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『ファンタスティック・プラネット』(1973)簡易感想〜和平交渉とは名ばかりの保身に走った身勝手なドラーグ族〜

『ファンタスティック・プラネット』(1973)を見たので感想・批評をば。

評価:A(名作)100点中85点

非常に寓話性の高い作品ではあったが、50年経った今見ても古びない作画の美しさと演出・テンポの良さもあって72分があっという間に感じられてしまい、全く退屈しなかった。
少なくとも現代のやたらと絵が綺麗なだけで大して面白くもない作品を見るよりはよっぽど価値があるので、是非とも映画や芸術に詳しい人であれば一回はご覧頂きたい。
素直に受け取るなら人間の姿をした小人たちが醜い姿をした「宇宙人」として描かれているドラーグ族へ反旗を翻し、知略で何とか和平に持っていったハッピーエンドのように見える。
しかし、どちらかといえば人間の醜さが内包されているのはドラーグ族の方であり、これは寓話的なことには間違いないのだが、小人の方に感情移入してしまうと騙されてしまう

何に騙されてしまうのかというと、ここで結ばれたドラーグ族と人間たちの和平は決して道徳的になされたものではなく、むしろ論理的思考に基づいてなされたものではなかろうか。
描き方によっては最終的にドラーグ族が滅んでもおかしくはないものになっており、一見「弱者」として描かれているオム族が弱者で、ドラーグ族の方が圧倒的な「強者」のようである。
しかし、実はこの構図が後半〜終盤にかけて逆転していき、最終的にオム族が「強者」のステージにまで上り詰め、逆にドラーグ族が「弱者」に成り下がってしまったようだ。
要するに「力の大小」ではなく「知恵と精神のあり方」の部分を具象化し、その部分を攻略することによってドラーグ族があっという間に絶滅寸前にまで追いやられるのである。

本作に出てくる主人公・テール(フランス語で「凄い」という意味)は戦闘力こそないが地頭が良く、利発的で学習能力の高い賢しらな子供として描かれていて、戦う力はないが味方を引きつける人望と知恵を持っていた。
そんな主人公が野生のオム族の女性と恋に落ちながらも、どうやったらドラーグ族の今の支配から自由になれるのかを考えるのだが、当然ながら真正面から全面戦争を挑んだところで勝ち目はない。
しかし、「学習器」のような金色の輪を入手したことによって、ドラーグ族の心の中を除き、どういう生態系をしていてどうやって生き延びているのかを知ることができるというのである。
また、野生のオム族も決して愚かではなく、偽物の輪っかを首につけてドラーグ族に狙われないようにしたり、テールからの情報提供を得て自分たちもどうすれば生き延びるかを真剣に考えていく。

そうして最終的にドラーグ族が生命維持のために野性の惑星に置いてある顔なしの男女の偶像が無数に並んでいるところに意識を飛ばして交配のダンスをすることによって生命を維持している。
要するに精神的に愛を交わし続けて供給をお互いにしなければ生き延びられないという致命的欠陥があったわけであり、その弱点をついに掴んだオム族はロケットを開発して、次々とその無数の銅像を壊す。
その銅像が破壊されたことで生命維持が不可能になりかねず、絶滅寸前に追い込まれてしまうのだが、実はここまで見ていくとオム族ではなくドラーグ族こそが我々人間のカリカチュアであることに気づくであろう。
そう、高度な科学力と自分たちよりも弱き者を虐げ虫けらのように扱い、そのことに胡座をかいて己の優位性を最後まで信じたが故に思わぬ虚を突かれる形で負けそうになってしまうのだ。

オム族とドラーグ族が和解したのは決してドラーグ族が自分たちのしていたことの罪と向き合い、オム族の価値の尊さを認めたなどという道徳的な解決ではなく、オム族に弱点を突かれて滅びそうになったからである。
もしこれでオム族がドラーグ族並の科学力と戦闘力を手にしていた場合、それこそ完膚なきまでにドラーグ族との全面戦争に突入してオム族が勝つという勧善懲悪型の物語に落ち着いていたであろう。
この和平は決して喜ばしいものではなくあくまでも結果論であり、ドラーグ族の身勝手さ・醜さ・愚かさは最後の最後まで一切変わることのないまま、表向きの和平だけが描かれるという胸糞悪い結末だ。
単純に「全滅だけは避けたい」という消極的な選択から機械的に「だったら和平した方がいいよね」ということになったわけで、心から通じ合って解決できるほど戦争というのは甘くないのである。

だが、逆にいえばこのアニメの興味深く、そして時代・国・人種を超えて伝わってくるものがあるとすれば、弱肉強食の構造を変えたければ生き延びるための知識と力を身につけて相手の弱点を容赦無く突くことだ。
オム族とドラーグ族の力関係が最終的に逆転したのは弱かったはずのオム族が知識と力をつけて上回ったからであり、これで対等以上の体の大きさと戦闘力を手にしていたらドラーグ族なんかイチコロだったであろう。
それこそ「ドラゴンボール」に例えるならオム族がサイヤ人、ドラーグ族がフリーザ軍ようなものであり、単純に力強い種族が自分たちよりも弱い種族を奴隷扱いして利用しているだけに他ならない点が共通している。
そして、力と知恵をつけた弱小種族が最終的に強大な種族に対して謀反を起こし、最終的に上回るジャイアントキリングという構造も似ており、いわゆるジャイキリは決して絵空事ではなく現実にもままあることがわかるだろう。

さしずめオム族でありながら利用価値のある者として利用されていたテールが悟空ないしベジータ、そしてドラーグ族をフリーザ軍に置き換えると、最終的な結末はこれだろう。

そう、この世で誰も超えるはずのないドラーグ族を超える者が現れてしまった、しかもそいつはたかがオム族だったというのが本作の示している末路だ。
まあ今回のこれはまだドラーグ族が種族のプライドや面子に拘泥せず、和解するという選択を取るだけの分別が残っていたからこそ成立した展開であろう。
その意味において、結末の持って行き方は私の好みではないが、人間の業の深さと醜さを持つドラーグ族と知恵と力をつけて強くなるオム族のヒーロー性の対比が面白い。
また、各キャラクターの色付けや個性もはっきりしていて、深い寓話性を持ちながらも、話も動きも非常にわかりやすく、今見ても十分に鮮烈なインパクトを見る者に与える。

和平交渉とは名ばかりの保身に走ったドラーグ族だったが、逆にいえば現実の戦争なんてこんなものであり、いつの時代も戦争が集結する時に道徳的観念で和平が結ばれたことはない
単純にこれ以上戦争を続けると自分たちが滅びかねず、経済的にも続けるのは不可能と判断したから仕方なく和平を結ぶということの方が大半なのである。
オム族とドラーグ族は決して分かり合えてなどいない、価値観の壁は埋まらないままオム族の移住先が決まっただけであり、ドラーグ族の支配的な構図は変わっていないのだ。
いわゆる「心から分かり合えたので和平を結ぶ」などという安易なレトリックに頼らない絶妙なバランスで人類の戦争とはいかなるものかを描く確かな視点と批評性が今見ても斬新な刺激をもたらす名作である。

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