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人権問題における「責任」は、思いやりや道徳とは関係ない

前々々回、「力には、必ず責任がともなうのです。人の社会において、『強い立場』の人は『弱い立場』の人に対して、常に責任を持たねばなりません」と書きました。ただ、ここで言っている「責任」は、思いやりや、道徳や良心に基づくものではありません。もちろん、現実には「責任」感は「義務」感などといっしょになっていることが多く、そのこと自体はむしろ自然なことです。しかし、差別や人権侵害の解決を考える上では、法律や道徳に基づく「義務」と、力の関係に基づく「責任」とを区別することが、非常に重要です。今回はなぜ、「義務」と「責任」を区別する必要があるのか。なぜ、人権問題の解決においては、「責任」を法律や道徳や倫理とは関係ないものと考えた方がよいのかを考えてみたいと思います。

「責任」は、人と人との「力の関係」から生まれてくるもの

ここでいう「責任」は、人と人との「力の関係」から生まれてくるものです。くわしくは、前々回前回を読んでいただきたいのですが、「強い立場」の人は、自分の持つ力を使って(ある程度)「弱い立場」の人を自分の思うとおりに動かすことができます。このような力の関係があった場合、「弱い立場」の人がつらい思いをしたり、苦しんだりしている時に、「強い立場」の人は、本来ならば、そのつらさや苦しみを和らげる行動をします。やろうと思えば自分はそうできるのに、それをすれば相手は喜ぶのにそれをしなければ、その結果として人は「負い目(やましさ)」を感じるからです。ここで、あえて「本来ならば」と書いたのは、新自由主義の考え方が強い現代においては、そうなっていないことがあまりに多いからです

人権尊重は人としての「義務」なのか

以前、「目の前の人に人権尊重を要求できるか」などで行った【思考実験1】をもう一度、取り上げてこのことについて考えてみます。【思考実験1】はこのようなものでした。

【思考実験1】車いすでしか移動できないAさんが、いつものように車いすで町に買い物に出かけました。しかし、自分が入ろうとした店の前に高さ10cmほどの段差があり、自分の力ではその段差が乗り越えられないため、後ろから歩いて来た二人の男性に、「さあ、わたしの車いすを持ち上げて、段差の上にのせなさい」と言ったらどうでしょうか。「わたしには行きたいところに行く権利がある。あなたたち二人には、やろうと思えばすぐに車いすごとわたしを簡単に持ち上げるだけの力がある。だから、あなたたちはわたしの人権を尊重して、わたしの車いすを持ち上げなければならない」と主張したら二人の男性はどう思うでしょうか。(あなたが、そう言われたらどう思うか考えてみてください。)

このようなAさんの主張、要求に対して、「もちろん、こんなことは実際には起きませんが、もしそんなことを言われたら、たぶん二人の男性は、多くの場合、当惑したり、カチンときたりするのではないかとわたしは思います。『そういう言い方はないだろう』とか、『何様のつもりだ』とか、『要求(命令)するんじゃなくて、お願いしろ』と怒り出すかもしれません。」と、わたしは書きました。(くわしくは、「目の前の人に人権尊重を要求できるか」をご覧ください)

なぜ、通りかかった「二人の男性」は、Aさんの主張に怒り出すのでしょうか。それは、Aさんが、自分より「強い立場」である「二人の男性」に、「わたしの車いすを持ち上げることが、あなた方の『義務(そうしなければならないこと)』だ」と主張しているからではないでしょうか。わたしの考えでは、車いすを持ち上げることのできる人(Aさんに対して、「強い立場」の人たち)が、Aさんの車いすを持ち上げることは、その人たちの「責任(そうしなければ、後で負い目を味わうこと)」ではありますが、「義務(そうしなければならないこと)」ではありません。自分では「義務」とは思えないものを、あなたの「義務(そうしなければならないこと)」だと要求されたら、要求された方はカチンときて、自分たちの「責任(そうしなければ、後で負い目を味わう)」も忘れて、相手を無視して立ち去ってしまうかもしれません

人権尊重を「義務」とすることのむずかしさ

「弱い立場」の人は、つらさや苦しさを感じる時、「強い立場」の人に、自分(たち)への配慮や支援等を、相手の「義務(そうしなければならないこと)」として、主張したくなります。しかし多くの場合、その主張はとおりません。なぜならば、そうするかどうかの決定権は、現実には、最後まで「強い立場」の側にあるからです。「強い立場」にいるということは、決定権を自分の側が持っているということにほかなりません。【思考実験1】で考えれば、Aさんの主張は、「強い立場」の側から見れば、自分たちの持っている「するかしないか」という決定権を頭から無視され、「あなたたちは(嫌でも)そうしなければならない」と強制されているように感じられます。「強い立場」の側である「二人の男性」は、法律的にも道徳的にも「義務」とは思えないものを、あなたたちの「義務」だと主張されたなら、「そういう言い方はないだろう」とか、「何様のつもりだ」とか、「要求(命令)するんじゃなくて、お願いしろ」と怒り出すかもしれません。

今の日本では、人権尊重は「努力義務」?

