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「人権問題」の解決は、どうしたらよいのか

「人権問題」や「人権侵害」は、今の社会のいたるところにあります。この世の中のさまざまな場所で、たくさんの人が自分の人権を侵害されています。しかし、その人たちが味わっている「生きづらさ」を解消するため(少なくとも減らすため)には、できることなら、その問題を「人権」の問題として解決することを目指さない方がよいとわたしは思います。

なにか言っていることがめちゃくちゃのような感じを持たれるかもしれませんが、これは実際に「人権問題」の解決(解消)に取り組む上では、たぶんとても重要なことだと思うのです。

「人権」の問題として解決しない方がよい理由

「人権問題」の「解決」を目指すのなら、「人権」の問題としての解決を目指さない方がよいのではないかとわたしが思う理由は、ふたつあります。ひとつには、「人権」の問題として解決しようとすると、現実には解決がきわめてむずかしくなってしまうことが多いからです。ふたつめは、人権問題を「解決する」ということは、実際には、自分が「正しい」と思う主張を通す(相手側に認めさせる)ことではなくて、実際に、生きている人の「生きづらさ」をなくす(減らす)ことだと思うからです。

無人駅化が引き起こす車いす利用者の人権問題

この問題を具体的に考えるために、現在、ローカル線のあちこちで進められている無人駅化の問題を考えてみます。現在、日本中の鉄道の駅の半分くらいが無人駅となっています。そのため、車いすを利用している方たちが、鉄道を利用して移動しようとしても、自宅などの近くに無人駅しかない場合、一人での駅の利用はほぼ不可能な状態になっています

最初に、結論を先に言ってしまいます。なぜ、このようなことが起きてしまうのかといえば、本来、「社会的共通資本(みんなが生きていく上で、どうしても必要なもの。本来、公的にその存在を守らなければならないもの(詳しくは、『社会的共通資本 』(岩波新書、宇沢弘文著)などをご覧ください)」を、民営化してしまったからです。ひと度、民営化されれば、企業は収支が悪化すれば、消滅するしかなくなるため、なによりも収益が重要になります。実は、これから考えていくすべての問題は、ここから起きているのです。そのことを忘れると、結局、訳のわからない議論が延々と続くことになります。ですから、駅の無人化の問題も、鉄道に社会的共通資本としての特質を取り戻すことが、解決のための本当の結論です。それをしない限り、さまざまな問題が次々と起きてきます。

車いす利用者が求めていることは「ふつう」のこと

駅の無人化に対して、車いす利用者が求めていることは、「自分の家の一番近くの駅から電車に乗って、どこそこに行きたい」という、誰もが持っているきわめて「ふつう」の願いです。平均的な人たち(健常者)が、「ふつう」にやっていることを、車いすを利用している自分たちも「ふつう」にやりたいということにすぎません。つまり、何か特別なことを求めているわけではないのです。

ところが、いくら鉄道会社と交渉しても、「事前に連絡をもらえば、対応します。ただ、無人駅に向かえる職員は人数に限りがあるし、勤務時間外は無理です。」というような回答しかもらえなければ、「移動の自由(望むところに移動する権利)」に基づいて、裁判を起こすしかなくなるのです。そして、裁判を起こせば、必ず、「ローカル線の経営は厳しいのに、なにを言っているんだ。駅の無人化に反対したり、車いすでもひとりで電車に乗れるようにバリア・フリーやノーマライゼーションを進めろと主張したりすることは、結局、そのローカル線そのものの廃止をまねくだけじゃないか。そんなことを言うのは『障害者などのわがまま』だ。」というような批判、非難にさらされます

裁判を起こした原告の方たちからすれば、裁判を起こす以外に、無人駅の増加がもたらす「生きづらさ」を防ぐ方法は他にありません。その点で、わたしは裁判を起こしたこと自体を批判する気持ちはまったくありません。そもそも個々の利用者に対して、鉄道会社は圧倒的に「強い立場」だからです。また、原告の方たちがこのような裁判の目的の一つとしている「無人駅の問題は、車いす利用者だけの問題ではない。だから、そこに住む住人全員の問題として考えてほしい。」という主張にも、まったく賛成です。

裁判の結果は、求めていたものをもたらさない

ただ、このような裁判の場合、その判決がどのようなものになっても、結果として、それは原告の方たちの「勝利」にもならないし、「敗北」にもならないのではないかと思うのです。裁判で問題となった具体的ないくつかの駅が、再び有人化されれば、それは一応の「勝利」でしょう。しかし、それは該当する駅の無人化にあたって、鉄道会社が「必要かつ過度の負担にならない配慮(いわゆる「合理的配慮」)」を行っていないと判事が判断した場合の判決であって、鉄道会社に対して利用する人たち(車いす利用者を含めた)の「人権」を尊重するように裁判所が命じたということとは違います。また、逆に判事が、該当するいくつかの駅の無人化を認めたからといって、それが原告の「敗北」となるのかと言えば、それも違うでしょう。そのような場合、判事は駅の無人化は、ある程度の配慮を会社が行っているため、原告の「移動の自由(行きたいところに行く権利)」を制限したとまでは言えないと判断をしたわけです。つまり、どちらの判決においても、「移動の自由」そのものは基本的には認めるが、それは「無制限な(行きたいところに、いつでも行ける)」ものではないという考えが、共通して存在します。

