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「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その3)~「正義」から「責任」へ(その12)

前回、パワーハラスメントが深刻化して、加害者と被害者の両方が互いに「あの人はおかしい、あの人のせいでわたしはこんなに迷惑している。ゆるせない。」と思っている場合、つまり、双方が自分を「被害者」だと思っている場合は、第三者が関わっていくしかないと書きました。今回は、前々回にあげた例にもとづいて、パワーハラスメントを解決するために第三者がどのように関わっていくのがよいのか、また、そこで出てくる問題点、困難点について考えてみたいと思います。

第三者がパワーハラスメントを解決するには

まず、結論を先に述べてしまいます。第三者が、パワーハラスメントを解決するためには、加害者と被害者の双方に、「今のわたしはこれでいい」と思わせることができればいいのです。(そのくわしい理由については、前回をご覧ください。)そうすれば、どちらも「自分をゆるす」ことができます。「自分をゆるす」ことができれば、相手をゆるすことができるようになります。「相手をゆるせた」時点で、すでに双方はそれなりの納得や合意に至っています。原理的には、これだけのことです。ただ、それを行うためには、解決にあたる第三者がまず自分と加害者と被害者の三者を「ゆるすこと」ができていなければなりません。これが最大の問題点、困難点になります。

第三者がやってはならないふたつのこと

それでは、前々回の単純化したパワーハラスメントの例にもとづいて、考えてみます。職場のパワーハラスメントの解決に関わる第三者はいろいろな人が考えられますが、ここでは単純化して加害者と被害者の両方の上司(前々回あげた例で言えば、課長補佐)を例にして考えてみたいと思います。

前々回の例において課長補佐が、係長であるAさんとその部下であるBさんの間に起きたトラブル(Bさんにとっては、パワーハラスメント)を解決しようとする場合、やってはならないことがふたつあります。

「本当にパワーハラスメントなのだろうか」と考えない

ひとつは、「これが本当にパワーハラスメントなのだろうか」と考えることです。なぜかと言えば、そのような考えは、「あれはまだパワーハラスメントではないかもしれない。そうなら、まだわたしが動く必要はない」というような発想につながりかねないからです。トラブルが起きている以上、その解決のためには早めに動いた方がよいのです。

自分の「正しさ」で相手を変えようとしない

もうひとつやってはいけないことがあります。それは、前々回にも悪い対処の例として書きましたが、課長補佐が自分の「正しさ(正義)」にもとづいて、自分の思うとおりにAさんとBさんを動かそう(変えよう)とすることです。もちろん課長補佐は、AさんとBさんのためを思ってそうするわけですが、そのような自分の「正しさ」にもとづいた「指導」や「アドバイス」は、問題を解決するどころか、さらに深刻なものにしてしまいます

「指導」や「アドバイス」は失敗する

たとえば、課長補佐が「職場の円滑な運営」という全員に共通の目標を持ち出して、AさんとBさんにその実現のために「もっとお互いに寛容になって、協力しあおうよ」と言ってみたらどうでしょう。パワーハラスメントの解決に当たったことのある方はよくご存知ですが、このような場合、そんなことを言ってもなんの効果もありません。AさんもBさんも、「職場の円滑な運営」が重要だということは認めますが、今、その大事な「職場の円滑な運営」をぶち壊しているのは、「おかしなことをしているこの人だ」と、どちらも強く思っているからです。そんな二人にさらに課長補佐が、「そんなふうに相手を非難ばかりしていないで、もう少し互いに寛容になろうよ。同じ職場の仲間なんだから。」などとくり返せば、二人とも、「だったらあなたがこの『おかしな人』をきちんと指導しろよ。われわれの上司なんだから、それがあなたの仕事だろ。」とお腹の中で思ったり、口にしたりするようになってしまいます。

当事者に「今の自分はこれでいい」と思わせる

前回も述べたように、課長補佐がふたりの対立を解消するためにしなければならないことは、それぞれに「自分にも悪いところがあった」と反省させることでもありませんし、互いにもうちょっと「寛容になろう(相手の悪いところをゆるしてやろう)」と言うことでもありません。AさんとBさんのそれぞれが「自分をゆるせる」ようにすることです。つまり、二人にそれぞれ「今の自分はこれでいい」と思わせることです自分をゆるせて、初めて人は相手をゆるせるようになるからです

Aさんに安心を与えることの大切さ

では、AさんとBさんのそれぞれに「今の自分はこれでいい」と思わせるとは、この場合はどういうことになるのでしょうか。Aさんには、たとえば、「今の自分は部下(Bさん)を思いどおりに動かせないが、それでいいんだ」と思わせる(安心させる)ことであり、Bさんには、たとえば、「今の自分は、口頭で仕事を指示されても充分理解できないところがあるが、それでいいんだ」と思わせる(安心させる)ことです。

