『「なんでもいい」わけがなくない?』
「なんでもいい」という言葉がとにかく嫌いだ。
口にするのも嫌だし、聞くのも嫌いだ。耳にすると無性に腹が立ってくる。
嫌いな言葉や表現は多々あるが、今のところの人生ではトップクラスに嫌いな言葉に堂々のランクインを果たしている。
なぜ嫌いなのか。理由は極めてシンプルだ。
「なんでもいいわけ」がないからである。
例えばこの言葉は「ごはん何にする?」的な話題で特に耳にすることが多いが、なんでもいいと言う人が本当になんでもよかったためしなんてない。少なくともぼくの経験上はない。だいたいの場合は食べたくないものが絶対に存在する。食べたいものはないのかもしれないが、食べたくないものは絶対的に存在している。もはや暴論だが、「じゃあそのへんに生えてる雑草でもむしって食おうぜ」と言うと絶対に嫌だと言う。なぜそんなものを食わなくちゃいけないんだと怒りさえするだろう。なんでもいいと言っていたにもかかわらずだ。
ぼくは食事に対してあまり強い関心を持っていないので、毎日同じメニューが続こうが、一回ぐらい食事を抜こうが気にならない。だけど「何食べたい?」という話題に対しては絶対になんでもいいと言わないと決めている。とりあえず真剣に自分が食べたいものを考えるし、なければ食べたくないものを考える。とにかく何がなんでも回答はすることにしている。でも食事に対してもともとあまり関心がないからこの時間はかなり疲れる。そしてなんでもいいと言う人に苛立つ。なぜならそう言うほとんどの人がよくよく話を聞くとぼくよりもはるかに食事への関心が強いからだ。こんなのは理不尽だ。
だからというわけでもないけれど、なんでもいいという言葉にはとても暴力的な雰囲気を感じる。
これは100%偏見だが、この言葉を平気で使う人には、自分の脳を1%も使わず、他人に考えさせよう、提案させよう、決断させようという無意識的な甘えのようなものを感じるのだ。人間は決断に一番エネルギーを消費する生き物らしいので、それを他人に全力でぶん投げるに等しいこの言葉は思考における暴力だ。そして何より、この言葉を放った本人をも虐げている。
どれだけ関心がない分野だろうと、本当になんでもいいことなんて世の中にはほとんどない。これしかないという正解はなかなか見つからないかもしれないけれど、これじゃないんだよな、という答えや感覚は至るところに転がっている。そういった自分の中での「何かが違う感」に目を向けず、なんでもいいという便利な言葉で一蹴してしまうことは、ディスカッションの発展だけでなく、自分自身を知っていくことさえも阻害してしまう行為であるような気がしてならないのだ。思考を止めて考えないこと、考えようとしないことは省エネルギーではなく、死に向かってアクセルを強く踏み込むようなものだから。
と、なんだか小難しい話をしてしまったが、別にそういう精神論を説きたいわけではない。
繰り返すが、「なんでもいい」わけがないからムカつくのだ。