れ」から「親近感」の時代へと時間をかけて推移していった時代だったのだ。

実際、同じ国民的スターでもSMAPと嵐では全くグループのカラーも人気の根拠も異なるが、SMAPの場合はやはり中居正広と木村拓哉というヤンキーとチーマーの2TOPが引っ張っていく不良文化である。
何があろうと中居正広と木村拓哉の存在が真ん中に絶対のものとして存在し、5人とも全く異なる分野のカリスマがそれぞれにバラエティだったり司会だったり俳優だったりで頂点を取ったカリスマの集まりだ。
二宮和也が指摘していた通り、あれだけ強い個が5人も揃うとよほどのことがない限りグループとして空中分解し解散しかねない危うさなのだが、SMAPはそれでも27年も活動してきたのである。
90年代後半には既に「キムタク」が浸透するくらいに木村拓哉という存在が既にカリスマとして伝説になっていたわけだが、思えばあれが日本最後のカリスマがメインカルチャーの象徴だった社会現象かもしれない。

00年代に入ると今度は緩慢とした集団主義の時代へ突入するのだが、その中で今度はSMAPに取って代わる次世代の国民的アイドルとして台頭したのがだった。
嵐はSMAPとは逆にメンバー同士の距離感が非常に近く、プロのスター集団というよりはまるで学校の同級生のような非常に距離感の近い感じが逆に新鮮さとなってヒットしたのである。
実際、メンバーの年齢差もSMAPとは違い、SMAPの場合は最年長の中居と最年少の香取が5歳ほど離れていたのに対して、嵐の場合は最年長の大野智と最年少の松本潤が3歳しか差がない
しかも、入所時期もほとんど1〜2年違いで、結成までに各メンバーが近い距離感で付き合っていたのもあり、打ち解けるのも早く見ている視聴者としては安心できるのだ。

嵐にはSMAPのような威圧と緊張感のようなものはあまり感じられないのだが、いわゆる「仲の良さ」「距離の近さ」が決して馴れ合いではなく相乗効果でプラスに作用している
ある時期を境に芸人もアーティストも俳優も一様に仲良く近い距離感になっていったが、これは明らかに嵐がヒットした影響であり、あの同級生の友達感覚こそ嵐やAKBが00年代後半〜10年代前半にかけてヒットした所以だ。
しかし、その彼らも2010年代後半に入ると、今度はネット文化から台頭してきた「インフルエンサー」と呼ばれる存在、具体的にはYouTuberのHIKAKIN・はじめしゃちょー・フィッシャーズ・東海オンエアあたりのUUUM勢に人気を食われていく。
正確には食われていくというよりも、それはかつての映画が不況になってテレビが台頭してきた流れと同じで、いわゆる大衆が望むものがどんどん「醜悪」という形で変質していった結果だったのではないだろうか。

だから、蓮實重彦がいう「醜悪」と平成のテレビ文化の推移、すなわち「カリスマ」から「親近感」への移行というのは決して無関係・無縁のものではないような気がするのである。
青山真治が指摘する「イーストウッドが演じる主人公ウィリアム・マニーはかつて何人も殺した悪党だったが、今は子どもも育てて一般人として生きている」という言葉がそれを端的に表したのではなかろうか。
そう、かつては完全な幕の向こう側、画面の向こうにいる人たちの存在というのが今ではどこか自分と近いところにいるように感じられるという感覚が人によっては耐え難い奇妙さとして映る。

これはかつての日本映画で小津安二郎以上に原節子という大女優を美しく撮れた人がいないのと似たようなもので、ある時期2010年代に入ると完全に「カリスマ」はテレビの中からいなくなった
なんだったら、週刊誌で不倫などのスキャンダルで一度「醜悪」のレッテルを貼られたタレントが謹慎期間を経て自粛したのちにまたもやしれっとテレビに復活するといったことが当たり前になる。
実際、AKBで何人が不祥事を起こしたにも関わらず戻ってこられて、SMAPにしたって警察に逮捕されるような社会的事件を起こしたメンバーがいるのにまたテレビに戻ったりしていた。
これらもまた「醜悪」の具象化であり、いわゆる「完全無欠のカリスマ」とでもいうべき大スターはいつの間にか画面から姿を消してしまったのである。

平成の30年とはよく「失われた30年」ではあるが、何が「失われた」のか、また逆に何が表面化してきたのかといえば、分かりやすくいうと芸能界に関しては「カリスマ」が失われ「親近感」が流行してきた
そしてそれは時代が進むにつれどんどん素人じみた露悪的なものに変質していき、そしてその露悪性こそがまさに蓮實らの指摘する「醜悪」なるものの正体なのかもしれない。
令和に入ると今度は「アイドルが憧れるアイドル」なんて呼ばれた元°C-uteの鈴木愛理が「最強の推し」を出し、さらに最近では「推しの子」のアニメ2期が始まる。
もはやアイドルは「カリスマ」でも「親近感」でもなく「受け手の理想が投影された推し」という鏡写しでしか無くなってきているわけであり、そこにかつての衝撃はないだろう。

皮肉なものだ、かつては「理想」を体現すべきだったアイドルが今では下卑た醜悪なものたちにとっての自己投影に移行してしまったのだから。
人々は今、自分の日常に「カリスマ」を持たないまま何を模範とすべきかもわからない中を生きていかねばならないという厳しい時代に突入している。
そこをわからなければ、今の時代はたちどころに自分を見失ってしまうようなことになってしまうのではないだろうか。


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