「正しさ」よりもわたしとあなたの「幸せ」を〜「正義」から「責任」へ(その14)
前回、20世紀フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズがスピノザの著書『神学・政治論』について書いた言葉、「なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を『もとめて』闘うのだろう」(G・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』平凡社ライブラリー、P23)を最後に引用しました。(注:この言葉が含まれる一文は、この文章の末尾の注1をご覧ください。)
ここでドゥルーズが言っている、「人はなぜ『自らの意志で』、支配者の言いなりになることを選び、なぜそのことに命までかけてしまうのか」ということは、スピノザの生きた17世紀においてだけでなく、20世紀、21世紀においても、真に問われるべき「謎」です。この「謎」が、本当に解かれるならば、われわれは人類の歴史の中で初めて「自由」になることができるはずです。
もちろんそんな大それたことは、わたしにできるはずもないことですが、それでもこの「謎」の一端だけでも解きほぐすことができれば、その分だけ、われわれは「自由」になり、その分だけ人権侵害や差別を防いだり、解決したりすることができるようになると思うのです。
政府のやり方を批判する人をゆるさない人
前回、目の前でだれかが今の政府のやり方をはっきり批判すると、「あなたは、なにもわかっていない」とムキになって、その人の意見だけなく、その人自体を否定しにかかる人たちがいると書きました。なぜこんなことが起きるのでしょうか。
わたしなりの結論を先に書いてしまうと、そのような人は、政府を批判する人が目の前にいるだけで、自分の「自己愛」を脅かされるような恐怖を感じているのです。これまでも述べてきたように、その人の「自己愛」は、その人の信じる「正しさ(正義)」と密接に結びついています。そして、その人の信じる「正しさ(正義)」は、ふつうその人が属する集団(家族、組織、社会、国家等)の「正しさ(正義)」に、その根拠を持っています。
人が信じている「正しさ」は、常に「借り物」
もともと人が信じている「正しさ」というものは、常に「借り物」であって、「自前」ではありません。人はこの世に生まれると物心つく前から、身の回りのおとなの「正しさ」を自分の「正しさ」として育ちます。その後、年とともに次第に仲間や、教室や、SNSの書き込みや、インフルエンサーや、社会や国の「正しさ」を自分の「正しさ」としていきます。その結果、誰の中にも、それまで生きた中で出会ったさまざまな「正しさ」が、幾層もの地層になって残っています。わたしが今、信じている「正しさ」とは、そのような地層の中にあるものを自分なりに再構成したものに過ぎません。
集団の「正しさ」を自分の「正しさ」としてしまうことの問題点
ここで問題になることは、自分が属する集団などの「正しさ」を自分の「正しさ」としてしまうと、その時点で集団からの自分への評価が、そのまま自分の自分への評価になってしまうことです。本来は、集団の「正しさ」を自分の「正しさ」とした(再構成した)のは、自分なのですから、いつでも自分の判断、都合でその「正しさ」を捨ててもいいはずなのに、それができなくなってしまうのです。(昔の言葉で言えば、「他人に下駄を預けてしまった」ようなものです。自分への判断基準を自分以外の人に譲り渡してしまうのです。)
実は、ここからパワーハラスメントや児童虐待も生まれてきます。パワーハラスメントは、職場の「正しさ」やその社会の働くことの「正しさ」を自分の「正しさ」にしてしまい、その「正しさ」を自分が実現できない場合に起きます。児童虐待は社会の「親はこうであるべきだ」という「正しさ」を自分の「正しさ」にしてしまって、その「正しさ」を自分が実現できない場合に起きるのです。(くわしくは、「パワーハラスメントについて考える」や「高校生のための人権入門(12) 児童虐待について」をご覧ください。)
政府の「正しさ」を守らないと、自分が滅びる
政府を批判する人がいると、ムキになって政府の弁護をし始める人の「自己愛(「わたしは正しい、わたしはすばらしい」)」は、政権与党のあり方としっかり結びついてしまっているのです。そんな人にとって、今の政府与党のあり方を、たとえ部分的にではあれ、目の前ではっきり否定されることは、自分の「正しさ」が間違いだと否定されることになり、「自己愛(自分の存在意味)」そのものが傷つけられることになるのです。
