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『ソナチネ』(1993)が初期北野映画の最高傑作たる所以を解説!遊びが逆説的に引き立てる死の無情さ

さて、今回は北野映画初期の最高傑作と名高い「ソナチネ」について、何故そう思うのかを批評していく。
本作はとにかく「遊ぶ」映画であり、演出としても内容としてもとにかく「遊ぶ」ことが際立っている映画だと思う。
そして、その「遊ぶ」ことが逆説的に引き立てる「死」の無情さを痛烈なまでにあの画面が見せつけてくる。
名前の通り音楽の「ソナチネ」に倣ってすごく短くわかりやすい構造となっており、全ての画面のつなぎに無駄がない。

評価:S(傑作) 100点中100点

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沖縄で遊んでいるシーンは確かに「無駄」といえば無駄かもしれないが、本作においてこの「遊び」はむしろこれがなければダメなのだ。
「あの夏」で開花した「北野ブルー」の演出も本作をもって1つの完成を迎えるが、本作を見たときの感想はとにかく「こんな映画見たことない」である。
それは物語がどうとか演出がどうとかいうことではなく、蓮實がいうところの「フィルム体験」として見たことも感じたこともない驚きがあったという意味だ。
北野映画は演出がわかりやすい反面、そのショットの驚きを言語化するのが難しいのだが、改めて表層に刻み付けられたフィルムから何が感じられるか論じてみよう。

「遊ぶ」こと

まず冒頭でも書いたように、「ソナチネ」はとにかく「遊ぶ」映画であり、それは北野監督の作家性として、そしてもう1つは劇中での登場人物たちの振る舞いとして表現されている。
本作の物語自体ははっきりいってごく普通の任侠映画の定番「古文が親分に裏切られ、遠くに行って死んでしまう」という鈴木清順の『東京流れ者』に代表される使い古した物語だ。
監督自身「ストーリーにはほとんど頭を使わず、なぞりながらどうやって崩すかで勝負した」といっていたが、いわゆる鈴木清順のパロディをしたというわけではないだろう。
むしろ本作で盛り込まれているのは北野武の「お笑い」が沖縄での遊びとして盛り込まれているのであって、村川たちが遊ぶところは「これは本当に任侠映画か?」と観客を忘れさせる。

特に紙相撲をヤクザの子分たちが遊んでいるところのカットはアップと引きで撮られているのだが、この引きの画がとにかく美しくここだけでも「いい映画を見た」という気分になるだろう。
寺島進や大杉漣ら役者たちもまたそういう紙相撲のような遊びをしても違和感のない役者であるし、何より北野武(ビートたけし)自身がそういうお遊びを楽しむことでとても柔らかい雰囲気が出ている。
「その男」「3-4x10月」ではどちらかといえば殺伐とした暴力的で荒々しい側面が目立っていたが、本作では徹底的にヤクザの世界から一度締め出すことで無邪気な一面を引き出すことに成功した
北野映画はどの映画でもそうだが「遊ぶ」ことが特徴としてあり、本作では特に次で説明する「撃つ」ことも含めて色んな遊びの要素が画面の運動として表現されている。

淀川長治は沖縄の海からの一連のシーンを「怖い」と解説していたが、私はむしろ沖縄の海は「怖さ」ではなく「開放的」ですらあると思う、殺し屋がやってくるまでは。
夜には花火で遊んだりフリスビーを銃で撃ったりする遊びがあるのだが、これらの要素は物語としてというよりも「ショット」として面白く、何回でも見ていられるので飽きがこない。
村川たちが着ているアロハシャツの衣装もまた「本当にこいつらはヤクザなのか?」と感じさせるゆったりとしたもので、見ている側はまずこの遊びのシーンで安心感を得る。
親分に裏切られ島流しにされたという構造を逆手に利用して、「遊ぶ」ことが主題となるようなとても面白おかしく、そして美しくもあり暴力的でもある画面が出来上がった。

