「東日本大震災から11年」に寄せて
今なお痛苦の中にある方々、またこの時期を迎えたがゆえにそのような心境になってしまっている方々にも、明日を生きるための平安と励ましが与えられるようにお祈り致します。
noteを始めてから最初の3・11は昨年に迎えていましたが、税務署バイトの忙しさゆえにこのテーマについての記事は出せていませんでした。そして、今回も思い通りの記事―3・11に関連する個人史―は出せません。来年こそは出せることを願いつつ…
それでも最低限のものは出したいと思い、書くことにしました。主旨は「原発はそぐわない」ということです。これに至った経緯はいくつか挙げられます。
まず、昨年4月に新潟県 柏崎市に転居し、世界最大の原発である東京電力柏崎刈羽原発の「地元住民」になったことです。その前後にトラブル判明が相次ぎ、キリスト教団体から声明が出るほどでした。
そして、これは毎年行われているようですが、初めて目にする人間にとってはおぞましいもので…
そして、最近の話題といえば、言うまでもなくこれです。
これまでになくリアリティをもって、原発の安全保障上のリスクが問題化しているのではないでしょうか。それが起きたのがこの時期、というのも何とも象徴的だなぁと思ってしまいます。
また、ウクライナ情勢悪化による原油高を受けて、政界ではとんでもないことが起きています。
あまりにも現実的ではないと思いつつも、こういう時期にやることか…と思ってしまいます。
もう一つ個人的なことを加えると、後期末のレポートの中で原発問題に触れたものがありました(自由課題式のものです)。神学校の授業のレポートなので、言うまでもなくキリスト教の視点に立つ内容になる訳ですが。
特に参考にした文献を1冊ご紹介します。10年余を経たアップデート版を読んでみたいなぁと思ってしまいますが。
そのレポートの本論で何を書いたかを簡単にまとめると、こうなります。(あまりにも簡単すぎますが…)
・事故が起きればなおのこと、日常的な運転でも決して看過できないことがいくつも起きる
いわゆる核のゴミと排熱の問題に言及しました。後者については、3・11発生の前年に小出裕章さんが寄稿されていた記事から引用しました。
原発温廃水が海を壊す|時事オピニオン|情報・知識&オピニオン imidas
・立地自治体への交付金等、麻薬にも例えられる財政的呪縛
・原発を扱う人々、それを論じる人々を含むすべての人間が不完全な存在(キリスト教的に表せば「罪人」)である
ただし、上記文献に所収されている栗林輝夫先生の論考「原発と神学」の中で、世界的な神学の潮流はスリーマイル島原発事故(1979年)が起きるまで原子力を称賛する論調が優勢だったことが紹介されています。
とは言え、盲従的に脱原発を勧めるべきだと言いたい訳でもありません。代替エネルギーとして期待されている再生可能エネルギーを巡っては、問題視されていることもあります。太陽光発電施設建設のための乱開発や、風力発電所の周辺環境への影響などです。
こういったことにもフラットな視点を持ちつつ、すべての命と共生する生き方が大切ではないかと、この日を迎えて改めて感じています。
幸いにして、キリスト教界の中でも、また日本社会全体としても、この10年間で環境に対する意識は確実に高まっているのではないかと思います(現在推進されているプラスチック削減政策は本来的なのかと今でも思いますが…)。この流れはぜひとも深化・充実していってほしいと思います。
3/26追記:前夜に1時間のトーク配信がありましたので、ご参考にどうぞ。
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