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『劇場版 仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』感想〜テレビドラマ番外編としてはありだが、映画としては厳しい〜

現在『仮面ライダー555』がYouTube配信されているということもあり、本作のパラレルとして作られている映画『パラロス』を見たので感想・批評をば。
大変辛口な感想になっており、かつネタバレ満載なので未見の方は先に本編を見てから本感想をご覧になることを推奨。
結論からいえば、タイトルにも書いたように「テレビドラマ番外編としてはありだが、映画としては厳しい」というのが率直な感想である。
これをきちんと批評できるかどうかが大事という、まるで「踏み絵」のような作品になってしまったが、評価は以下の通り。

評価:E(不作) 100点中40点

田崎監督は本作を作る際にパンフレットのインタビューでこのように述べていたという。

今回の劇場版『555』は「TVシリーズの劇場版」ということを超えたかったんです。だから『555』であって『555』じゃない。最初にこの企画を聞いた時は、また一つ高いハードルが来たなと思いましたね。TVと逆転した世界観を描くには時間もお金もかかりますし、それらをギュッと詰め込むのに苦労しました。またそういう舞台を作って、どう話を展開させるのかが大変なところでした。

確かに本作を見るとセットといい衣装といい特撮といい、テレビではやれない大掛かりなことをしたかったという作り手の並々ならぬ気合いは窺える。
実際脚本や役者の演技は悪くなかったし、いわゆる整合性もきちんと取れていて、褒められるところはそれなりにあるのだが、残念ながら「映画」とはいえない
「お!」と思うショットもわずかにあったが、それでも全体の流れとして見るとやはりテレビドラマの作劇と形式の延長線上に過ぎないというのが改めて見て思ったことだ。
同年にあったのが北野武の『座頭市』というのもまた運が悪いというか、どうしても殺陣やカメラワークなど圧倒的に超えられない壁があるなあと。

田崎監督の思いは残念ながら果たされなかったわけだが、一体何が悪かったのか、そしてどこが良いと感じたのかを具体的に述べて行こう。
ということで今回は非難が中心になってくるので、先に褒められる良い点を褒めてから批判に入っていこう。
本作の熱狂的なファンの怒りを少なからず刺激してしまうことと思われるので、あくまで個人的意見として「こういう見方もある」とご了承頂きたい。

回想シーンの白黒と赤い靴、また闇夜のファイズが美しい

まず良かった点を最初に述べておくと、乾巧とミナの回想シーンに出てきた白黒と赤い靴おショット、そして中盤で闇夜の中変身して出てくる仮面ライダーファイズのカットは美しかった
前者に関しては特に黄金期の邦画へのオマージュもあったのかもしれないが、あの白黒に印象的な赤い靴の演出は映画ファンとして心揺さぶられるもので感心した次第である。
田崎監督に関しては正直テレビドラマ向きの人ではあるが、長石多可男監督のような決定的なショットや演出がない人という印象があったので、これは高く評価したい。
子役たちも違和感はなかったし、こういう伝統的な邦画をきちんと知っているというだけでも、本作に関しては「映画」を作ろうという意欲自体は感じられる。

またこれはテレビ版の第一話でもそうだったのだが、改めて闇夜の遊園地で登場する仮面ライダーファイズのカットがあまりにも美しくて思わず唸ってしまった。
今回の作品では敢えてテレビシリーズとは逆の構成であり、カイザとサイガが先に出て、後半に満を持してファイズとオーガが出てくるという演繹的な演出となっている。
そしてテレビシリーズではあれだけいがみ合っている巧と草加は会うことがなく草加が前半の段階であっさり死んでしまうというのもまた面白い構成だ。
どんどん孤立して追い込まれていく真理との再会の中で改めて「白馬の王子様」みたいなカッコつけた演出で巧が変身して出てくるあのシーンは見事である。