どの国においても、政治の話がとかくこのような言い合いやいがみ合いを引き起こしがちなのは、そもそも政治のあり方というものが、人の持つ生き方、あり方の「正しさ」ときわめて密接につながっているからでしょう。
このようなことは、若者にも起きている
今、わたしが述べたようなことは、一般に、「年をとるほど人は保守的になるものだ」というような言い方で説明されています。もちろんそういう傾向は確かにあるのですが、わたしがここで言いたいことはそれとは本質的に違ったことです。似たようなことは、若い人たちにも同じように起きているからです。たとえば、今、社会に生まれている「DX(デジタル・トランスフォーメーション)信仰」は、人々の間に同じような対立を生んでいます。その場合、「DX」を進めることが文句なしに「正しい」と信じている若者にとって、「DX」を進めようとする「正しさ」を少しでも批判されることは、すぐに自分の「自己愛」を否定される恐怖につながり、批判する人への激しい蔑視や攻撃を引き起こします。
集団などの「正しさ」は、必ずわたしを裏切る
ただ、このような「借り物の正しさ」を自分の「自己愛」と結びつけてしまう一番の問題点は、このような人同士のトラブルを引き起こすことではなくて、そのようにして信じられた「借り物の正しさ」は、必ずと言っていいほど、いつかはそれを信じている人を裏切るということです。
このことを、集団や組織や社会や国の「正しさ」で考えてみましょう。集団などの「正しさ」というものは、常にその集団などの中の「強い立場」の人にとって都合のよい「正しさ(きまりやあたり前)」です。「強い立場」の人にとって都合がよいということは、「弱い立場」の人にとっては不都合なものだということです。(こういうことを言うと、必ず「両方にとって都合のよい『正しさ』があるはずだなどと言い出す人がいます。これは「強い立場」の人とそれに味方する人がつくお決まりのウソです。)
集団の「正しさ」は、「強い立場」の人のためのもの
「強い立場」の人にとって、その集団や社会の「正しさ(たとえば、集団への奉仕や貢献)」を「そうしなければならない、よいこと」として、「弱い立場」の人が信じることは、間違いなく自分たちの利益になります。集団の利益は、結果としてほとんどすべて「強い立場」の人のところに流れ込んでいくからです。
一方で、「弱い立場」の人にとっては、「正しさ(たとえば、集団への奉仕や貢献)」を「そうしなければならない、よいこと」と信じて実行することは、自分は「よいこと」をしているという喜びや満足を生む反面で、必ず苦労や苦痛を伴っています。「集団にとってのよいこと」を実行することは、ほとんどの場合、自分が実際にしたいことをがまんして、それをすることになるからです。このような矛盾(二律背反(アンビバレンツ))は、家族や部活動や職場など、人のあらゆる集団の中で起きていることです。
以上述べたようなことは、親と不登校になりかかっている子の関係で考えていただくと、身近で一番わかりやすいかもしれません。もちろんその場合、「集団」は家族で、「強い立場」は親で、「弱い立場」は子どもになります。
なぜ、不登校になった子が非難されるか
苦労や苦痛を伴うのに、なぜ人は自分がしたいことをがまんし、「そうしなければならない」ことだと思って、「自分から」そうしてしまうのでしょうか。なぜ、苦痛が喜びを上回った時、自分の思いに従って自分の生き方、あり方を選ぶ(これが「自由」ということの中身です)ことをしないのでしょうか。自分の苦痛が喜びを上回ったために不登校を選んだ子は、自分の思いに従って自分の生き方、あり方を選んだだけなのに、なぜそういう子が非難されるのでしょうか。
人間はなぜ、自らの「自由」を喜んで捧げてしまうのか
ここで、最初の述べたジル・ドゥルーズの言葉、人はなぜ「頑迷(がんこで真実を見ようとしないこと)」で、「自由」を捨てて、自ら「強い者たち」の言いなりになり、そのことをむしろ誇りとし、場合によっては命まで落とすのだろうかという問いに戻っていきます。人間はなぜ「不-自由」になることを自ら選ぶのか、なぜ、自分の「自由」を捨てることがまるで自分の「自由」の表れであるかのように、喜んで自らの「自由」を「強い者たち」に捧げてしまうのかということです。
自分の「正しさ」を持たない悲惨さ
わたしなりの結論を言ってしまえば、それはわたしを含めて多くの人が、自分の「正しさ」というものを持たず、集団や組織や社会や国の「正しさ」を自分の「正しさ」としてしまっているからです。くり返しますが、社会や国の「正しさ」は、本質的に「強い立場」の人にとっての「正しさ」であり、「強い立場」の人にとって都合のよい「きまりやあたり前」です。そのため、「弱い立場」の人にとっては、その「正しさ」を貫こうとすると、いつか必ず自らを苦しめるものになるのです。ここに人間の悲惨さがあります。
