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足し算思考のアメリカと引き算思考の日本は全てに通底している

よく、「日本は減点方式だけど、アメリカは加点方式だよね」と誰しもが耳にしたことがあるだろう。
つまり「日本は引き算思考、アメリカは足し算思考」というやつだが、なぜこのような思考や評価のあり方になっているかを客観的に見て説明できる人が果たしてどれだけいるだろうか?
というのも、以前の日記で軽く批判したヒカルがはなおでんがんとの焼肉動画で以下のようなことを言っていたからである。

ヒカルは「算数はなんだかんだ必要やけど、英語は別に必要ないやん。なんで向こうの言語に合わせなあかんねん?こっち(日本語)に合わせろよって思う」みたいなことを言っていた。
この意見自体は経験則や直感に基づく主観の部分においては正しいが、もっと枠を広げて歴史や社会といった観点から広げて見ての説明になっていない
そもそも「勉強したことがない」といって憚らないヒカルは結局のところ直感=主観のレベルでしか話ができないので、どれだけ優れた発想力や鋭い直感力、愛される人間力があっても底が浅いのである。
私がヒカルを「深みがない」と思うのも正にここであり、なぜ今の日本の英語教育がこうなっていて、そして世界中が英語を公用語として用いているかなんて日本史と世界史を中学レベルでも勉強すればわかることだ。

世界史においてノルマン・コンクエストと産業革命、そして幕末の日本開国と明治維新の流れを把握していれば、今日の世界情勢が欧米諸国(主にスペインとイギリス)の侵略が発端であることは明々白々である。
日本に産業革命によって工業力を発展させ、工場製労働のあり方を確立したイギリスはその圧倒的なテクノロジーを持って世界を侵略し植民地支配していった。
そしてそれが世界レベルの惨事に発展したのが20世紀で勃発した二度の世界大戦であり、最終的に世界の覇権を握ったのはアメリカとイギリスら欧米の中でも突出した科学技術と財力を有している奴らだ。
だからこそ英語が世界中で公用語となったのであり、本来は大英帝国のみで使われるべき英語をわざわざ日本人までもが勉強する理由はそうした歴史の流れの延長線上にある。

とても雑な見立てに過ぎないかもしれないが、英語が世界の公用語という事実は裏を辿れば欧米が世界の覇権を握っていることを意味することくらいは素人レベルでも調べればわかる。
正に「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」というが、ヒカルは「賢者のように振る舞っている愚者」でしかなく、知性はそれなりにあっても教養がないから話す内容や議論に深みや客観性がない
きちんと事実に基づき、筋道立てて論理的に自らの思考を言語化するという訓練を積んでいないために、例えばディベートをやったとしても口から出まかせのハッタリにしかならないのである。
まあそれは置いておくとして、実はそんな日本とアメリカにおける決定的な違いは何かというと「教育の質」であり、実は日本の教育の質は世界レベルで相当に高い

特に数学と国語の教育水準はもともと江戸時代に「読み・書き・算」の寺子屋を独自に確立させていたため、基礎学力を均質的に学ばせる仕組みの構築は世界でも類を見ないぐらいに高い。
むしろ海外の人たちは「日本語はとても難しい」「日本の算数・数学は世界レベルでも水準が相当に高い」というほどであり、それを実際に動画で証明してくれているのが以下の動画だ。

これはアメリカの実際の大学入試における数学の問題なのだが、はっきりいって日本の中学生レベルの数学力で勝負できるくらい、アメリカの算数・数学の教育水準は低い
ましてや高校数学で習う関数・論理と集合・確率・数列・ベクトル・複素数・行列・微積まで曲がりなりにも勉強するだけで、アメリカではヒーロー、否、神扱いを受けるのである。
したがって、実は理数系オタクのはなおでんがんと積分サークルのメンバーたちはアメリカの大学に行けばそれだけで覇権を握れてしまうのだが、なぜかやらない。
まあ英語が苦手だからなんだろうけど(特にでんがんの英語力の低さは話にならない)、その英語の壁さえクリアすれば日本の学力はアメリカで十分に覇権を握れるレベルだ。

