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越前リョーマが天衣無縫の極みをフランス戦で使わなかった理由を考察!平等院鳳凰が言う「覚悟」とは具体的に何を意味するのか?天衣無縫の極みの先に待ち受けるものは?

今回は以前から何度か触れていた「越前リョーマが天衣無縫の極みをフランス戦で使わなかった理由」ですが、結論からいえばあの戦いは「国家の威信を背負った戦い」だからです。
以前にも書きましたが、天衣無縫の極みはあくまでも「自分軸でテニスをする」こと、国を背負うとかそういう「戦う理由」といった条件付けから解放された状態を表します。
ドイツ戦で天衣無縫の極みが「矜持の光」という言葉を使って再定義され、その中には「愛しさ」「切なさ」「心強さ」の3種類の精神派生があることが判明しました。
これは即ち「楽しさ」だけが天衣無縫の極みのあり方ではなく、自分のために自分軸でテニスをするという誇り高さ=矜持がその本質であることを意味するのです。

この観点で見た時にプランス・シャルダールと越前リョーマの戦いはそのような「自分軸」での戦いではないことが試合全体を通して示されていました。
最初は馬上テニスから始まり、2人の王子様による竜崎桜乃争奪戦の要素も盛り込まれていこの試合ですが、後半〜終盤に入るとサムライと騎士のスタンド合戦も出てきます。
このスタンド対決が見えていたのは平等院・徳川・デューク・鬼辺りの「阿修羅の神道」に目覚めし者とフランス側はカミュとシャルダールとくらいでしょうか。
一騎討ちという形での演出が盛り込まれていますが、これが何を意味するのかというと「武士道VS騎士道」という国家の威信を賭けた代理戦争であるということです。

これは旧作では打ち出されていなかった「新テニ」ならではの1つのテーマであり、「代理戦争としてのスポーツ」というのが本格的に描かれています。
だからこそ旧作の「テニスを楽しむ」だけでは対応できないことになるわけであり、天衣無縫の極み自体が弱体化したわけでも何でもありません。
リョーマとシャルダールとの真剣勝負は「楽しむテニス」という次元では勝てないものであり、これは全国決勝の幸村戦とはわけが違います。
旧作の最後では「勝ちへの執着に縛られた立海」と「勝ちへの執着から解放された青学」とが好対照を成す、まさに光と闇の戦いでした。

しかしそれが物語の中で有効なメッセージとなり得たのもあくまで「中学生の部活動」という狭い学生の枠内だからこそ通用するものです。
「新テニ」になると文字通り世界の現役プロが出てきて、もはや「楽しむ」云々ではどうにもならない次元の高みにある戦いへと突入します。
だからこそ平等院鳳凰は「義では世界は獲れんのだ」と徳川に言い、実際にエキシビションマッチでは天衣無縫の極みを使った遠山ですら危うく負けそうになりました。
そう、天衣無縫の極みを身につければ万々歳ではなく、その先を見極めて自分のテニスをアップデートしていかなければ対応できなくなるのです。

そして越前リョーマはアメリカ代表として戦っていた時に、天衣無縫の極みを使っても勝てないアメリカ代表のラインハルトなどに出会っていたことも挙げられます。
越前リョーマはだからこそ光る打球を「希望(ホープ)」として昇華したり、シャルダールが持っていたリターンエースの才能を習得して物にするのです。
そして光る打球をリターンで腹に食らって医務室へ運ばれるという「滅び」を経験しながらも、そこから「蘇る」ということを経験しています。
その上で見せたあの武士道が平等院鳳凰の心を動かし「中学生(ガキ)の分際でもう背負ってようじゃねえか、覚悟を」と高く評価しました。

この平等院が言う「覚悟」とは国家の威信を背負って強さに変えられる力もそうですが、それ以上に「滅んでも蘇って強くなる覚悟」のことでしょう。
越前リョーマはすでにあの試合で平等院鳳凰がドイツ戦の時に過去回想で触れていた「滅びよ、そして蘇れ」というオジイの教えを実践していたのです。
そしてそのリョーマの覚悟に負けまいとするシャルダールもまた凄まじい覚悟で戦い抜き、あの一戦は新テニの中でもかなりの名試合だったと思います。
だからこそ平等院鳳凰は徳川と越前を「日本代表のこれからを担える逸材」として高く評価し、ドイツ戦の途中で彼らに日本を託したのです。

つまり越前リョーマはこのフランス戦の時点で既に平等院鳳凰の教えを素直に聞き入れて彼なりに「世界で戦うとはどういうことか?」を見定めようとしたのでしょう。
そんな戦いの中では天衣無縫の極みを使ったところで勝てる保証があるものではないし、また1つの能力に依存する危険性を既に旧作で散々経験しています。
それもあって、越前リョーマは天衣無縫の極みに依存しない世界大会ならではの新たな戦い方、テニスのあり方を模索し確立しようとしたのではないでしょうか。
白石が決勝戦前の代表決定戦で遠山をダブルスに誘い込み、今の遠山金太郎ではどう足掻いても越前リョーマに敵わないと内心を漏らした理由もそこにあります。

既に天衣無縫の極みの先を切り開き新たなテニスへ自分のレイヤーを上げている今のリョーマではどう足掻いても遠山が勝てる道理は有りません。
身体能力や潜在能力といったことや試合のスコアのことではなく、精神面の成熟度と目指す先に何を見据えているか、そして自分は今何をすべきか?という意識と経験値の違いです。
遠山が越前リョーマのいる魂のステージへ行こうと思ったら現実点ではまず無理であり、天衣無縫の極みに依存しない戦い方と強者への経験がまず必要になります。
そして何より「まだ自分はテニスに関して何も知らない未熟者なんだ」という意識、「スラダン」の安西先生が言う「下手くその上級者への道のりは己が下手さを知りて一歩目」が遠山には足りません。

遠山はなんだかんだ今まで潜在能力によるゴリ押しだけで戦っていた側面があり、負けても「悔しい」という思いすら経験してこなかったのではないでしょうか。
真の強者になるためにはまず負けることで「悔しい」と思う経験をすることが大事であり、それがなければ先へ進むことはできません。
そしてそれはリョーマも同じであり、もはやリョーマは単なる「超1年生という期待のエース」ではなく「日本を背負って世界を獲りに行く戦士」なのです。
そう、中学生の中で越前リョーマはもう既に「少年」ではなく「大人」「戦士」になろうとしています、少なくともテニスにおいては。

でも遠山金太郎にはまだまだ「戦士」として、「サムライ」としての覚悟が足りておらず、だから平等院のお眼鏡に叶う人材にまではなっていないのです。
それも踏まえると決勝戦で遠山がD2、越前がS2にそれぞれ配置されたことは物語の都合でも何でもなくなるべくしてなった結末だったわけですね。
この2人が天衣無縫の極みを乗り越えてどんな進化を遂げ、どんな新境地を切り開いてくれるのかが楽しみです。

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