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「義務」の強調は「責任」を忘れさせる ~人権尊重は自らの「責任」を認めること~

道徳や法律やマナーから生じてくる、人の「義務(こうでなければならない)」を強調することは、一見、よいことのように思えますが、それは結果として「責任(こうしないではいられない)」を忘れさせることがあります。

一般に「義務」と「責任」は同じような意味で使われることが多いのですが、わたしは「義務」は「外側(社会や集団)からの強制」で、「責任」は「自分の内側からの思い」として区別した方がよいと思っています。(このように「義務」と「責任」を区別する理由については、「人権問題における「責任」は、思いやりや道徳とは関係ない」などをご覧ください。)


「見つからなきゃいいんだろ」はどこから生まれるか

孟子は性善説を唱えましたが、その思想的な先生である孔子は、『論語』の中で、こんなことを話しています。

民を法律で導き、刑罰できちんとさせようとすると、民は刑罰をまぬかれさえすればよいと考え、恥を忘れてしまう。民を徳で導き、礼できちんとさせようとすると、民は恥を知り、さらに正しくなる。
(之(これ)を道(みち)びくに政(せい)を以(もつ)てし、之を齊(ととの)ふるに刑を以てすれば、民(たみ)免(まぬか)れて恥無し。之を道びくに徳を以てし、之を齊ふるに礼を以てすれば、恥有りて且(か)つ格(いた)る。)

(『論語』為政編)

ここで問題にしたいのは、前半部分です。その内容を、わかりやすく言い換えてみれば、「法律をつくってそれに人々をきちんと従わせようとし、従わない者はきびしく罰するようにすれば、一見うまくいくように思えるが、実際には、そういう社会では、人は悪いことをしても見つからなければよいと考えて、恥を忘れてしまう」ということでしょうか。ここで孔子が言っている「恥」は、わたしの言葉で言えば、「責任」ということになります。孔子はもう2500年も前の人ですが、ここで孔子の言っていることは、今の日本にもしっかりあてはまることだと思います。

自分の義務さえ果たせば、あとは何をしてもいい?

現代においても、われわれは、「道徳、倫理、法律、常識、マナー(人としての「当たり前」)」から出てくる、さまざまな「義務(こうでなければならない)」を抱えて生きています。しかし、「道徳、倫理、法律、常識、マナー」がきちんと守られていない時、われわれは人としての「義務(こうでなければならない)」を周りに強調すればするほど、それだけ世の中はよくなるように思いがちです。しかし、実際には、「義務」をあまりに強調すると、「じゃあ『義務』さえ果たせば、あとはなにをやってもいいんだ」という考えを生んでしまうことがあります。具体的には、「法律さえ守っていれば、あとは何をしてもいい」とか、「それは法律に書いてあるの? 書いてなければ、やる必要はないよね」とか、「税金は払っているんだから、人にあれこれ言われる筋合いはない」とか、「要するにバレさえしなきゃいいんだろ」という考え方を、世の中にはびこらせ、強力なものにして、本来、人が自分の内に持っているはずの「責任(の心)」を忘れさせてしまう可能性があります。

「差別禁止法」の必要性と限界

もちろんだからと言って、わたしは差別を禁止する法律はつくらない方がいいと言いたいわけではありません。日本もイギリスなど他国の例を参考にして、日本独自の差別(部落差別等)の禁止も盛り込んだ一般的、包括的な「差別禁止法」をすみやかにつくるべきだと思っています。ただ、差別禁止法をつくればそれで問題が解決するわけではありません。差別禁止法の制定を求めている方たちはよくご存知ですが、法律をつくればそれで差別がなくなるわけではありません。人の「義務(この場合、「それをしてはならない」)」を法律で明文化しても、実際には、法律は、人の「行動」、「責任」(この場合、「それをしようとは思わない、それと逆のことをしないではいられない」)」には結びつかないからです。「差別禁止法」の制定は、あくまで差別をなくすための必要な一歩です。

「義務」と「責任」の間にある大きなギャップ

この「義務(それをしてはならない(禁止))」と、「責任(それをしようとは思わない、逆のことをしないではいられない(思いや行動))」の間の大きなギャップに気づかないと、「義務(禁止)」の過度の強調はただ形だけを重視したものとなり、本来「義務(禁止)」の背後にあったはずの「責任(思いや行動)」の空洞化を招きかねないのです。