法律的な判断というものは、常にこういう性質を持っています。憲法などに記された「基本的人権」などの理念はもちろん認めつつも、実際の判決においては、それに一定の「制限」をつけて判決が出されます。しかし、基本的に「自由」とか「権利」というものは、もともと観念や理念である以上、本質的に「無制限(無条件)なもの」です。そのため、どのような判決が出ても、原告側が求めている「人権」尊重の期待を充分に満たすことは、原理的にありません

人権問題を、どのように「解決」に近づけるか

つまり、裁判においては、人権問題を「人権」や「自由」の問題として解決することは、原理的に不可能だろうとわたしは思います。では、人権問題はどのようにすれば「解決する」のでしょうか。

人権問題は、「具体的な作業(具体的な対応を、これからどのようにしていくかを、お互いに試行錯誤すること)」として取り組むことで、唯一、「解決」に近づけることができます。今回の駅の無人化の問題で言えば、一番簡単な具体策は、駅の無人化をやめることです。よく考えてみれば、駅の無人化が本当に収益の増大または赤字の縮小につながるかは、それほど簡単な問題ではありません。確かに人を減らせば、人件費は減りますので、その分、赤字の縮小につながるように思えますが、実際には、無人化すれば、無人駅の維持のためには、それまで不要だったさまざまな経費(階段の脇にスロープを作る等)が、かかってきます。しかし、そのような経費をかけていたら、そもそも無人化をする意味がありません。

また一方では、無人駅化が進められれば、結果としてふつう、利用者は減ることはあっても増えることはありません。最終的には、ローカル線そのものが遠からず廃止されます。これは社会的共通資本である鉄道を民営化したことから必然的に起きる結果です。無人駅化の問題は、民営化の根底にある「ムダをなくせ」という新自由主義的な発想から、必然的に起きていることです。収益があがらない駅や路線そのものが、新自由主義的な考えからすれば、そもそも日本がかかえる「ムダ」なのです

それでも「解決」は、たぶんある

利用者の少ない駅の無人化は避けられないというのが会社側のそもそものスタンスなのですから、それを変えさせることは、現実的にはまず不可能でしょう。では、駅の無人化を行いながら、車いす利用者も引き続きその駅を利用できる方法はないのでしょうか。会社側が、本当にその気になれば、その方法はたぶんあります。ただ、その方法を見つけるためには、車いす利用者の方たちとよく話さなければなりません。なぜかと言えば、会社側は、駅を利用する際の(たとえ、それが介助してくれる駅員がいる駅の場合でも)車いす利用者の不便さや不都合がどのようなものであるか、具体的にはまったく知らないからです。

駅を無人化しても、車いす利用者がその駅を利用してひとりで乗車する方法は、考えてみればいろいろあるはずです。例えば、車いす利用者が自宅からタクシーでその駅まで移動するのであれば、タクシーと鉄道会社が提携して、タクシーの運転手が車いす利用者を電車に乗るまで介助するというようなことができるかもしれません。もちろん、鉄道会社はそのことでタクシー会社にお金を支払う必要が生じますが、それで無人化が達成できるのであれば、それは必要な経費というふうに考えるべきだと思います。

このようなことは、車いす利用者にはわかりきったことですから、たぶん裁判が起こされる前には、原告側は会社側にこのような具体的な提案をしただろうと思います。しかし、会社側が、そのような提案に対して聞く耳を持たなかったために、このような裁判が起こされたのだろうと、わたしは想像します。会社側がそのような提案を、駅の無人化を進めるために必要な経費と考えることができなかったことが、裁判を必然的なものにしたのだとわたしは想像します。(間違っていたら、ごめなさい。)

どのケースにも通用するような具体的な「解決法」はない

ただ、ある駅に有効だった方法が、他のすべての無人駅に有効とは限りません。その意味では、一つ一つの駅について、またその駅の利用者のさまざまな事情に基づいて、駅ごとに違った対応を図る必要があります。

