不登校という現象について

知り合いの人が「#不登校は不幸じゃない」という運動に関わっています。

僕も、もちろん不登校それ自体が不幸だとはまったく考えいません。もし仮に「不登校を不幸だ」と感じてしまうのだとすれば、そこにはそれを不幸だと感じさせる前提があります。

その前提はなにかと言うと「将来必要な最低限の知識は学校という場で学ぶことこそが正しいやり方で、それ以外のやり方は、正しくない」という前提です。


そうした前提があるからこそ「不登校になった人(自分)はダメな人間である」という思考様式になってしまいます。

これは、親にも、社会にも、そして子供たち自身の中にもあります。

では、なぜ「将来の社会生活に必要な知識は学校で学ぶことが正しいやり方だ」という前提=考えが広まったのでしょうか。

それは、過去にはそうした知識を学校という場で学ぶことに一定の合理性があったからです。

近代的な学校制度は、そもそも産業界からの要請で作られました。
産業革命が起こり、大量の工場労働者が必要だったからです。
同じ場所に集まって、一つの号令で、一斉に必要な作業を遂行する人材が必要だった。
そうした人材をつくるために、同一のカリキュラムを一斉に教えるという授業形態が生まれます。これは、同時に、軍事力を強化する必要があった19世紀の国民国家が「兵隊」としてほしかった人材でもあります。(日本の場合は、どちらかというと富国強兵と「日本国民創出」的な観点から現在のような学校教育が必要とされました。)

また産業面と軍事面だけではなく、社会的環境面から言っても「学校」で学ぶことは合理的でした。

まず基本的に当時の大人たちは文字の読み書きができません。(明治生まれの僕の祖母は読み書きができませんでした。)

また、書物も非常に貴重なもので、誰もが簡単に手に入れられる環境は存在していませんでした。

そして、多くの大人たちは自分の職業に関して必要な知識は子ども達に教えられますが、それは農作業や商いをおこなう現場で必要となる知識以上のものではなく、算数や理科などの体系的な知識を教えるということはできませんでした。

近代社会は、職業選択の自由があり、農家の子が農家にならない可能性がある社会です。そこで農業の事だけ学んで、仮に農家ではない選択をするとすれば、将来非常に不自由な社会生活を送らなくてはいけない可能性が高い。

こうしたことから、近代黎明期においては「学校」という場で、将来の社会生活に必要な知識を学ぶのが非常に合理的でした。

しかし、現代社会は、すでに第二次産業がメインの社会でもなく、軍事力をそれほど強化していく必要もなく、たくさんの本が安く手に入り、図書館でならタダで多くの本を読むことができる。そして、インターネットの登場により、Webサービスを利用して安価に、これまで学校で学ばざるをえなかった知識を家庭でも、どこでも学べる環境が整っています。

かつてと比べて、学校という場で将来必要な知識を学ばなくてはいけない必然性はかなり低いわけです。

言い換えれば「学校という場で将来の社会生活に必要な知識を学ぶことが正しいやり方だ」という考え方の方こそが疑問視され、それを当然視していることこそが「ちょっとおかしいんじゃね?」とならなくてはいけない。

そうなっていないのは、もちろん僕ら大人が、知識を学ぶ場として、子どもたちに学校とは違う場所や制度を構築していないことに大きな原因があります。

しかし、少なくとも、たかだか学校に行かないくらいで自分がダメな人間だと思わなくてもいい、ということを、社会の変化に裏打ちされた根拠から意味づけしてあげ、不登校の子ども達の心理的な負担を軽くしてあげるぐらいのことは、もっとやってあげていいと思います。

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