わかりやすい例として、「差別的な言葉」を考えてみましょう。差別的な言葉はもちろん許されないものなのですが、ただ「その言葉は差別になるからだめだ」というような「形としての禁止(義務)」にこだわってしまうと、一方では「わかったよ、とにかくその言葉は使わなきゃいいんだろう。使わねえよ」という居直りや、もう一方では「悪気があって使ったわけじゃないのに、そこまでひどく非難されるのか(そんなのは言葉狩りだ)」とかの被害者意識を招くことがあります。

このような場合は、「義務」の強調が、「責任」の自覚をもたらさず、逆に「義務」への反発や「責任」の放棄を招いていることになります。形(使うか使わないか)にだけこだわった「特定の言葉の使用の禁止(義務)の強調」が、本来、人に対してわたしが持つ「責任」(相手につらい思いをさせたくない)を忘れさせたり、放棄させたりしてしまうのです。このように、「義務」の過度な強調が、「責任」の忘却や放棄をもたらすことがあることに気づかないと、人権尊重を進める運動自体が、膠着(にっちもさっちもいかない)状態に陥ってしまいます

強ければ、優れていれば何をしてもいいのか

「責任」の放棄とは、孔子の言葉を借りれば、「免(まぬか)れて恥無し」ということです。つまり、「相手に非難されても法律で禁止されていなければ、関係ない」「いくら非難されても、わたしがこの社会で安泰ならば、相手が苦しんでいようが関係ない」という考えになってしまいます。わたしは今の日本の社会と、そこに住むわれわれが、わたしも含めて孔子の言う「免れて恥無し」にどんどん近づいているような気がしてなりません。相手の「義務」ばかりを見て、自分の「責任」を忘却する事態がどんどん進んでいる気がします。その根底にあるのは、「強い者がしたいことをして何が悪い。嫌なら、自分も強くなればいい」という能力主義的な考え方、新自由主義的な考え方です

「責任」は知らないうちに放棄(忘却)できる

「義務」と「責任」の大きな違いは、「義務」は果たさなければ罰せられますが、「責任」は放棄(忘却)しても罰せられることはない点です。違う言い方をすれば、「義務」は忘れたり無視したりすれば、罰としての不利益がわが身に降ってきますが、「責任」はその人が感じない限り、その人にとっては存在しないと同じなのです。

人権侵害や差別とは、自分の「責任」を放棄(忘却)すること

人権侵害や差別とは、「強い立場」の人が、自分の「責任」を放棄(忘却)して、相手(「弱い立場」の人)に、自分が考える「義務(正しさ)」の実施を一方的に要求することから起きます。その要求とは、ひと言で言えば、「わたしに嫌な思いをさせるな」ということです。わたしに嫌な思いをさせないために、子どもも、女性も、被差別部落の出身者も、外国人も、障害者も、高齢者も、性的少数者も「おとなしく、わたし(たち)の言うとおりにしていろ」というのが、その要求(強制)の中身です

人権侵害や差別を受けている人(たとえば、パワーハラスメントを受けている人)は、当然、自分たちへの理解や、配慮や、尊重や、支援を加害者に訴えますが、多くの場合、それらを相手(加害者)の自分(被害者)への「義務」(そうしなければならないこと)として訴えます。しかし、強い立場の相手にとっては、それは自分の「義務」とは感じられない(「なんでそんなことまで、わたしがしなきゃならないんだ」と思う)ので、加害者は拒否します。

人権尊重とは、自らの「責任」を認めること

ここで被害者は、本当は、人権尊重を相手の「義務」としてではなく、相手の「責任」として訴えた方がよいのですが、相手にそのようなこと(理解や配慮や尊重や支援)を「責任」として自覚させることはきわめてむずかしいので、どうしても「義務」として訴えてしまいます。しかし、繰り返しになりますが、相手にとってそれらは「義務」とは感じられないので、相手は頭から拒否します。場合によっては、「それはあなたのわがままだ、甘えるな、勝手なことを言うな」と逆に非難、攻撃されます。こうして、人権侵害における加害者と被害者の心の溝は、ひたすら大きくなっていくのです。

たとえば、わたしたちのもっとも身近にある「パワーハラスメント」という人権侵害を、少しでも解決に近づけためには、人権尊重を「義務」としてではなく、「責任」ととらえる視点がその第一歩になるのではないかと今は思っています。


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