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【ネタバレあり】映画『首』感想〜及第点以上だが、まだまだ化ける可能性を秘めている良作〜【閲覧注意】

北野武監督の最新作『首』を二回見て来て、ある程度評価が固まって来たので感想・批評をば。

評価:B(良作)100点中75点

※ネタバレありなので未見の方は注意。


1回目よりも2回目の方が面白いがボルテージは高まらず

まず言いたいのは、本作に関しては1回目よりも2回目の方が面白かったのだ、それでもボルテージはいまいち高まり切らず、どうにも不完全燃焼で終わったというような印象だ。
そもそも北野武自体が時代劇よりも任侠映画や青春映画の方で人気を博している人だったので、本作はその点「作家性」に振り切っているのか「エンタメ性」に振り切っているのかのさじ加減が分かりにくい
いわゆる黒澤明のような大掛かりなセットを組んだ重厚感のある時代劇にしたいのか、それとも『座頭市』(2003)のような徹底した現代風エンタメにしたかったのか、とにかく「ここ!」という拘りが弱かった。
しかも北野映画としては珍しく説明台詞が多すぎたからか、いわゆる『アウトレイジ』(2010)の「バカヤロー!」「このヤロー!」のようなテンポのいい罵詈雑言の応酬みたいなものもない。

もちろん、今の時代CGをほとんど使わずにこれだけ大掛かりなセットを使った贅沢な殺陣やギャグなども要所要所にはあったから退屈はしなかったが、それでも北野監督らしい軽妙さ・テンポの良さがまだ出し切れていない。
理由としてはまず一番に「史実を基にした時代劇だから」というのがあり、これが同じ時代劇でも黒澤明の『七人の侍』とは違うところで、台詞回しや登場人物の関係が大河ドラマ並に複雑に入り乱れている。
例えば、子供向けでも今YouTubeで配信されている『侍戦隊シンケンジャー』(2009)はスーパー戦隊という子供向けとしてのフォーマットがあるし現代劇だから、必ずしも史実通りに堅苦しく描かなくてもいい。
しかし、今回の場合は時代劇の定番中の定番である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の戦国時代の御三家を北野風に脱構築するという、前人未踏の領域に足を踏み入れたことになるわけだ。

特に今回は西島秀俊演じる明智光秀と加瀬亮演じる織田信長の駆け引き・心理戦が物語のメインである以上、どうしても作風としては既存の北野映画に比べて堅苦しいものにならざるを得ない
もちろんそんな中でも北野映画「らしさ」は随所に出ていて、例えば女子供であろうが容赦無く首をはねるとか、もろに同性愛の官能描写が出るとか、昨今のポリコレやコンプライアンスなどの忖度が一切ないのは美点であろう。
綺麗事めかして描かれる時代劇」をどれだけ崩すことができるかに関しては成功していると思うし、一貫した主題論めいたものもあるのだが、そこが映像作品としての饒舌さにいまひとつ昇華されきっていなかったのではないか?
そして何より、ラストの結末が明らかに続編を匂わせるような感じだったから、これで終わりではなく恐らくは『アウトレイジ』と同じように三部構成にするつもりであることも容易に想像できる。

だから今回の映画に関しては「三部作の序章」という、言うなれば『ゴッドファーザー』のような位置付けとして捉えればいいのであろうが、どうにも世界観・物語・登場人物の描写に終始しており「映画」としての醍醐味を感じにくい。
この辺り、『アウトレイジ』に関しては一作目からぶっ飛ばしていたのだが、続編の「ビヨンド」「最終章」で勢いが失速してしまった感じがあるので、今回は敢えて一作目のペースを落としたということだろうか。
作品全体としてのボルテージが低く、クスッと笑えるシーンや「おお!」と思わず驚くところもあったのだが、それでも全体的にシークエンスやカットが流れていて緩急のつけ方が甘いように感じられる。
楽しみにしていただけに落差も大きかったが、それでも1回目より2回目の方が楽しめるように感じられたのは流石に世界の名監督たる所以というか、熟練の腕前を見せてくれたとは思う。

あくまでも「俯瞰の客体」に徹しているビートたけし

本作に関して珍しいのはビートたけし演じる豊臣秀吉があくまでも「俯瞰の客体」に徹しており、主人公でありながらも本作においては狂言回しに徹しているというのが特殊な構成である。
例えば『3-4x10月』『み〜んなやってるか!』みたいに脇役としてビートたけしが出ることはあるが、その場合でも僅かな描写の中で必ずと言っていいほど爪痕を残す。
しかし、本作の秀吉様に関しては動きが少なく傍観者に徹しているため、自分の意思で動く場面が少なく、印象に残った動きが家康の草履を池に投げ捨てるところとラストシーンのみである。
本作の主体はあくまでも明智光秀と織田信長なので、この2人に物語を能動的に動かしてもらって、ビートたけしは省エネモードのバカ殿に徹してて虎視眈々と天下統一の機会を伺う小物に徹していた。