人間の悲惨さの究極の姿が戦争
そのような人間の悲惨さの究極の姿が戦争です。「家族のために戦う」と言って、人は戦場に行きます。しかし、本当に「家族の幸せのために」と思うなら、国家や民族や宗教などが掲げるあらゆる「正義」のために戦うことを、みんなでやめた方がいいのです。国民が「家族のために戦って」、実際に利益を得るのは国家の中の一握りの「強い立場」の人たちだけです。皮肉なことですが、戦争に負けても、戦争中よりはむしろマシな生活になるのが、数千年にわたる人類の歴史がくり返し示していることです。
平和の「尊さ」を主張しても、戦争は終わらない
わたしがここで言いたいことは、「平和は絶対に守らなければならない」などということではありません。わたしがここで言いたいのは、「戦争は、そもそもだれのための戦争か」ということです。戦争で得をするのは、実はごくわずかな人たちです。ほとんどの人は、悲惨な目にしかあいません。わたしが言いたいのは、あらゆる自分の外にある「正しさ」は必ずわたしを裏切るから、そんなもののために戦うことはやめようということです。
平和も民主主義も人権尊重も、「正しさ(正義)」となった時は、戦いを生みます。今まで、「平和を、民主主義を、人権を守るため」にどれほどの戦争が行われてきたことでしょうか。平和や民主主義や人権の「尊さ」や「価値」を言わずに、戦争を否定することができなければ、戦争はなくなりません。
わたし自身の「幸せ」が、わたしの「正しさ」
もし、わたしたちが唯一大切にすべき「正しさ」があるとすれば、それはわたし自身の「幸せ」です。わたし自身の「幸せ」、これをわたしは自分の「正しさ」とするべきなのです。
わたしの「幸せ」を可能にする必須条件とは、わたしの「安心・自信・自由」の三つです。(くわしくは、「高校生のための人権入門(17) 人権の中身「安心、自信、自由」」などをご覧ください。)集団の「正しさ」をあなたに信奉させたい人たちは、集団の「正しさ」は、一時的にあなたの「安心・自信・自由」を犠牲にするように見えるが、最終的にはあなたは必ず「幸せ」になると言います。ちょうど、不登校の子に「今は苦しくても、学校に行っておけばきっと後でよかったと思う」と言うようなものです。このような「強い立場」の人が口にする常套句は、すべてウソです。
そのようなウソがもたらす最大のものが、戦争です。戦争を主導する「強い立場」の人たちは、「正しさ」のためにあなたの「安心・自信・自由」を一時的に犠牲にしろと呼びかけ、一方では、侵略された時、負けた時の恐怖を、われわれの中に常にかき立てます。しかし、集団のために自分を犠牲にすることは、常に誤りです。なぜなら、集団の「正しさ」は必ずわたしを裏切るからです。わたしたちが唯一大切にすべき「正しさ」は、わたし自身の「幸せ」です。
苦しんでいる人を前にしたまま、わたしは「幸せ」にはなれない
ただここで忘れてはならない、重要なことがあります。人は、自分より「弱い立場」の人が目の前で苦しんでいるのを見たまま、自分は「幸せだ、これでいい、生きていてよかった」とは思えないのです。だれもが、自分より「弱い立場」の人が苦しんでいる時、「責任(なんとかしないではいられない思い)」を感じないではいられないからです。人は、わたしの「幸せ(自分自身への満足)」を手に入れるためには、あなたの「幸せ」を実現しなければならない生き物なのです。
ただ、これは、人が「道徳的な生き物」だからではありませんし、人の中に愛や思いやりや同情の気持ちがあるからでもありません。人が「責任」を感じざるをえない生き物だからこそ、このようなことが起きるのです。人の中の「責任」が発動するためには、なんらの「正しさ」も、「義務」も必要ありません。愛や思いやりや同情の気持ちを持つことが、人として「正しい」ことだとされた時は、またわれわれは「正しさ」の罠に陥ってしまうことになります。(くわしくは、「『義務』から『責任」へ ~人権尊重の観点を変える~」などをご覧ください。)
集団の「正義」から、わたしの「責任」へ
人は、やめろと言われても、それでもなお、わたしとあなたの「幸せ」を求め、実現しようとする生き物です。それが、人が生きるということであり、人は「責任」の生き物だからです。集団の「正義」から、わたしの「責任」へと生き方や考え方を変えない限り、わたしもあなたも「幸せ」にはなれませんし、人権侵害や差別はなくならないのです。
注1:最初に引用した部分を含むドゥルーズの一文は、以下のとおりです。