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「シン・仮面ライダー」感想〜今更見る必要がない物語〜

10年来の親友である黒羽翔氏が「見てきた」というので、話題作りもあって急遽『シン・仮面ライダー』を見てきた。
そうでなければ本作は絶対に見なかったであろう作品であり、どうやらTwitterをはじめSNS界隈では評価が真っ二つに別れているらしい。
好きな人はとことん好きで嫌いな人はとことん嫌い、ということらしいのだが、それらも含めて本作は私なりの庵野監督作品に対する結論を出せた作品だった。
というわけで、趣旨としては「シン・仮面ライダー」という作品そのものの感想よりは「庵野監督作品総論」という意味合いが強いかもしれない。

庵野監督作品は私にとって必要ない

本作をもって私の中ではっきりと出た答えは「今更庵野監督作品など見る
必要ない」
であり、少なくとも私は彼の物語を知らなくても十分に生きていける。
その答えがなかなか出ずに自分の中で思考と感情の整理がつかなかったのだが、不思議なことに私は庵野監督及び彼が作った作品群に「好き」「嫌い」の個人的感情がない
以前は彼のことを「嫌い」だと無理に思い込もうとしていたがそれとも違い、かといって諸手挙げて「好き」と肯定できるかというとそうでもなかった。
何故ならば庵野監督が紡ぐ物語がそのキャラクターの内面も含めて私には微塵も刺さるところがなかったということに気づいたからである。

「エヴァ」しかり特撮の「シン・シリーズ」しかり、彼が作る作品は「作品そのもの」よりも「ネームブランド」の方が先立つのではないだろうか。
どういうことかというと、例えば「シン・ゴジラ」しかり「シン・ウルトラマン」しかり、そして本作然り必ず「庵野監督」というネームブランドがある。
私のみならず、彼の作品を劇場に足運んでまで見に行く人は「庵野監督だから」見に行くという人がほとんどであり、そうじゃなければ見向きもされないだろう。
細田守監督や新海誠監督同様、もはや存在自体がブランド化しており、作品よりも作家名が目立ってしまうのが良くも悪くも庵野秀明という作家の世間一般の評価である。

何故そうなのかといえば、それは後述するが庵野監督が紡ぐ物語ならびにキャラクターの心情や造形がそのまま庵野監督自身の内情と深く結びついているからだ。
そして庵野監督自身の内情とはほぼそのまま彼と同じような心情を抱えた思春期の子供達が持つコンプレックスと繋がっており、それが共感を生んでいる。
逆にいえば彼の心情とリンクするだとか彼と似たような境遇を味わった人でない私のような人間にとっては一切共感できない物語なのだ。
そこを見抜いてしまえば、一見難しそうな庵野監督の作品なんて実に簡単に読み解けてしまうのであり、「エヴァ」も「シン・シリーズ」も私にとっては取るに足らないものである。

だから私にとって庵野監督作品は「好き嫌い」「共感」といった次元で見ていない(そもそも私はそのような観点で作品を評価したことがない)以上「見る必要がない」のだ。
世間一般では持て囃される存在だから必要というわけではない、現に私は似たような発想で作られている低年齢層向けの「ドラえもん」だって全く興味がないし見る必要がない。
では何故見る必要がないのかというと、上述したように庵野監督作品が根本的に「オタクのこじらせ」で成り立っているからである。

庵野作品を読み解くキーワードは「オタクのこじらせ」

庵野監督作品を読み解くキーワードは一貫して「オタクのこじらせ」であり、これは自身もインタビューで述懐しているように若い頃から持ち続けているものである。
コンプレックス自体が作品を生み出す原動力になること自体は珍しくも何ともないが、庵野監督作品の場合はそれが本質的な「人間の業」というレベルまで至っていた。
少なくともTV版の『新世紀エヴァンゲリオン』(旧作の方)はそれで作品世界が成り立っており、あの作品では徹底して「男の情けなさ・カッコ悪さ」が描かれている。
アムロ・レイ以上の内向性と野比のび太君のダメ人間ぶりを圧縮した碇シンジに対して「あれは僕だ」と口にした当時の視聴者は少なからずいたであろう(代表は中田敦彦)。