この位置付けこそ実は今までありそうでなかった立ち位置であり、例えば『座頭市』の市みたいに圧倒的な強さで無双するわけではないし、他の暴力映画程の凄みや威厳もあまり感じられない。
正に何もしない棒のような人であり、とにかく後ろから「武士道」だの「忠義心」だの、ラストにはメインタイトルである「首」だのといったものまでせせら嗤って蹴り飛ばす
しかし、だからと言って何もしていないのかというとそうではなく、自分がどのように立ち居振る舞いをすれば良いかを考え、その場に応じた最適な判断を下すことができている。
おそらく本作のビートたけしはいつものギラギラした闘争本能丸出しの「北野武」というよりも、小狡さや器用さを身につけて老獪に立ち回る「ビートたけし」なのであろう。

逆にいえば、本作はその構造さえ掴んでしまえば意外と簡単であり、あくまでも激動の権力争いを後ろで俯瞰している秀吉様の視点で茶々を入れながら楽しめばそれで良い。
信長と光秀を中心とした登場人物の悲喜交々が描かれているが、特に難しく考える必要はなく秀吉様のように「何馬鹿なことをやってんだこいつら」と思えば良いのである。
実際、本作に出てくるあらゆる登場人物の描写や関係性などが一見重々しい主従関係で運んでいるようでいて、内心では全員が「隙あらば寝首を掻いてやる!」と思っているのだ。
しかもそれは侍だけではなく百姓から上がった野武士も、そして住職や千利休のお目付役の間宮などもそうであり、本作はどれだけ「シニカル」であれるが大事である。

だから、ビートたけしは本作では基本的に動かず、要所要所で美味しいところだけを持っていく奴なのだが、だからこそラストの「首なんかどうでも良いんだよ!」の剣幕・迫力が凄まじい。
恐らくはこの1カットに全てを凝縮させるために、敢えて無知なバカ殿を演じて立ち回り、それなりに仲良くしていた光秀の首をそれとわからずに蹴り飛ばしてしまう。
そして次回作がどうなるかという明確な興味関心を抱かせたまま幕を閉じるのだが、本作はその意味で「秀吉が主人公になるまで」のエピローグであるといえるかもしれない。
いつもよりもテンポが遅く、どうにも歯車がいまひとつうまく噛み合っていないように見えてしまうのも、意図して北野監督が狙ったことだったのだろう。

いい味を出していた脇役たち

最初に厳しいダメ出しをしてしまったが、それでもたけし軍団が勢揃いしただけあって、実に見応えのある演技・殺陣・ギャグなどが散りばめられていて、細部はそれなりに楽しかった。
特に西島秀俊は『Dolls』以来21年ぶりの北野映画であり、しかも本作は完全に時代劇のお芝居を身につけて風格もあるので、まずその演技合戦で楽しめるのがとても良い。
遠藤憲一との同性愛も含めた歪んだ絆や織田信長との主従関係なども面白かったし、織田信長に関しても加瀬亮が演じると小物に成り下がってしまうのだが、迫力は凄まじかった。
どうせラストで華々しく散るのだから思い切ってというのはもちろんあるのだろうが、まず主役たちがどれも良い役者ばかりなのできちんと「時代劇」としての格は保たれている。

そして何より本作のMVPは何と言ってもキム兄こと木村祐一演じる抜け忍・曽呂利であり、これが本当に物語を分かりやすく、そして面白く楽しく彩って盛り上げてくれた。
全体的に登場人物が次々と死んでいくハードな設定できつい描写も多いのだが、それでも楽しく見られるのは芸達者なキム兄が演技力も含めて本当にうまいことスパイスになってくれている。
それこそ「シンケンジャー」でいう梅盛源太のようなコメディーリリーフなのだが、同時に忍者としてもそれなりに切れる面があって頭が悪いとかバカとかではない。
信長が女の刺客を放った時も的確に見抜いて最善の策を立てていたし、ラストで死ぬ時も予想外の相手だったとはいえ、単なる騙し討ちではなく返す刀の相討ちというのも素晴らしかった。

他にも寺島進や劇団ひとりをはじめとする様々なたけし軍団が大盤振る舞いで参戦してくれたのがファンとしては嬉しい限りだが、でもMVPはやはり木村祐一である
もともと彼は放送作家やお笑い芸人としてマルチに活躍していた凄腕のタレントなのだが、本作でまた役者としても頭角を現してきた逸材なのではないだろうか。
私が北野映画が大好きなポイントの1つはまさにこれであり、蓮實重彦や黒沢清も言っていたけが北野映画はとにかく「役者がいい」のである、演技の上手い下手ではなく。
他の映画やドラマだとイマイチ個性を発揮しきれない役者であっても北野映画だとしっかりしているのだが、本作の木村祐一もめでたく仲間入りを果たしたわけである。

