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もうひとつの「よい/わるい」 ~人と比較しないことの大切さ~

前回、「よい/わるい」という見方で人や自分を裁くことは、人を不幸にするということを書きました。しかし、「よい/わるい」を人の心からなくしてしまうことは、まず不可能です。今回は、「義務(そうしなければならない)」から出てくる「よい/わるい」ではない、もうひとつの「よい/わるい」を紹介したいと思います。


スピノザの考える「善」と「悪」

17世紀のオランダの哲学者にベネディクトゥス・デ・スピノザという人がいます。この人が、その主著の『エチカ』という本の中で、こんなことを書いています。

「善あるいは悪と呼ばれるものは、(中略)われわれの活動力を増大させあるいは減少させ、促しあるいは抑えるものである。そこで、(中略)あるものがわれわれを喜ばせあるいは悲しませることを、われわれが認知するかぎり、そのものを善あるいは悪と呼ぶ。」

(『エチカ』第4部定理8証明より(『世界の名著30』中央公論社、274ページ))

簡単に言えば、わたしに喜びをもたらし、わたしの活動能力を増大させ促すものが「善(よい)」であり、わたしに悲しみをもたらし、わたしの活動能力を減少させ抑えるものが「悪(わるい)」だと、わたしは考えるとスピノザは言っているのです。(スピノザの言う「善」や「悪」が、社会における道徳とか、神の意思とかに関係ないことに注意してください。)スピノザの言う「活動能力」とは、わたしの言葉で言えば「生きる力」ということになります。あなたを喜ばせ、あなたの生きる力を伸ばすものが、(あなたにとって)「善(よい)」であり、あなたを悲しませ、あなたの生きる力を減らすものが、(あなたにとって)「悪(わるい)」だということになります。ここで大事なことは、何がその人の活動能力(生きる力)を増大させるかは、人によって違うということです。わたしにとって、「善(よいもの、よい行為)」が、あなたにとっては、「悪(わるいもの、わるい行為)」であることも、充分ありうるのです。

このように書くと、スピノザは社会的な「善/悪」を考えなかった「個人主義者」なのだろうと思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、それは誤解です。スピノザは『神学・政治論』や『国家論(未完)』も書いており、社会や政治のことに常に強い関心を持っていました。当時のオランダやヨーロッパ社会において、人が、自分の「ほんとう」と思うことをうかつに言ったり、したりすれば、たちまちその立場や命が危なくなることを、彼は自身の経験からよく知っていました。そのような社会は、本来、誰にとっても「よいもの」ではないはずです。なのに、なぜそのような社会が目の前に強固な力を持って存在しているのか。それでは、どのような社会が「よい」のかは、当然、この『エチカ』の「善悪」の定義の先に出てくる現実的な問題です。

「責任(そうしないではいられない)」の内容は、ひとりひとりみんな違う

このところnoteに、「義務(そうしなければならない)」と「責任(そうしないではいられない)」を区別するのが「よい」ということを何度か書いてきました。(「『義務』から『責任』へ ~人権尊重の観点を変える~」などをご覧ください。)こう書く場合の「よい」は、そうする方がわたし(あなた)の「活動能力(生きる力)」は増大し、「喜び」をもって生き生きと生きられるということです。一般に、「義務(そうしなければならない)」の内容は、道徳や法律や常識に基づくものですから、誰に対しても基本的に同じ(ひとつ)です。しかし、「責任(そうしないではいられない)」の内容は、ひとりひとりみな違います。「本当によいもの、正しいものは、ひとつのはずだ」というわたしたちの中の抜き難い「思い込み」が、「義務」を過度に強調し、人の「生きづらさ」を生んでいきます

子どもの成長をどう評価するか

このことを、今回は「子どもの成長をどう考えるか」という観点から考えてみたいと思います。まず、「学校などにおいて、その子の学習面の成長をどうやって評価するか」で考えてみます。成長の評価は大きく分けてふたつあります。その子が他の児童・生徒と比べて、また、教員が設定した「学習到達目標」等に比べて、かつてはどの位置にいたのか、そして、今は、その位置がどう変わったかで判断する評価方法(A)と、その子がかつて何ができて、何ができなかったのか。それが今は、何ができるようになったのかで判断する評価方法(B)のふたつです。一見すると、Aは、その子の外部にひとつの基準があるので「客観的な」評価のように思えます。Bはその子の中だけでの評価なので、「客観性」がないように思えます。