ではなぜそこまで言わせたのかというと、そもそも時代背景から考えてTV版「エヴァ」が放送されていた1995年当時はバブル崩壊の影響を受けて世間に不況の波が押し寄せていた時代である。
世間では大人たちが大量にリストラされて疲れ果て、子供達はそんな大人たちのダメっぷりを見て大人を「かっこいい」と思えず夢すら持てなかった。
閉塞感に満ちた世界でその鬱憤を晴らすかのように起こった地下鉄サリン事件という史上空前のテロリズムと阪神・淡路大震災という世間全体を奈落の底に突き落とす事件が起こる。
多かれ少なかれ、当時の日本にはそんなどんよりとした空気が蔓延しており、その時代の空気感と「エヴァ」が紡ぎ出す鬱屈とした後ろめたく暗い世界観がマッチしていた。

綺麗事に包まれた「優しい嘘」ではなく「残酷な現実」を描いた「エヴァ」の世界観は今見るとさして新鮮味のあるものではないが、当時はそれなりに衝撃的だったことだろう。
だが、その根底にあるのは「アニメ・漫画にしか範を取れずにいつまでもオタクから卒業できなかった」という庵野監督自身の忸怩たる思いであった。
いつまでも子供の頃の夢を追いかけ大人になって世間と和していくことができずにいるピーターパン症候群の象徴が碇シンジをはじめとする「エヴァ」の登場人物に共通する特徴である。
そして面白いのはあの世界では最終的に碇シンジの意識に基づく選択がそのまま世界の運命と直結していることであり、これが後に「セカイ系」という言葉の由来ともなった。

しかし、当時から私が感じていたのは「そんなのはただの思い込み・錯覚だよ」であり、オタクコンプレックスが全くない私にとっては彼の物語は全く刺さらない。
オタクであることが悪いのではなく、開き直って堂々とオタクがやれることを素直に突き詰めればいいのに、そんな自分であることが受け入れられないのであろう。
よく大人になって賞味期限切れになった作品を「子供騙し」ということがあるが、庵野監督作品はその意味で「オタク騙し」の作品ではないだろうか。
オタクであることをはじめ思春期に何かしらの鬱屈としたコンプレックスを拗らせてきた人だけが彼の物語に共感できるのであろう。

「弱者」の物語に貶められてしまった「仮面ライダー」

そんな「こじらせオタク」の代表である庵野監督が紡ぎだした今回の「シン・仮面ライダー」はどんな物語だったか?
いろんな解釈が成立するのであくまで個人的見解に留めておくが、私に言わせれば「弱者」の物語に貶められてしまったとでもいえるだろうか。
何故そう感じるかというと、ショッカーが世間一般にある新興宗教とほぼ同義の組織に改変されてしまったからである。
こんなありがち設定にしてしまった時点で「仮面ライダー」の世界観や物語の規模感が物凄く矮小化されてショボくなってしまった

どうやらSustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling(計量的な知能の埋め込み改造により持続可能な幸福を目指す組織)の略らしい。
幸○の科○かよと思わず突っ込んでしまったわけであるが、まあ時代性を考えればこの改変に関しては納得できるところはある、というのも旧来のショッカーは今通用する組織ではないからだ。
旧来のショッカーはかつてのナチスドイツをモデルにした世界征服を企む悪の秘密結社であり、この設定は戦後の余波を引きずって冷戦が存在した昭和だから通用した設定である。
しかし、それと全く同じ組織は冷戦がなくなった以上通用するわけもなく、だから「THE FIRST」しかり本作しかり時代性に合わせた改変をするのはやむを得ない。

では本作でその新たに作られたSHOCKERという組織がきちんとその独自性を持ち得たかというと、少なくとも旧来のショッカーのような迫力も存在感もないのである。
それはデザインがほぼ旧作の焼き直しの域を出ないからというだけではなく、最終的に幸福を目指すのであればむしろ社会貢献していることになるのではないか?と思う。
無辜の者に迷惑はかけているかもしれないが、やっていることがどれも世間一般の犯罪者・テロリストのレベルと大差なく、そんなスケールのショボい戦いに仮面ライダーを出す理由がわからない
単純に技術力の差だというのであれば、SHOCKERとは別の科学力を持って対抗すればいいだけの話だし、これならまだ某イス○ム国や元統一教会の奴の方がよっぽそ恐ろしいことをしているといえる。

