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『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』感想〜宮台真司の提唱する『体験質qualia』の理論化及び共有は不可能〜

やっぱり宮台真司の批評は自分に合わないと思ったわけだが、結局この人も宇野常寛と余計に変わらない「思想」「政治」を作品の向こう側に読みたがる人なのだなと。
言いたいことはわかるし理解はできるが納得はできない、そもそもこの人が提唱している体験質qualiaの概念自体がまず理論化及び共有することが絶対不可能なものである
いわゆる「クソ社会」云々は放置しておいて、荘子itとの対談でも改めて語っていた映画の体験質qualiaに関して今回はスポットを当てて語ってみよう。
宮台が言っていることは要するに「人間がサブカルチャーを見るときの体験質は必ず世代・国・時代・人種ごとの背景といった見えない深層のものが影響している」ということだ。

彼はゼミ生に最初自分が提唱する体験質qualiaについての概念を説明し「分かったか?」と聞くと学生たちは「分かりました」というが、奥底では「いや絶対分かってないだろう」とほくそ笑むらしい。
そして概念を説明した後に自分が体験した時代の映画・音楽などのサブカルチャーを体験させると学生たちは「目から鱗が落ちる思いでした」と口々にするとのことだった。
彼は「人間という生き物は身勝手なもので、実は上辺のロジックしか分かっていないのに、さも奥深くまでをも理解しているかのように振る舞ってしまう」と言いたいのであろう。
そして、その決して埋めることができない体験質qualiaをきっちり自分のこととして落とし込む体験が必要であり、決して上辺だけを理解した「つもり」にしないことが大事だと主張する。

確かに彼の言い分は理解できるし、私も十分共感するところはある、なぜかと言えば私はネット活動でこういうサブカルチャーのレビューをやり始めてから交流を持ってきたが、前提となる価値観が違うからだ。
例えば同じ作品を見たとしても、その作品を見た年代・世代・国・人種・性別によって感じ方は絶対的に違うものであり、誰一人として同じ感性の持ち主など絶対にいない
ところが、私がこれまで交流してきた中でほとんどの人はやっぱり私が書いてる文章や私の語り口を聞いて作品の体験質について同じものを理解しているつもりになっている。
面と向かって指摘したことはないが、表面上話が通じ合っているようでいて、やはり奥底では「分かってないなあ」と思うことが多々あったし、それはこれからもそうなのであろう。

私が擁護している作品の感想・批評の文章を見て、ほとんどの人は私が書いていることの「ロジック(論理)」は理解できるが「センス(感覚)」の部分での納得まではできない。
何故ならば私と他の人たちではその作品に触れた時の見方もタイミングも違うし、同じ作品でもそれをどのタイミングでどういう媒体で見るかによって体感する質はまるで違うからだ。
わかりやすい例でいえば『ドラゴンボール』という作品がそうであり、いまの若い人たちが界王拳や超サイヤ人といったものの凄さを原体験世代と同じ熱量と感度でその衝撃を味わえるかというとそうではないだろう。
テレビで毎週毎週ジャンプ本誌を追いかけてテレビの前で噛り付いて見た私のような世代は正に孫悟飯やクリリンのような視点で悟空が繰り出す界王拳や超サイヤ人覚醒の場面を体感していた。

ところが、後の世代になると超サイヤ人は単なるパワーアップ形態でありいつでも変身可能な便利能力程度に捉えてしまっており、正にこれも体験質qualiaの違いではなかろうか。
読む世代やタイミングによって同じ作品を見たとしてもその感動や衝撃の質は全く異なるわけだが、それこそ違法バタピーがやっていた原作漫画の感想を読んで、正に私とはまるで違うリアクションが見て取れた。

特に終盤で悟空の心理について勝手に忖度・考察してそれを鳥山明先生との心理に結びつけてしまう実存批評まがいのことをやっているところは私には決して持ち得ない体験質である。
私はあくまで「漫画」として鳥山さんの絵が面白いしサクッと読めるから楽しんでいたところがあるが、違法バタピーにとっては界王拳や超サイヤ人の衝撃は伝わっていないようだ