このふたつにはそれほどの違いはないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、実際には教員から学習が遅れていると見える子に対しては、ふたつの評価がもたらすものはだいぶ違ってきます。例として適当かどうかはわかりませんが、たとえば小学校3年生の時、他の子が分母が同じ分数どうしのたし算や引き算ができているのに、Cさんだけができなかったとします。分子と分子、分母と分母をたしてしまったりするのです。小学校5年生になって、他の子が分母の違う分数のたし算や引き算ができるようになった時に、Cさんは分母が同じ分数どうしのたし算や引き算は完璧にできるようになりました。

その子自体の成長を評価するBの評価であれば、教員は心からCさんをほめますが、他の子や到達目標と比較するAの評価であれば、教員は一応ほめた後、「でも他の子はもう分母が違う分数のたし算や引き算ができるようになっているんだから、遅れてるよ。早くそっちもできるようにしないとね」とひと言つけ加えたりすることになります。どちらも成長の評価としては間違ってはいませんが、その子の「活動能力(生きる力、この場合は「学ぶ力」)」が増大する評価は、もちろんその子自体の成長を評価の基準とするBの評価方法です

小学校5年生までには、これができなければならないというのは、外側からの強制(いわば「義務」)です。それに対して、できなかったことができるようになりたいというのは、その子の内側からの欲求(いわば「責任」)です。このふたつは、実はまったく別のものです。ところが、同じものだと思っている人があまりに多いのです。
子どもはなぜ成長するのでしょうか。成長したい(できないことができるようになりたい、おとなのようになりたい)と思うからです。この「思い」が、スピノザの言う「活動能力」であり、わたしの考える「生きる力」です。この子どもの持っている「力」をつぶさずに伸ばすこと以外に、実は教育のやることはないはずなのですが、実際に、学校で行われている評価の中心はどうしても前者のAの評価方法になっています。そのようなAの評価方法の支配に、さらに拍車をかけているのは、国が毎年行っている全国学力テストです。

子どもを、きょうだいと比較しないことの大切さ

次に、家庭の中での子どもへの評価を考えてみましょう。子どもを育てる上で、絶対やらない方がいいとわたしが思うことがひとつあります。それは、その子を「きょうだい(兄弟姉妹)」と比較することです。「お姉ちゃんは、こうじゃなかったのにあなたは」とか、「弟は○○がだめだけど、あなたはいいね」というやつです。きょうだいはどちらも親にとってあまりに身近な存在なので、どうしても親はきょうだいを比較してしまいますが、口に出して言わないのはもちろん、子どもはすぐに感じ取りますので、心の中でも思わない方が「よい(その方が、その子の活動能力(生きる力)を増大させる)」のです。たとえ、きょうだいであっても、別々の(特性を持った)人間なんだと考えた方がよいのです。他のきょうだいがどうであれ、その子が以前できなかったことができるようになった時は、心からほめ、以前できたことを、しなかった時は、なぜしなかったのかを聞いてください

人との比較は、おとなでさえも「生きる力」を奪う

もちろん、きょうだいに限らず、自分の子を他の家庭の子と比較することも、しない方がよいのです。子どもに限りません。おとなであっても、職場などでも本当は他の人との比較はしない方がよいのです。その人の変化だけに注目し、それに応じた評価と指導をした方が、その人の活動能力(「仕事をする力」)は、たぶん伸びるのです。(自分が、上司から他の人と比較されて指導された場合(「他の人はみなこうしているのに、なぜあなたはしないのか」等)と、自分のことだけを取り上げて指導された場合(「以前、あなたはこうしていたのに、なぜ今はしないのか」等)とを比較してみてください。どちらの方が、おだやかな気持ちで相手の言うことを聞いて、その理由を説明できますか。どちらの方が、これからの仕事に向けてあなたの「やる気」が出るでしょうか。

わたしができる「よいこと」は何か

人権を尊重するということは、(わたしやあなたを含めた)ひとりひとりの「活動能力(生きる力)」を増大させることです。それだけではありません。もしもこの世に「よいこと(善いこと、良いこと)」があるとすれば、スピノザにならって、(わたしやあなたを含めた)人の「活動能力(生きる力)」を増大させること以外にはないのではないかとわたしは思っています。

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