あとは相変わらずやられ役の遠藤憲一や信長の首を刎ねた南蛮渡来の黒人役者もカット数は少ないのに妙なインパクトがあって、これもまた北野映画の歴史の蓄積を感じさせるものだろう。
『その男、凶暴につき』ではどちらかといえば武は新人の立場に近く、平泉成や白竜なども駆け出しの人が多かったから、どちらかといえば若さというか熱量と暴力で押し切っていた
それが本作になるともはやベテランの風格が滲み出ていて、北野武が客体でいられるのも周りの役者たちがしっかり育ってきたからではないかという万感の思いもある。
それもあって、私は思わず最初の5分で映像美とともに涙が出かけたのだが、逆にいえば北野映画を初期から見続けている人でなければこの良さは味わえないだろう。

殺陣の臨場感はなかなかの迫力

殺陣の臨場感に関してはどちらかといえば本作のメインの見所という感じではないが、それでも黒澤明の時代劇への本歌取り・オマージュがたくさん散りばめられている。
冒頭と終盤の落城はそれこそ『蜘蛛巣城』『乱』を想起させる壮大なスケール感があったし、集団戦も引きの画の迫力からだまし討ちまで、小さなアイデアが詰まっていて面白かった。
特に後ろで控えている殿方のところに来たと思ったら実はそいつが伏兵で即座に切り捨てるところなどはありそうだけど中々見ないものだったので、上手く意表を突かれたなという印象だ。
そして何と言っても首を切り落とした時の「取ったどー!」という絶頂からの油断して即座にやられる様の見せ方が素晴らしく、心の中で大笑いしてしまう滑稽さが滲み出ている。

改めて本作の殺陣を見ていて思ったのは、北野映画の暴力は単に生乾きで突発的であるというだけではなく「ユーモラス」であるというのが一番の特徴だということだ。
『座頭市』も撮っている北野監督は思ったはずである、どんなに頑張ったところで世界の黒澤が築き上げて来た時代劇の神話性に勝てるわけがないいうことを。
だからこそ、本作は黒澤時代劇の本歌取り(ゲリラ豪雨・大掛かりな落城の炎・泥臭い殺陣)ををしながらも、所々に笑いの攻撃性を秘めているのが素晴らしい。
それがパターン破りに繋がるというだけではなく、これから時代劇を作る人達にとっての表現の幅をも広げてくれることに繋がるからだ。

本作はどちらかといえば政治劇というか、大河ドラマ寄りのドラマがメインなので、必ずしも殺陣を見せ場として設定しているわけではないかもしれない
しかし、だからと言って群衆の戦いだったり動きだったり、ああいうのはCGでは決して出すことができない迫力と運動性があるもので、これを令和のいま見られることに感謝申し上げる。
「CGはダメだね」と苦言を呈していたように、今だと予算の都合とか言って集団戦の殺陣をCGで済ませることもできるし、現に今のハリウッドならそうやって済ませるだろう。
しかし、そこをあえてきちんと生身の人間を使って1からセットを作ってやるというこのこだわり抜いた職人技に敬意を表するし、こういう手間暇を惜しまない作品は残るだろう。

本当にCGばっかに頼った薄っぺらい画しか作れていないどこぞの「キングオージャー」の作り手にも爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだが、こういう肉感と臨場感ある生々しい殺陣は本当に久々に見た
CGやデジタル技術を使えば、確かに最初に見たときは「おお!すげえ!」とは思うかもしれないが、やっぱりアナログに作られたものに比べて画としての深みや重み・味は簡単に薄れてしまう。
小道具といい衣装といい、本当に細部にまできめ細やかに作られていて、決してメインで見せたい場面じゃなくても何か残る面白さがあって、それが私を刺激してくる。
だから、作品全体としてお世辞にも抜きん出ているとはいえないまでも、まだまだ伸び代はあるというポテンシャルをすごく感じさせるものであった。

とにかく続編に期待

最後に本作を締めくくるなら、とにかく「続編に期待」ということであり、映画単品として見たときはどう高く見積もってもB(良作)以上には評価できない。
しかし、だからダメだというのではなく、本作はあくまでも次回作以降に大きく飛躍していくための基礎土台を構築した「」の段階であると私は見ている。
そんな中にも数々の仕掛けは凝らされていたし、ボルテージはやや低いながらも1つ1つのショットや構図など、細かい職人技がとにかく嬉しい驚きとファンサービスに満ちているのだ。
後はどこまで本シリーズを「北野映画」のイズムとしてモノにしてS(傑作)に昇華できるかが見どころであり、それを見越して今回はやや厳しめの点数となった。

北野映画の本気はまだまだこんなものではない、そう感じさせた「スタート」の一作である。


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