Aさんにとって上司である課長補佐が、たとえばAさんに対して「今のAさんはそれでいい」と本気で思ってそう言えば、Bさんを思いどおりに動かせず、みじめさと不安でイラついていたAさんはとりあえず安心します。そして、安心すれば、「できない」自分をゆるせる余地が生まれてきます。「できない」自分をゆるせた分だけ、「できない」相手もゆるすことができるようになります

上司は、「しなくてもいい」と言える人のこと

そんなことありえない。まず、上司である課長補佐が職場でそんなことを言えるはずがない。次にたとえ、そんなことを言ったとしても、そんなにうまくことが運ぶはずはないと思われる方も多いでしょう。前者の、課長補佐がそんなことを言えるはずがないという点については、後ほど取り上げます。

言われたAさんが、そんなに簡単に安心しないだろうという後者の点については、話をパワーハラスメントから切り離して、仕事一般の話として考えてみれば、これは特別不思議なことではありません。上司(強い立場の人)とは、部下(弱い立場の人)に対して、それは「しなくてもいいよ(できなくてもいいよ)」と言える力を持った人です。部下(弱い立場の人)に、「あなたがそれをしないで(できなくて)、なにかトラブルが起きても、それはわたしが責任をとるからいいよ」と言える立場にいる人が、本来の上司(強い立場の人)です。(今の上司はそうではない人が、圧倒的に多いようですが。)

パワーハラスメントで考えた場合、「できなくてもいい」と言われてもAさんがそんなに簡単に安心できないように思えるのは、Aさんが、自分の「正しさ(働くからにはこうでなければならない等)」に強く固執しているからです。しかし、上司の課長補佐が「今は無理をしてBさんを動かさなくていい」とはっきり言えば、みじめさと不安でイラついていたAさんは、そのぶんだけ間違いなく楽になり安心するはずです。

課長補佐はAさんに、「Bさんを自分の思うとおりに動かす(変える)ことができなくても、いいんだよ」と言える立場(上司)なのですから、本気でそう言えばいいのです。そう言われれば、思いどおりにならずみじめで不安で、イラついていたAさんは、とりあえず安心します。「まあ、今のわたしはこれでいいみたいだ」と思えるからです。

安心と自信のないところに、成長は生まれない

こういうことを書くと、そんなことを言って安心してしまったら、Aさんは成長しないじゃないかと思われる方もいらっしゃるでしょう。ちょっと考えるときわめてもっともな意見に思えますが、わたしは違うと思います。安心と自信(「今のわたしはこれでいい」という思い)のないところには、成長はありません成長はその人の内側から生まれてくるものであって、外からの強制する力で実現できるものではないからです。「あなたはあなたのままでいいんだよ」と言われて安心し、はじめて人は「でも、もうちょっとよくなりたい」と思うのです。一方的な非難、批判ほどその人の安心と自信を奪うものはありません。

生きている限り、人は伸びようとする

成長がその人の内側から生まれてくるとは、実際にはどういうことでしょうか。もし課長補佐がAさんに、「Bさんを思いどおりに動かす(変える)ことができなくても、いいんだよ」と本気で言えば、Aさんは「よかった、補佐がそう言ってくれるんだから、これで自分の評価が落ちたりはしない」と安心します。安心すれば心の余裕が生まれます。

そうすると、Aさんはトラブルがおさまってしばらくしたところで、ASD傾向のあるBさんに指示を与える場合には、これからどうすればいいのだろうかと考え始めるかもしれません。おとなの発達障害に関してネットで調べたり、書店でわかりやすそうな本を探してみたり、課長補佐にどうすればいいのか相談したりするかもしれません。安心すれば、人は必ず「今よりもよくなろう」と思います。生きるということは、変わろう、伸びようとすることと同じだからです

パワーハラスメントの正体は「おそれ」

「Bさんはおかしな人で、自分は迷惑を受けている被害者だ」と思っていた時のAさんにとって、言わばBさんは自分の力ではコントロールできない、自分を理不尽に苦境に追い込む人であり、そういう意味で自分をおびやかす「おそろしい存在」です。「おそろしい存在」から自分を守るために人ができることは、ありったけの力を使って、攻撃し、嫌がらせをして、遠くに追い払うことだけです。これがパワーハラスメントの正体です

しかし、課長補佐から「Bさんを思いどおりに動かさなくてもいい」と言われることによって、Aさんは安心し自信(「今のわたしはこれでいいんだ」)を持つことができます。そうなると、Bさんはいわば等身大の人(「ちょっと変わっているが、まあふつうの人」)に見えてきます。そうなって初めて、Aさんは具体的にBさんの特性(ちょっと変わっているところ)にどう対処すればいいのかを考える余裕が生まれるのです。