「撃つ」こと

本作で目立つのは数ある北野映画の中でも特に「撃つ」ことであり、これが際立ってしまうくらいに徹頭徹尾画面を通して「暴力」として表象されている
北野映画では様々な暴力表現があり「アウトレイジ」は暴力表現の百貨店といった感じだが、本作はよくよく見てみると暴力をほとんど「銃」で表現しているとわかるだろう。
例えば「その男」「3-4x10月」ではドスが出てきたり指を詰めたり、殴る蹴るがあったりといったことがあったが、本作は一貫して「撃つ」こと以外の暴力表現がない。
まあ強いていえば後述する女・幸が強姦されるシーンは別の暴力表現であるが、それも決して直接的ではなく夜の暗い演出で描かれているためその印象が薄いだろう。

それくらい本作においては「撃つ」ことがあらゆる北野映画の中でも極めて重要な機能を果たしており、もう撃たれたらその時点で登場人物は命を落とすしかない。
本作が徹底して乾き切っているのは拳銃で撃たれる唐突さがもたらすものであり、これに関しては押井守が北野映画と銃に関して具体的に解説してくれている。

特にエレベーターの撃ち合いの迫力と密度は半端ではなく、まさに北野映画のミニマリズムがこれ以上ないほどの寸鉄で表現されているのではなかろうか。
昨日『非常線の女』を酷評した時にあの映画のミニマルな演出を北野武が発展させたのではないかと書いたが、正に本作の撃ち合いはその極みであると思う。
その前の南方師匠演じる殺し屋が寺島進を撃つシーンの真正面の切り返しショットもそうだが、小津を彷彿させつつ撃つことの衝撃をこれ以上なく露呈させている。
観客は殺し屋が現れ銃殺してからの流れにただならぬ緊張感を覚えるわけだが、それは単に殺し合いが再び始まったという物語の流れでそうなるのではない。

冴えない釣り師の格好をしたものが村川の子分を一瞬で銃殺し、思い入れも何もなく流れてしまい叙情を断ち切るというショットの連鎖によって不安になるのだ。
しかもエレベーターの撃ち合いでは「その男」でもあった流れ弾に当たって死ぬモブというのも描かれていたし、ホテルでのド派手なドンパチも外からの引きで撮られている。
銃で撃たれて死んだら殴り合いやドスでの刺殺とは異なり唐突にあっけなく命が失われてしまうということを最後まで淡々と演出するのみであり、そこに些かのドラマ性もない
だから村川の最期だって無駄に長く引きずるのではなく、あっさり頭を撃ち抜いてそれで無情に終わってしまうため、観客はそこで完全に感情移入の対象を失ってしまう他はないのだろう。

村川と幸はただの知己

さて、本作で1つ有名なのは村川と幸の関係性だが、結論から言えば村川と幸は決して「あの夏」「Dolls」で描かれていたような恋人関係ではない。
国舞亜矢というセクシー系の女優が演じている幸は北野映画に出てくる女優としては例外的な肉感を持つが、Tシャツを脱いで裸になっても全く色恋沙汰に発展しないのだ。
日活ロマンポルノだとかハリウッドとかならここで村川と幸が抱擁・接吻して男女の営みに走るといった流れがあってもおかしくはないが、それが一切ない。
それは決して北野武が女性を苦手だからとか同性愛者だからとかではなく、村川が幸のことを抱く対象として見ることができないからである。

「3-4x10月」と比較するとわかるが、あの作品でも北野武は沖縄で登場しているが子分に暴力も振るうし男だろうと女だろうと積極的に肉体関係を持っていた。
だが、本作の幸に関してそれがない理由は2つ挙げられ、ます1つが村川自体が「死ぬこと」以外のことを考えておらず、生きることに何の未練もないからだ。
恐ろしいくらい本作の村川は淡々としているが、本人も「あんまり死ぬことばかり怖がっているとな、死にたくなっちゃうんだよ」といっていた。
これ自体は物語上で特別な意味を持つものではないが、要するに村川は子分が死のうが幸がどうなろうが知ったことではなく、人に興味がない

