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「自己愛」を「更新する」必要がある〜「正義」から「責任」へ(その13)

何回かにわたって、パワーハラスメントを防ぎ、解決するためにどうすればいいいのか、またそこで出てくる問題点、困難点について考えてみました。困難点は大きくわけてふたつになります。まず個人のレベルでは、自分の中の「正しさ(正義)」を括弧に入れて、「自分をゆるすこと」のむずかしさ。次に集団、組織、社会のレベルでは、その集団等が持つ「正義(正しさ)」を括弧に入れ、その「正義(正しさ)」の徹底に制限をつけることのむずかしさです。この二点について今回と次回でふり返り、「『正義』から『責任』へ」という副題で今まで続けてきた連載を一区切りにしたいと思います。

「自己愛」を「更新する」必要がある

3回ほど前の「『本来の責任』が人権トラブルを解決する(その1)」で、単純化したパワーハラスメントの例をあげ、前回までその解決のあり方を考えてきました。それでわかったことは、パワーハラスメントを解決するためには、加害者、被害者、第三者のいずれにおいても、自分の「正しさ(こうでなければならない)」と密接に結びついている自分の中の「自己愛(自分への満足欲求)」をいったん停止して、「正しさ(こうでなければならない)」を貫けないみじめな自分を「ゆるす」必要があるということでした。パワーハラスメントを解消するためには、それぞれの人が自分の中にある「自己愛」を一時的に停止して、「自己愛」をいわば「生まれ変わらせる」=「更新する」必要があるのです。

「自己愛」は「実際には存在しない自分」への愛

「自己愛(自分への満足欲求)」は人の生きる力の根源です。ですから、本来、「自己愛」は人にとって「よい」ものです。しかし、実際には「自己愛」は時と場合によって、わたしを死にたくなるほど苦しめるものでもあります。たとえば、誰かによって「自己愛」を傷つけられた時、人は「自己愛」を守るためには、相手を逆に攻撃し、結果として人権侵害やパワーハラスメントを起こしてしまうのです(くわしくは、「『本来の責任」が人権トラブルを解決する(その2)』、などをご覧ください。)

「自己愛(ナルシシズム)」とは、ナルシスのギリシア神話でもあきらかなように、厳密に言えば「今ここにいる自分」への愛ではなく、水面に映った「鏡像の自分」への愛です。つまり、「実際には存在しない(鏡像・虚像)の自分」への愛が「自己愛(ナルシシズム)」の本質なのです。「正しさ(こうでなければならない)」を貫くことができる自分は、実は「虚像の自分(こうであればいい自分)」です。しかし、前々回前回で述べてきた「自己愛」の「傷つき」とは、それまで「これが自分だ」と思って愛していた「正しさ(こうでなければならない)」を貫ける自分が、実は「水面に映ったわたし(虚像の自分)」であり、「実際にはここに存在しないもの」だったことがあらわになることなのです

「自己愛」が傷ついた時のふたつの選択肢

以前述べたパワーハラスメントのケース(「『本来の責任』が人権トラブルを解決する(その1)」参照)で言えば、それは係長のAさんの「自分は部下を思いどおりに動かせる優秀な上司だ」という思い込みが、ひとりの部下(Bさん)の振る舞いによって否定される(単なる「思い込み」だったとあらわにされる)ことです。このようなことが起きた場合、人にはふたつの選択肢があります。ひとつは、このような事実を事実として受け入れることです。部下を思いどおりに動かせないのが、現実の今の自分なのだと認めることです。もうひとつは、「わたしは部下を思いどおりに動かせる優秀な上司」なのだが、あの部下は「おかしい」人だからわたしの言うことを聞かないのだと思うことです。

「あの人がおかしいから、うまくいかないんだ」という選択肢

多くの場合、人は後者(「あの人がおかしいから、うまくいかないんだ」)を選択します。そうすることで、傷つきかけた「自己愛(わたしは正しい、わたしはすごい)」を守ることができるからです。ただ、この選択はたいていその後、袋小路にはまり込むことになります。わたしが「部下を思いどおりに動かせる優秀な上司」であるという大前提にこだわるならば、この後、わたしは「おかしな」相手(部下)を、自分の望むように動かして変えることができなければなりません。ところが、もともとわたしの思いどおりに振る舞わない相手が、わたしから「あなたのそういうところはおかしいから、そこを直しなさい」と言われて、自分の「おかしい」ところを直すはずはないのです。このような出口のない袋小路にはまり込んでしまったところから、パワーハラスメントが起きてきます。