Aさんの変化が、Bさんに安心と自信を生む

Aさんがそうやって、ASD傾向のある人への対処の仕方を少しずつ学び、ぎこちないながらもBさんに接するやり方を変えていけば、そのようなAさんの変化は、必ずBさんに安心と自信(「今のわたしはこれでいい」)をもたらします。安心と自信を持つことができたBさんは、もうそれまでのようにAさんのちょっとした注意にも、いちいち反抗的な態度を取る必要がなくなります。結果的に、課長補佐の望む「職場の円滑な運営」に少しずつ近づいていきます。

パワーハラスメントを生んだ負のサイクルを変える

必要なことは、パワーハラスメントを生んだ負(マイナス)のサイクルを止め、逆向きの正(プラス)のサイクルに変えていくことです。実際にパワーハラスメントを解決する立場になった第三者は、どうすれば加害者と被害者を変えることができるんだろうかと考えて、絶望的な気分になります。しかし、負のサイクルを止め、正のサイクルに変えていく上での本当のむずかしさは、当事者よりも問題を解決しようとする側にあるのです。今まで述べてきた例でいえば、AさんやBさんよりも「強い立場」にある課長補佐の方に、乗り越えがたい困難な問題があるのです。それが、先ほど、「後ほど取り上げます」と述べた「上司である課長補佐が職場でそんなことを言えるはずがない」という問題です。

職場の第三者の持つ乗り越えがたい困難点

実際には、課長補佐が、AさんやBさんに「今のあなたはそれでいい」などと言うことは、なかなかできないことです。ふつう課長補佐であれば、自分の仕事は上司の課長の意向に沿って、「いたらぬところのある」今のAさんとBさんを、それぞれうまく指導して「もっとよくする」ことだと思っているからです。AさんやBさんに、「今のあなたはそれでいい」などと言うことは、自分の無力さを認めることにしか思えないでしょう。だから、「指導」や「アドバイス」の名のもとに、自分の「正しさ(職場の円滑な運営、等)」をAさんとBさんに押しつけ、AさんとBさんを自分の思うとおりに動かそう(変えよう)として、逆に反発をかい、皮肉なことに、本来の意図に反して自分の無力さを職場にさらすことになるのです。

最初に、第三者が、パワーハラスメントを解決するためには、加害者と被害者の双方に、「今のわたしはこれでいい」と思わせることができればいい。しかし、その一番のネックになることは、第三者がまず自分と加害者と被害者の三者を「ゆるすこと」のむずかしさだと述べました。この「ゆるすこと」の中でも、一番むずかしいのは、第三者(ここでは課長補佐)が「相手を変えられない」無力な自分自身をゆるすことなのです

パワーハラスメントを生んでいるものは職場

AさんやBさんを「指導」や「アドバイス」で動かすことができない無力な自分を認める(ゆるす)ことができず、二人にそれぞれ「今のあなたはそれでいい」と本気で言うことができなければ、第三者(ここでは課長補佐)は、このトラブルを解決することはできません。ここに力の序列ででき上がっている現在の日本の職場で、パワーハラスメントの解決がきわめて困難であることの本当の理由があります。

職場のパワーハラスメントを引き起こしているのは、実は働く者の個々の資質というよりは、むしろ職場の上意下達、責任追及等のあり方なのです。そして、パワーハラスメントの解決を不可能にしているものも、同じものなのです

パワーハラスメントを防ぐことができたケースもある

ところが、実際の職場の中にはパワーハラスメントになりそうな人間関係のトラブルを、ひどくなる前に未然に防ぐことのできる(できた)上司もいます。そのような上司は、上司という「強い立場」を下りるふり、つまり「無力な」ふりをして自分の「できなさ」と加害者と被害者の「できなさ」を「ゆるす」ふりができる(できた)人です。それは、「無力な」自分には当事者(たち)を動かすことが「できない」というふりをし、当事者たちに「助けてほしい」と率直に言うことで、結果として当事者(たち)にそうしようという思いを起こす(起こさせる)ことが「できる」人なのです。もちろん、そのように職場の中で振る舞うことは、勇気のいることです。しかし、このような逆説的な(パラドキシカルな)方法(動かせないふりをして、それによって結果的に相手を動かす方法)でこそ、人は人を動かすことができるのです。

逆説的な方法が人を動かしてきた

ただ、別にこれは特別なことではありません。何十年、何百年、何千年も前からすぐれた「強い立場」の人たちは、このような逆説的な方法を意識的に、または無意識的に使って「弱い立場」の人たちを動かしてきました。司馬遷の『史記』の中で項羽と争って勝った劉邦の姿などを読むと、そう思わずにはいられません。


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