まあ正直ドラマとして見るとクサい演出ではあるが、こういうベタながらもきっちりファイズの色気(存在感)を別格のものとして見せつけてくれたのが素晴らしい。
変身直後にアクセルフォームを使ってバイクに乗っている雑魚兵を蹴散らしていく様もしっかりあり、こういうところは本作のいいところとして褒められる。
この2点があるだけでも良しとしたいところである、何故ならばテレビシリーズの劇場版は所詮「テレビドラマ」の範疇でしかないことがほとんどだからだ。
だが本作では1カットでも心動かされるカットがあるだけでもひとまずは良しとしておこう、だが後は正直肌に合わなかった。

無駄に説明的な冒頭のイスタブリッシングショット

まず本作の何がダメといって冒頭のイスタブリッシングショットが無駄に説明的でゴチャゴチャしており、もう少しスッキリできなかったのかと文句をつけたくなる。
スマートブレインに特攻をかけるも失敗してしまう人間解放軍のシーンでも無駄にエキストラが映っているが、まずこのエキストラが邪魔なのでどかして映してほしい
それから改めて街中で仮面ライダーカイザが出てきたときに人々が逃げ惑う演出もいわゆる「仮面ライダーシリーズとしての本歌取り」としていい演出ではあった。
だが、やはり全体的にダラダラとしたシークエンスが続き、しかもその後で改めて「人類はオルフェノクに支配されている世界」とかいうナレーションが出てくる。

はっきり言ってくど過ぎる、一連のシーンを撮るのであればもっと他にやり様はあったと思うし、人類がオルフェノクに支配されていることなど街中の戦闘を見れば一目瞭然だ。
映画というのはいかにしてこの辺りの説話論的経済性というか画面の無駄を省いて効果的にショットを連鎖させるかが大事なのだが、その意味で本作は冒頭の5分で失敗してしまった。
イスタブリッシングショットが説明的過ぎるのはそれだけで流れが悪くなってしまい、煩雑な印象を受けるのだが、まさにこれこそが「下品な画面」ということである。
先日やっつけた伊丹十三の「タンポポ」と同じで、やはりテレビドラマ上がりの人が作ってしまうとどうしても説明が多過ぎる画面になってしまうらしい。

パンにしてもティルトにしても俯瞰にしても、田崎監督はテレビドラマとは別の映画ならではのショットをきちんと勉強・研究したとは思えない無駄なカットだらけだ。
私だったら少なくとももっと無駄なエキストラを出さず必要最小限のカットのみで見せるであろう、せっかくエレベーターの中での着替えなど工夫としては面白かったのに。
また、人間解放軍がいわゆる小汚い軍服のようなものを着てドンパチやるシーンもそうだが、なんともこのシーンの迫力のなさが私にとっては退屈で欠伸が出てしまう
結局は物語の情報として「人間解放軍がスマートブレインに喧嘩を売って劣勢になったところにカイザが助太刀にやってきた」ことだけを頭で理解すればいいことになる。

全くコスチュームプレイが様にならない役者たちと邪魔なエキストラ

本作は劇場版ということもあってかめちゃくちゃ「着替える」描写が目立つコスチュームプレイなのだが、はっきり言って全く様になっておらず逆に笑えてしまう
人間解放軍の速水もこみちが着る軍服もそうだし、物語中盤で出てくる白ドレスとタキシードでの巧と真理なんかは「馬子にも衣装」のつもりであろうが、全く似合わない。
巧と真理が一番様になっていたのは過去回想での私服姿であり、これはテレビシリーズにおける2人のキャラがほとんど私服で今時の若者だからというのが大きいかもしれない。
逆に木場・結花・海堂の3人はほとんど私服姿だったので違和感がなかったし、結花と海堂のラブロマンスはテレビシリーズだと見られないものだったのもあって新鮮であった。

後はやっぱり炊き出しのスラム街のセット然り人間解放軍のセットしかり、エキストラがどうしても邪魔だしセットの雰囲気もあからさまに作り物なのが誤魔化せていない
そもそも日本の原風景としてこんな中東のスラム街みたいな風景を見かけないし、もしあるんだとしても例えば大阪西成などのように本当のスラム街で撮影すればいいではないか
当時の時代性としてはおそらくイラク戦争あたりのビジュアルを想定してこのセットにしたということだろうが、やはりそこは予算の限界という名の大人の事情があるのかもしれない。
もちろんそれでも役者たちがきちんと馴染んでいて様になっていれば違和感なく見られるのだが、本作に出ている役者たちはことごとく衣装が様になっておらず明らかに着られている。