「今の自分にはできない」ことを認める選択肢

最初にあげたもうひとつの選択肢(「事実を事実として受け入れ、今の自分には部下を思いどおりに動かせないのだと認める」こと)を選ぶなら、このような袋小路にはまり込むことはありません。事実を事実として受け入れれば、なぜ、今の自分には部下を思いどおりに動かせないのだろうか、どうすれば相手を動かせるのだろうかと考えるからです。いろいろ考えた末、ある工夫を実践してみて、それでうまくいかなくても、もともとが「今の自分には部下を思いどおりに動かせない」ところから出発しているので、「自己愛」は傷つきません。さらにいろいろ調べたり考えたり試行錯誤しながら、違う工夫をするようになります。

パワーハラスメントに限らず、本来、問題の解決とはこのように行うはずのものです。自動車のエンジンがかからないからといって、いつまでも自動車に向かって「おまえが悪い」と怒鳴りつけている人はいません。原因を調べ、それへの対応を業者に頼んだりします。しかし、人間関係のトラブルでは、「あの人がおかしいからこのようなことが起きる。(わたしは悪くない。わたしは正しい。だから、わたしが変わる必要はない。)」を選択してしまう人が圧倒的に多いのです。

「自己愛」を捨てることは、不安や恐怖につながる

なぜでしょうか。「自己愛(「わたしは悪くない。わたしは正しい」)」が、その人の「生きる力(生きる支え)」になっているからです。そのため、程度の差はあれ人にとって「自己愛」を捨てること(「わたしにも悪いところがある」と認めること)」は、自分のここに生きている意味を捨てることのように思えるのです。そんなことをしたら、「わたしはダメ人間だ、わたしには生きている意味がない」という思いに落ち込んで抜け出せなくなるような不安や恐怖を感じるのです。

「自己愛」が「虚像の自分」への愛だと知ること

そうだとすれば、「自己愛(自分に満足したい欲求)」を捨て去ることは、実はお釈迦様(ブッダ)のような「悟った人(覚者)」にしかできないことでしょう。われわれにできることは、たぶん「自己愛」が「虚像・鏡像の自分への愛」であることを知って、「自己愛」を捨てることへの不安や恐怖を、あくまで「虚構(そんなことにはならない)」と考えて、落ち着いて対応することです。これが最初に述べた自分の「正しさ」を括弧に入れるということです。「自己愛」の根底には、自分の「正しさ(こうでなければならない)」と、その「正しさ」を実現できる(はずの)「虚構の自分」への愛があります。自分の「正しさ(こうでなければならない)」を括弧に入れることで、いわば「自己愛」を一時的に止めることができます

「自己愛」の支配力に対して、われわれができることは、わかりやすく言ってしまえば、今まで自分が愛してきた「わたし」は、「本当のわたし」ではないと「知る」ことです。もちろん厳密に言えば、わたしがとらえる「わたし」は、常に「虚像」です。「本当のわたし」などというものは、どこまでいってもとらえることはできません。しかし、大事なことは、わたしが愛している「わたし」が、「虚像」であることを「知る」ことです。

「自己愛」がもたらす袋小路にはまり込まないために

「自己愛」が傷つくということは、わたしが愛している「わたし」が実は「虚像(ウソ)」だったということがあきらかになりかけたということです。その時、先ほど述べたような「自己愛」がもたらす袋小路にはまり込まないためにできることは、自分の「正しさ(こうでなければならない)」を括弧に入れることで、「自己愛」を一時的に止めることです。そして、「わたし」の中身をそれまでの「部下を思いどおりに動かせる優秀なわたし」という「虚像」から、「時と場合によっては、部下を思いどおりに動かせないこともあるわたし」に切り替えるとともに、そんな相手を思いどおりに動かせない「わたし」をゆるすことです。つまり、「今のわたしはこれでいいんだ」と思うことです。これが、先ほど延べた自分の中の「自己愛」をいわば「生まれ変わらせる」=「更新する」ということです。