一般的に多くの日本人は、段差が越えられなくて困っている車いす利用者がいれば、「できれば助けた方がよい」(努力義務)と考えるのではないでしょうか。言い換えれば、「助けなければならない」(義務)とか、「助けるべきだ」(当為)というところまでは、思っていない人が多いのではないでしょうか。ですから、【思考実験1】のようなことがあれば、通りがかった日本人は、仕事で急いでいれば、「すみません」と言って立ち去るかもしれませんし、Aさんの言い方に腹を立てて、無視して立ち去るかもしれません。日本においては「車いすの利用者を助けること」は、法律的にも、道徳的にも、「義務」とまではなっていませんので、一般的にわれわれは、立ち去った人を非難したり、罰したりすることはできませんし、立ち去った人もそれで、道徳的な良心の痛みを味わうことはあまりないでしょう。

しかし、人権尊重の「責任」はなくならない

ですから、立ち去った人の多くはその日、家に帰れば、そのようなことがあったこと自体を忘れているかもしれません。しかし、中には家に帰って、そのことを思い出し、「(あの車いすの人の命令的な言い方には、たしかにカチンときたが)自分は助けようと思えば助けられたのだから、助けた方がよかったかもしれない」と思う人も、わずかではあれ、きっといるはずです。この人が感じる「後悔」、「負い目」、「やましさ」の中身こそが、わたしが「責任」と呼びたいものです。この「後悔」、「負い目」は、法律から出てきたものではありません。また、【思考実験1】のような場合、多くの日本人の道徳意識は、「頼まれればやらなければいけないが、命令されてまでやる必要はない」というものでしょうから、この「後悔」、「負い目」、「やましさ」は、道徳意識から出てきたものとも言えないでしょう。では、これはどこから出てきたものなのでしょうか。強いて言えば、この人の中にある「良心」から出てきたものと言うことはできるかもしれません。しかし、この場合の「良心」の出所は、道徳や倫理ではありませんから、仮に「良心」と呼んでみても、通常、「良心」という言葉からわれわれが理解するものとは違います。

「わたしはしようと思えばできた」という「責任」

この「わたしはしようと思えばできた。そして、わたしがそれをすれば、たぶん相手は喜んだ。なのに、わたしはしなかった」ということからくる「負い目」「やましさ」は、「自分の『責任』を果たさなかったこと」から出てくるものです。この「責任」は、道徳や倫理や「(ふつうの意味での)良心」から出て来たものではなく、むしろ、われわれが生きている中で感じる「死んだ家族や友人に対するやましさ」と、根は同じものです。たとえ、自分に道徳や社会常識から見て非難されるような点がまったくなくても、人は近親者や友人を失った場合、必ず「負い目」「やましさ」を感じます。ひと言で言えば、「自分はあの人に何かもっとできた(のではないか)」、「やればできたのに、そして、やればあの人は喜んだろうに、あえて自分はしなかった(のではないか)」という思いです。一見すると、それは道徳や良心から来ているように見えますが、実は、そのような「やましさ」、「悔い」は道徳や良心からくるものではなく、「その人との関係(深い親しさ)」からくるものです。(このことについては、後日、もう少し書いてみたいと思います。)

人権尊重を「責任」として要求すること

一般に「人権尊重」を、「強い立場」の人の「義務」として、「強い立場」にいる人たちに要求しても、あまり成果をあげることはできません。それどころか、場合によっては、逆に強い反発や攻撃を受け、対立を深めることになります。「強い立場」の人は、そんなことをすることは自分たちの「義務(どうしてもそうしなければならないこと)」ではないと考え、拒否してくるからです。そのような拒否に対して、法律的な根拠や道徳的な根拠や倫理的な根拠を述べて、そうすることがあなたたちの「義務」だと言って「強い立場」の人を説得しようとしても、効果はありません。そもそも、「強い立場」の人は、そんなことをする「義務」は、法的にも道徳的にも自分たちにはないと思っているからです。

差別をなくすため、人権侵害をなくすために、われわれができることは、「強い立場」にいる人たち(人権侵害をしたり、それを容認したりしている人たち)に、人権尊重をその人たちの「責任」として要求することです。「義務」として要求することではありません。大事なことは、この「責任」の要求には、法律的な根拠や道徳的な根拠や倫理的な根拠はそもそも不要だということです。その人たちが「強い立場」にいるという事実だけが必要充分な唯一の根拠です。必要なことは、「強い立場」にいる人たちに、自分たちが「強い立場」にいるという事実を認めさせることと、「力には必ず責任がともなう」という事実を認めさせることです。

新自由主義者のウソを許さない

「自分は努力によって今の力を手にした。だから、その力を好きなように使う権利がある。くやしかったら、自分も強くなればいい」という新自由主義者の嘘っぱちにだまされてはいけません。「強い立場」にいる彼らの力は、本来、「弱い立場」にいる人たちから「あずかった(または、だまして奪った)」ものです。(くわしくは、「『義務』から『責任』へ ~人権尊重の観点を変える~」をご覧ください)その「あずかった(だまして奪った)力」には、必ず「責任」がともないます人の作ったうまいものをたらふく食べて、しかし、自分には力があるからと言って、その代金(対価)を払わないことはできません。それは、「恥知らず」のやることです。(なぜ「恥知らず」なのかについては、これも「『義務』から『責任』へ ~人権尊重の観点を変える~」をご覧ください。)


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