特に巧と真理の白衣装でのシーンは作り手が表現できる最大のラブロマンスをやろうとしたのは伺えるのだが、ライティングや構図のせいもあってか色気がいまひとつ出ていない
また、ミナがその後赤いドレスで出てくるシーンも悪くはないのだが、これもやはり過去の回想シーンに出てきた「赤い靴」を見せることというのが理解されればそれでいいのである。
アップで役者の顔を映しているにもかかわらず、そこから滲み出てくるはずの色気がないため、どうにも無駄なカットばかりがダラダラと続くのみとなってしまう。
このシーンもやはり映画をきちんと知っている人であればもっと色気たっぷりに上手く撮っていたであろうと思えてならない。

そう考えると改めて本作の前年に山本耀司の衣装を着せて映画として成立させた北野武の『Dolls』(2002)は改めて凄かったなと。

茶番にしか見えないコロシアムでの戦いとありきたり過ぎるラスト

そして最大の見せ場であるコロシアムの戦闘シーンだが、これも見せ方そのものは悪くないものの、やはりエキストラが邪魔であり茶番にしか見えない下品な画面である。
戦闘シーン自体はファイズVSオウガ、出てくるサイのオルフェノクをやっつけるオウガ、巧と木場のサイレントな友情、そして改めて結ばれる巧と真理など悪くはない。
ラストの手を繋いでコロシアムから出ていくカットも下手なキスを描くよりも渋く効果的に見せてはいるのだが、それでもやはり「ショット」そのものの力ではないのだ。
ここは結局のところ巧がオルフェノクという罪を抱えながらも、同時に真理の救世主として現れ、真理がそれを受け入れるこという心理描写に還元されてしまい、どこまでも「物語」から解放されない

井上敏樹の脚本は「ジェットマン」からそうであったが、いたずらにサスペンスを仕掛けるため、それが見ている側からすれば「さっさとしろよ、勿体つけんな」と思えてならない。
それは仕方ないのかもしれない、井上脚本はやはり雪室俊一をはじめとしてテレビドラマの畑で育っているため、映画用にスタイリッシュなサスペンスの脚本は不得意なのであろう。
だが、映画として書くのであれば「映画」に向けてチューニングしてくれなければ困るし、またそれを演出する田崎監督ら現場の人たちの責任も大きい。
タイトル通りラストの結末は「失楽園」をどう現代劇として再現するかということだが、やはり物語の整合性としての流れが強く「画面の運動」というところにまでは行き切っていないのだ。

映画だからと画面を派手にすればいいというわけでもなく、むしろ映画だからこそどうやって無駄を省き全体をすっきり見せるかという構成の工夫が必要になるだろう。
本作はどうもその辺り「映画」を知らない、もっといえば映画を「撮れない」人たちがいかに派手かつ大きく見せるかばかりを考えてしまった結果無駄に膨れ上がったように見えてならない。
私が求めるミニマルでスタイリッシュな演出にはなっておらず、結果として物語の流れさえ頭で理解してしまえば2回目以降は見る必要がない作品になってしまった。
見所が決してないわけではないのが逆に勿体無いと思わせてしまう作りになっているのが本作である。

テレビドラマスペシャルで流した方が良かった作品

まとめに入るが、何度か述べたように本作は映画としてではなくテレビスペシャルという形のスピンオフとして流せば良かったのではないか?
いわば戦隊シリーズのVSものや「帰ってきた」「10年後」みたいなものとしてだったら、本作の作りでもA(名作)として評価したであろう。
だが、やはりテレビシリーズの文法に染まりすぎている人がその作りの延長線上で映画を作るとどうなるかがかえって露呈しただけであった。
確かに話の作りは悪くないし「お!」と思えるショットもいくつかあったが、それでも「映画」とはいえない

やはり白倉Pの作品は「映像」よりも「物語」「思想」の作品であるというのが今回再確認された次第である。


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