庵野監督をはじめ作り手はおそらく仮面ライダーをそのような宗教組織と戦わせることによって自分たちが時代の最先端を掴んだつもりでいるのかもしれない。
しかし私に言わせればそれは「勇気ある選択」というよりは「後ろ向きの妥協」としかいえず、寧ろ「仮面ライダー」のテーマを大きく後退させているのではないか?
それがひいては昭和のテレビシリーズを希釈したようなのっぺりとした戦闘シーンに現れており、悪の組織をやっつけてスカッとする爽快感・カタルシスは全くない。
「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」ではまだ感じられていた特撮の要諦すら本作は満たせていないわけであり、総じて「弱者」の物語に貶められたといえるだろう。

漫画版と大差ない結末にするならリメイクの意味はなし

そして何より私が本作を「ショボい」と感じてしまった最大の理由はラストバトルの見せ方と、漫画版と大差ない自己犠牲の結末になってしまっているからだ。
まず何故本郷猛と一文字隼人が緑川ルリ子の兄であるイチローと殺し合いなんかせねばならんのかという話だが、対比的に盛り込まれたのはおそらく擬似的な仮面ライダーVSキカイダー01であろう。
また、イチローが単独で完成しているのに対して仮面ライダーは本郷猛と一文字隼人が合わさって完成しているという対比もそれ自体は悪いことではない。
しかし、上記したようにSHOCKERの組織描写がショボい上に戦闘シーンの迫力もなく、本作の主眼として見せたいであろう人間ドラマも退屈なのである。

何で緑川ルリ子に浜辺美波を起用したのかはわからないが、原作の芯が強いキャラを何故アスカみたいな気が強いタイプに改変されなければならないのかがわからない。
本郷猛も原作漫画ならびにテレビ版の藤岡弘のような凛々しさ・骨太さはまるでなく碇シンジみたいなナヨナヨしたダウナー系コミュ障に改悪されている。
一文字隼人は比較的原作に近いが、何れにしても改変しなくて良いとこばっか改変して、改変すべきところで何故だか変に原作のままをなぞっているのだ。
そうして出来上がった結果が本郷とイチローの心中であり、こんな結末を令和の今になって望んでいる人、ピンと来る人がどれだけいるだろうか?

戦いの規模感を小さくし、更には原作のキャラを「エヴァ」風に改変した挙句の心中……これならわざわざ庵野監督がリメイクする必要などどこにもなかった
むしろ徹底して原作漫画の再現に徹して「これが石ノ森漫画版の実写再現です」と言ってくれた方がまだ納得できるくらいである。
それに「仮面ライダー」はテレビシリーズ・映画を問わず手を替え品を替えなんども「原点回帰」は行われてきたのであり、むしろ供給過多であろう。
要するに庵野監督がわざわざ「シン」なんて名前をつけてリメイクする必要などないくらいに、ライダーシリーズはいくつもの原点回帰作品が作られてきた。

本作は「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」で成功してきた庵野監督の製作のやり方が遂に裏目に出てしまい、失敗してしまったように思われる。
決して原典を蔑ろにしているわけではなく、むしろカメラアングルといいスーツデザインといい隅々まで研究して愛を持って作ってくれた。
だが、その原作への思い入れの強さがかえって本作を無味無臭な劣化コピーにしてしまったのではないかというのが個人的見解である。
それもあって、本作はライダーシリーズの歴史的にも、そして私個人の感想としても「必要ない」のではないかと結論に達したのだ。

まとめ

私にとっての「シン・仮面ライダー」を語ってみたが、「庵野監督作品は自分にとって必要ない」という身も蓋もない答えが明らかになった。
だから、私の肌には合わなかったけれど、いわゆる「オタクのこじらせ」を引きずっている人やそれに共感している人は本作を楽しめるのではないだろうか。
重箱の隅をつつくように「ここはこういう風に作られているんだよ」というキッチュに消費する楽しみ方をする人にとっては美味しくいただける作品である。
ただ、私には全くもって共感も理解もできないし、これを見るくらいならテレビ版と漫画版を見た方がよほど良い。

ありがとう、そしてさようなら庵野監督!


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