それが冒頭に書いた足し算思考のアメリカと引き算思考というところになっており、日本は徹底して「引き算思考=無駄を省く」ことを美徳とする。
アメリカは逆に「足し算思考=どんどん付け足す」ことを美德とするので、その辺りが映画・アニメ・特撮・漫画といったサブカルチャーの傾向にも影響しているのではないだろうか。
以前「トイ・ストーリー」の記事を書いたときに、アメリカは0→1が得意で日本が1→10が得意といったが、これは決してどちらが優れているかという話ではない
0→1にしろ1→10にしろ面白ければそれでいいわけであって、それに絶対の正解はないのだが、やはり無意識のうちに0→1で生まれたものが1→10で生まれたものより優れているという錯覚に陥りがちなようだ。

それこそ毎回引き合いに出して申し訳ないのだが、例えば「ドラゴンボール」は0→1と勘違いされがちだが、実はあれは「0→1のように見える1→10」なのである。
無印の頃はもともと「西遊記」をモデルに少年ジャンプの世界観として再構築した結果であって、実は「ドラゴンボール」に置いて足し算思考で作られたものはあまりない。
それはデザインもそうであり、悟空がいつも戦う強敵はピッコロ大魔王・ベジータ・フリーザ・セル・魔人ブウといずれもが最終的にシンプルな形にまとまっている。
超サイヤ人にしたって元は「聖闘士星矢」の黄金聖闘士だが、ゴテゴテした鎧を身に纏うのではなく気を身に纏い髪の毛を逆立てる形にすることで無駄を省いているのだ。

まあその後2→3→4となるたびに余計な気のスパークや長くなった髪の毛、さらにゴテゴテした大猿デザインみたいにどんどん足されていってしまうのではあるが。
常に省略してシンプルであることを美とする鳥山先生は本来合体・融合・変身といった概念は好きではなく、シンプルにまとまっているものこそが最強という美学である。
しかし、商業的事情や連載の都合でどんどん強敵を繰り出し話やキャラを足していくことになると、じゃぶじゃぶと水膨れしていってもはや省略の美学からは遠のいてしまう
私が超サイヤ人2や3が嫌いなのも理由はここにあり、結局「超」に入っても未だに初期の超サイヤ人が用いられることがあるのも、あれが一番シンプルにまとまっているからだ

そしてこの鳥山明の「無駄を省き常にシンプルであることを心がける」という美学は彼が大好きな「ウルトラマン」のデザイナー・成田亨氏の考えでもある。
新しいデザインは必ず単純な形をしている。人間は考えることができなくなると、ものを複雑にして堕落してゆく」と語っているが、ウルトラマンやウルトラ怪獣が時代・国・人種を超えて愛される秘訣はそこにある。
日本の特撮・アニメ・漫画・映画が世界でも十分に通用するクオリティーを誇っているのはこの引き算思考がもたらす「省略と単純化=無駄をそぎ落とす」という美学が教育レベルから徹底しているからだろう。
それとは逆の発想がアメリカであり、アメリカは足し算思考でユニークなものを次々と生み出す発想力は素晴らしいのだが、その作り上げた土台から無駄をそぎ落として洗練させる発想や技法を知らない

私が散々にやっつけている「パワーレンジャー」なんてそうだろう、今ちょうど「マジレンジャー」「シンケンジャー」のパワレン版を視聴しているが、明らかに無駄なものをゴテゴテと足している
例えば「マジレンジャー」の世界には絶対出てこないバイクが出てくるし、「シンケンジャー」でも黒子が出ない代わりに変身前に変な黒装束を身に纏わせ、巨大ロボ戦の時もダサいスーツを着せていた。
余計なことをせずに原典をほぼそのままなぞればいいのに、なぜだか変な設定を足して元の魅力が台無しになってしまうようなものしか作れなくなってしまう
まあ何せ「ギンガマン」の獣装光を「武装が貧弱」とか抜かして訳のわからないゴテゴテした世界観も物語の良さも全く無視したダサいアーマーを身につけさせているしな。

しかし、こうなってしまったのもアメリカが元々数学が苦手な足し算思考しかできない奴らが物を作っているからだとすれば納得行くのではないか。
こういう時、改めて日本という国に生まれてその高い教育水準で育ってよかったと思う次第である。

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