何故こんな読み解きをするのかというと、これは想像でしかないがおそらくは『ONE PIECE』『NARUTO』以降の物語の整合性・ドラマ性を重視した作品群を読み慣れてきたからではなかろうか。
そういう後世の人たちから見た『ドラゴンボール』という作品はこう見えるということをこれは端的に示しているし、同時に私は違法バタピーとは『ドラゴンボール』の話をしても絶対に合わないだろうと思えた。
私と彼とでは同じ『ドラゴンボール』を見ていても感想・批評のポイントや見方・感じ方の質がまるで違うし、今の人たちには当たり前になり過ぎた界王拳や超サイヤ人の概念の凄さは伝わらんよねそりゃと思うわけだ。
まあ未来トランクス登場に伴い超サイヤ人なんて今やバーゲンセールで安売りされているし、「超」に至ってはゴッド・ブルー・身勝手・我儘といった上位互換の変身形態が次々と繰り出されるから仕方ないが。

また、私より下の世代の方々になると悟空がそもそもヒーローとして描かれていないことにさえ驚きを感じていたらしい、私からすればそっちの方が驚きなのだが。
このように、どんな作品でも見解や体験質が全く同じことなどあり得ないし、ましてやそれを発信したところで誰かと共有することなど不可能である
何が言いたいかというと、原体験で渦中にそれを見た人以外にその作品が作られた時の生の温度感は体験し得ないのであり、作品は残ったとしても感じ方は全く違う。
それ『改』から入ったBiXに対しても同じように感じており、彼の批評のアプローチと私の批評のアプローチは全く違うので、面白い語り口だとは思いつつも、合わない部分も沢山ある

で、別に私は彼らの批評や語り口が悪いと言いたいのではない、これらもまた『ドラゴンボール』という作品の感想・批評のあり方としては真実なのだ。
これこそが正に宮台真司の語る「体験質qualia」の違いであり、私たち原体験世代にとっての『ドラゴンボール』と後世の『ドラゴンボール』という作品の体験質は異なる。
それはもちろんスーパー戦隊シリーズについても同じことであり、例えば私にとってのスーパー戦隊シリーズはやはり『鳥人戦隊ジェットマン』〜『未来戦隊タイムレンジャー』の10年間が原体験としてある。
しかし、今の若い人たちが見るスーパー戦隊シリーズがたとえ私と似たような考え・価値観で批評していたとしても原体験世代ではない以上その体験質qualiaは異なるはずだ

その部分をどううまく擦り合わせるか?どう理論化・共有していくか?を宮台は論じているのだが、それは決して果たし得ない机上の空論で終わってしまうであろう
再三強調しているが、サブカルチャーの評論・批評は根本的に継承も理論化も不可能な「見方の言語化の実践」であって、表層批評だろうが実存批評だろうがそれ自体は手段でしかない。
だから1つのアプローチとしては面白いが、体験質qualiaはどれだけそれを近づけたところで疑似的な追体験にしかならないし、同じ価値観を共有しようという思想は行き過ぎれば宗教にしかならないのだ
ましてや宮台真司の場合、政治や思想的な面がすごく強いので、下手すれば本当にかつての学生運動やオウム真理教のようになりかねない危うさを持っているので、鵜呑みにしてはならない。

だから私は批評なんて所詮「孤独な視聴体験」であり「自己満足」でしかないし、共有したところでそれは大抵仲間内での馴れ合いにしかならないから、体験質qualiaの共有は諦めている。
宮台真司が最終的に言いたいのは「同好の士との馴れ合いによる薄っぺらい共感ではなく、もっと深いレベルの体験を共有せよ!」ということだろう、そこには共感するところはあった。
しかし、いくら何でも宮台真司と同じレベルの体験質を味わうことなんて絶対できないし、どこまで行こうと合わない部分は合わないのだから幻想でしかないことを自覚した方がいい。
そもそも批評の目的は「共感」ではなく「驚き」「衝撃」を孤独に体験し、それに耐えながら作品や作家との付き合いを言語化する行為であり、それは途方もなく難しいものだ。

だから私が作品について人と語らう時は「共有なんて不可能だから、ロジックの部分でだけ話を合わせておくか」という程度で、いってしまえば60%程度でしか話せない。
それは決して相手を見下しているとか世代間のちがいとかいったことではなく、どんな時代のどんな人でも体験質というのは違っているから100%話が噛み合うことがないのだ
宮台真司は「人間の体験質なんて大きな違いはなくパターンがある」といっているしその通りだとは思うが、それでも違うところは違うことを認識しておくべきだろう。
足立正生や若松孝二を彼は擁護していたが、いかにも暴力・政治・セックスをテーマに露悪的に描く映画作家だから私には食指が動かない作品ばかりだが、食わず嫌いはよくないのでとりあえず見ておこうか。

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