そしてまた、幸という女も色恋を知っている恋愛達者な魔性の女というよりはひどく子供染みた性格の女としてそこに描かれ振る舞っている。
だからどれだけ肉体が豊満であったとていわゆる官能的な匂いを発しているわけではなく、観客も幸を見て興奮することはまあないであろう。
どちらかと言えば遊びに興じる小学生男子と女子みたいな感じであり、決して色恋沙汰や愛人といったような固有の関係性は決してない。
遊びの要素があるとはいえ本作はあくまで「任侠」であり、そこに女が入り込む余地などなくただ蹂躙されるかじっと待つしかないのだ。

だから村川と幸の関係性を定義するならただの知己であり、一緒になってふざけるが村川は決して幸に何の感情も抱いていない。
もしここで幸の感情を物語として入れてしまうと、『非常線の女』のラストのように叙情に流されるしかなくなってしまうのだ。
思えば「パト2」の柘植と南雲も最後は叙情に流されてしまったが、これは根本的に男の戦いと女の世界は両立しない事実を示していよう。

車と銃の色気(存在感)

押井守も指摘していたが、本作で個人的に好きなのがやはり車と銃の色気(存在感)が挙げられる。
登場人物だけではなく車や銃にも色気が宿っていて、まあこの中で銃に関してはそれがショット上として強烈な役割を果たすから当然だろう。
だが、それ以上にもっと面白かったのは車であり、車がいわゆる「死に場所」として機能したことも含めて非常に印象に残っている。
中でも高橋のふくらはぎを銃で撃った後に燃やすシーンもさることながら、ラストの青い車の存在感もまた素晴らしい。

ゴダールは「男と女と車があれば映画なんて撮れる」といっていたが、北野映画は「男と車と銃があれば映画なんて撮れる」ではないだろうか。
引きのショットで移動するトラックもそうだし、あの絶妙な曇り具合と青い車とのコントラストが非常に綺麗で、構図も含め完璧である。
日本映画で、それも任侠映画でこんなにも美しい車のショットが見れたことはなかなかなく、北野映画の演出としては5本指に入る名カットだ。
そしてその中で頭を撃つ時の銃の色気もまた素晴らしく、スッと出して本当に様になるくらいラストショットは全部において無駄がなかった。

このシーンは物語的に切ないこと以上に視覚的に哀愁を出しつつも決して哀愁に成り切らず、さりとて無感情というわけでもない。
ドライでありながらそこには「美しさ」があり、このショットを初めて見たときは私は思わず涙を流しそうになってしまった。
飛び散った血の赤もアクセントとして素晴らしく、全てにおいて寸分の狂いもなく圧倒的な完成度を誇る絶妙なショットである。
「あの夏」まではどこか叙情性があった北野映画だが、本作はオチまで含めてしっかり完璧にショットが画面に収まりきっているだろう。

そして銃の色気に関してはもう1つ遊びの場面でもそれが使われていることで「危険な子供の遊び」にも使われていることに注目したい。
特に村川たちがじゃんけんしてロシアンルーレットをやっているところから幸が機関銃をぶっ放すところ、そして赤のフリスビーを銃で撃つところ。
ヤクザの殺し道具であるはずが遊びの道具として機能していることで、銃はいろんな形で表象されており、違う顔を見せる。
そこがとても私には面白く、物語に従属しない存在として銃という記号が使われていることへの驚きが見る者の心を揺さぶるのだ。

終わりに

本作は間違いなく初期北野映画の到達点にして最高傑作ではあるが、さりとてまだこの画面の全てが語り尽くされたというわけでもない。
沖縄の銃撃戦だけではなく遊びも含めて、これだけのショットを日本の任侠映画が撮ってみせたことへの驚きに心を思わず動かされてしまう。
また、それと同時に本作が日本映画の現在に影響を与え続けているということも事実である。
この驚きと遊びの安心がラストに向けて崩される画面の運動こそ本作が傑作たる所以ではなかろうか。

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