「今のわたしはこれでいい」は更新された「自己愛」

なぜ、これが「自己愛」を捨て去ることではなく、「自己愛」の「更新」なのかといえば、この「今のわたしはこれでいい」も、自分への「満足」である点では、生きる力の根源である「自己愛(自分への満足欲求)」を満たすものだからです。違いは、更新前の「自己愛」が「正しい自分(こうでありたい、こうでなければならない自分)」への愛であるのに対して、更新後の「自己愛」は「今ここにある自分」への愛だということです。もちろん、厳密に言えばこの後者の「自己愛」もまた、わたしが思い描いたわたしの姿である点では「虚像」です。ただ大事なことは、どちらも「虚像」ではあっても、その働き自体は対照的だということです。前者は、相手を否定する(「あの人はおかしい」とする)ことによって自己を肯定しよう(わたしは正しい)としますが、後者は自己を肯定し(今のわたしはこれでいい)、その結果として相手も肯定する(今のあの人はあれでいい)からです。

「自己愛」の更新がもたらす人権問題の解決の可能性と、その困難さ

このような「自己愛」の更新が、加害者や、加害者よりも「強い立場」である第三者の中で実現できれば、原理的には加害者と被害者の間で、パワーハラスメントなどの人権トラブルや人権問題を解決することができます。ただ、前々回、前回も述べたように、現実にはそれはなかなかむずかしいことです。「自己愛」を一時的にではあれ停止し、わたしにとっての「わたし」の中身を変えることは、「わたしはダメ人間だ、わたしには生きている意味がない」という思いにとらわれてしまう不安や恐怖を人に与えるからです。ここに、「自己愛」の更新がもたらす人権トラブルや人権問題の解決の可能性と同時に、解決の実現のむずかしさ(困難点)があります。

実は、このようなむずかしさ(困難点)は、一番最初に書いたふたつめのむずかしさ(「集団、組織、社会などが持つ『正義(正しさ)』を括弧に入れ、それに制限をかけることのむずかしさ)と密接に結びついています。わたしの「正しさ」は、わたしの「自己愛」と密接に結びついていますが、わたしの「自己愛」は、実はわたしが属する集団等が持つ『正義(正しさ)』に、ふつうその根拠を持っているからです。

集団や組織や社会や政府への批判をゆるさない人たち

ふだんは自分が属する集団や組織への文句や苦情をいろいろ言っているくせに、いざとなると集団や組織の「上の人たち」の考え方ややり方に、完全に追随してしまうような人たちがいます。また、自分も円安や増税でいろいろひどい目にあっているにもかかわらず、だれかが目の前で今の政府のやり方をはっきり批判すると、「あなたは、なにもわかっていない」といった感じで、その人の意見を徹底的に潰しにかかる人たちがいます。皆さんもそんな人たちを見たことはないでしょうか。実際に今のSNSは、集団や組織や社会や政府を批判する人と、そんな批判をさらに批判して潰そうとする人の言い争いで溢れ返っています

スピノザとジル・ドゥルーズの問い

20世紀のフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、17世紀のオランダの哲学者、スピノザについての本の中で、スピノザの書いた『神学・政治論』の中心となる問いは、このようなものだと述べています(注:以下の引用部分の前後は、末尾の(注1)をご覧ください)。

なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を『もとめて』闘うのだろう」(G・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』平凡社ライブラリー、P23)

これは、「集団や組織や社会や政府への『隷属(奴隷のように相手に従うこと)』を、なぜ人々はこれほど自分の方から求め続け、必死になるのだろうか。それは、ただ自分の『隷属(不-自由)』を深めるだけなのに。」ということです。これはスピノザの問いであると同時に、間違いなくドゥルーズの問いでもあります。

この問いの重要性は、21世紀になった今でもまったく変わりありません。次回は、なぜ人は「隷属こそが自由である(正しい生き方である)」かのように振る舞ってしまうのだろうかということを考え、「『正義』から『責任』へ」という副題で今まで十数回続けてきた連載を一区切りにしたいと思います。

注1:先ほど引用した部分を含んだ長い文を、以下に引用しておきます。

「『神学・政治論』の中心に据えられた問題のひとつは、なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう、なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を『もとめて』闘うのだろう、なぜ自由をたんにかちとるだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう、なぜ宗教は愛と喜びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろうーーということだった。」

(G・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』平凡社ライブラリー、P23)

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