鉄道(社会的共通資本)の民営化自体が、根本的に間違っていると思いますが、唯一、良い点があるとすれば、旧国鉄などよりは、民営会社の方が個々のケースに柔軟な対応ができるということがあります。逆に言えば、行政組織の場合は、同じような問題には、すべての場合について一律の対応しかできない点が、福祉や社会保障、教育でのトラブルへの対応において、行政の抱える致命的な欠点になっています。ただ、そうは言っても、次第に今は、民間の企業もまた、行政組織と同じようにすべての出来事に対して、同じような対応をすることが当たり前になってきました。民間企業も違った条件、環境のものに対して、一律の対応をするようになり、結果として個々のトラブルを一層大きいものにしてしまっています。

さまざまなトラブルの解決のためには、それぞれに現場が、他とは違った環境や条件に応じて、個別の対策を立てる必要があります。にも関わらず、実際には「公平性の観点」から、どのケースにも、一律(公平、平等)の対応をしなければならない(そうした方がよい)という考え方が、今は、民間をも強く支配しています。なぜ、そうなってしまうのでしょうか。

「人権問題」を「解決」できなくなった日本社会

おそらくは、現在の日本社会は、20年ほど前に比べて、「抽象的な、観念的なものの見方、判断の仕方」が、圧倒的に強くなってきているからだとわたしは思います。違う言い方をすれば、「法律的に」ものごとを解決しようとする考え方が、支配的になっているのです。実は、これは問題の解決を一層、むずかしくしています

ものごとのあり方を考えてみれば、すべてのものごと(特に、個々のトラブル)は、一つ一つがすべて違います。ですから、それぞれに対して、ひとつずつ「よりよい」対応(解決策)を考えることはできても、すべてに共通する「一番良い、これこそが正しい」という対応を示すことは、実際にはできません。にも関わらず、裁判は、たて前としては、同じようなトラブルに対してすべてに通用する「判断(判例)」を示すことを求められます。これは、法律や司法判断というものが原理的に抱える矛盾です。一定の基準に則って判断しなければ不公平だ。しかし、現実には同じものがない状況に対して、一つの基準で判断することは、できるはずのないことことであり、結果的に、確実に大きな問題を引き起こします。

現在のわれわれは、「係争的(争うこと、特に裁判で白黒を明らかにしようと争うこと)」にしか、ものごとの善悪、正しいか間違っているかを判断できなくなってしまっているようです。しかし、実際にトラブルが起きた時、つまりAとBの意見や主張が対立した時、その「解決」方法としては、AとBのどちらが正しいのか決めるというやり方しか解決の方法がないとしたら、解決はきわめてむずかしいものになりそうです。

このことについては、ふたつのことが言えると思います。ひとつは、「どちらか片方が正しい、だからもう片方は間違いだ」と言えることは、実際には、まずないということです。ふたつめには、それだから、実際の解決は、「ある程度、Aの意見を取り入れ、ある程度、Bの意見を取り入れたものにならざるをえない」ということです。そして、その結果には、当然、AもBも満足することはないのです。

同様のことは、これまでお話ししてきた無人駅と車いす利用者の問題にも言えます。この裁判の結果がどのようなものになろうと、原告側と被告側と、どちらかにとって充分満足できるものになるということは、たぶんありません。可能性としては、どちらも判決の結果に相当の不満を抱えるということになります。

強者の論理がまかり通る社会

ある駅を無人化するかしないかについて、鉄道会社は圧倒的に「強い立場」にあります。鉄道会社に対して、車いす利用者を含めた、その駅の利用するすべての人は、圧倒的に「弱い立場」にあります。日本は資本主義社会なのだから、嫌なら別の移動手段を使えばいいというのが、鉄道会社やその主張を支持する人の基本的な考え方です。「嫌なら使うな」というわけです。これは一見、きわめてもっともらしく見える意見ですが、まったくの「嘘っぱち」、「インチキ」です。別の移動の手段を選べる余裕(具体的には、お金や手段等)が利用者側の全員にあるのであれば、そもそもこのような問題は起きないからです。このような状態において、なんとか無人化をやめてほしいと思っても、圧倒的に「強い立場」の鉄道会社に拒否されたら、利用者は裁判を起こすしかないのです。その意味で、裁判を起こすこと自体は必然的なことであり、そのような訴訟をわたしは応援したいと思います。しかし、一方で、裁判の結果を予想してみた時、どんな判決が出ても、おそらく問題そのものの解決にはならないし、生きづらさ自体を減らすことにも、あまりつながらない気がします。

今回の「結論」らしきもの

現在の日本において、人権の尊重のために裁判を起こすのはやむをえないことですし、必要なことです。しかし、そのような訴訟が、原告が望んでいるような結果を出すことはあまり期待できません
本当に起きている人権問題を解決する(なくすか、減らす)ためには、「強い立場」にあるものが、当事者の話をよく聞いて、個々のケースに対して、どうすれば相手の「生きづらさ」を減らせるかを考えていく必要があります


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