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「変わり者」という弾丸 -- 大学生たちの怨恨の鎖

 この論考は、SFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)を、その内部から社会学的に分析する試みである。しかしこの議論は、広く社会全体を射程に収めるだろう。なにか特別な能力や実績をもつ者たちは、彼らを「変わり者」として分類し廃棄する関係性のなかで圧殺される。彼らを縛り上げる怨恨の鎖を断ち切るためには、その怨恨から目を背けてはいけない。



スーパーゼミとスーパー大学生 -- まなざしの集まるところ

 SFCの特徴を語るうえで無視できないのは、その独特な入試制度である。新入生の半分は一般入試、3人に1人はAO入試、残りのほとんどを内部進学が占めており、他大学と比較するとAO入試の割合の高さが際立つ。

 定員の10倍を超える応募者のなかでAO入試を勝ち抜いてきた者たちは、それぞれに得意分野を持っている。ここでは起業経験は珍しくなく、そのほかにもNPO法人の運営者、環境問題の活動家、最先端のプログラミング技術者など、ありとあらゆる人材が集まる。だが、一般入試と内部進学者も負けていない。一般入試の筆記は1〜2科目と小論文だけで、勉強を本分としない志願者にもチャンスが開かれている。内部進学者でも、受験勉強を気にせずに一芸を磨いてきた者が多い。

 「SFCに入学してみると、自分は案外ふつうの人間だった」というのはよく聞く。華々しく活躍する学生たちがメディアに進出していく背景には、かつて特別だった人間たちの、安堵・挫折・尊敬・嫉妬が入り混じった呼吸がある。

 ところで、華々しい学生たちは少数のコミュニティに集中している。とくにSゼミやK研究会は有名で、これらのスーパーゼミを目当てにSFCへと入学する者も多い。しかし、スーパーゼミの選考倍率は少なくとも5倍を超えるため、大半の志願者は、自分がスーパー大学生ではなかったことを思い知らされるのだ。そして、かつて特別だった人間たちのまなざしを受け、スーパーゼミはどこか異様な雰囲気を帯びる。


「変わり者」という弾丸 -- 圧殺される人間たち

 SFCの学生の大半は、多かれ少なかれ「変わり者」として扱われた経験をもつだろう。SFCには「変わり者」を賞賛するような雰囲気がある。そもそも、AO入試を突破するためには「変わり者」として自己アピールする必要があるのだ。スーパーゼミの選考過程も同様である。

 しかし、「変わり者」とは〈ふつう〉を前提としたカテゴリーに他ならない。社会のマジョリティが〈ふつう〉として中心を陣取るからこそ、そこから弾き出されたマイノリティとしての「変わり者」が存在するのである。

 そのため、すべてのメンバーが「変わり者」という大規模社会は存在しない。たとえSFCの外部から見れば「変わり者」の集団だとしても、SFCの内部における相互のまなざしは、そのなかで新たな〈ふつう〉と「変わり者」を作り出す。SFC社会の〈ふつう〉はかつて特別だった者たちによって生み出され、スーパー大学生たちがマイノリティとして弾き出される。

 ところで、「変わり者」とは暴力的な表現である。それ以外にも、「超人」「ヤバい人」「癖が強い」「キャラが濃い」など、〈ふつう〉ではないものとして相手を一方的に分類する言葉はすべて暴力的である。これらの言葉は、たとえポジティブな意味で使われていたとしても、相手を「自分とは疎遠なもの」「理解できないもの」として廃棄する側面をもつ。それはすぐさま、相手を理解することを初めからあきらめるという、どこか突き放した態度へと転化する。

 その態度は、かつて特別だった者たちの自己防衛でもある。「変わり者」になれなかった人間は、自分とスーパー大学生たちは本質的に異なると自分に言い聞かせながら、〈ふつう〉の軍門に下る。外部社会が突き付けてくる要求に合わせて自己を成形しなおすことを通して、彼らは「社会人」になっていく。夢から覚めてリアリストになった〈ふつう〉の学生たちは、いまだ夢に生きるロマンチストたちを、羨望し嫉妬するとともに軽蔑するのだ。

 スーパー大学生たちに向けられる「変わり者」というまなざしは、かつて特別だった者たちが放つ呪詛に他ならない。それは表面的には、素直な賞賛として現れる。しかし本質的には、スーパー大学生たちを軽蔑し突き放す暴力であり、相互承認に基づく人間関係を破壊する弾丸である。外部社会に圧殺される〈ふつう〉の人間たちが、ロマンチストとして生きるスーパー大学生たちを圧殺する。これこそが、華々しいイメージの背景に潜む、SFCの社会構造である。


毒リンゴの悪夢 -- 承認と廃棄のジンテーゼ

 自分を扱う他者の態度は、他者を扱う自分の態度に反映される。すなわち、「変わり者」として扱われることに慣れたスーパー大学生たちは、相互に「変わり者」として認め合うようになる。その承認に媒介されて、「あなたのことは理解できない」という廃棄が、互いの関係性に持ち込まれる。スーパーゼミは、互いを「変わり者」として賞賛しあう関係性のなかで、互いを廃棄する孤独者たちの集合へと転化する。

 そして、他者を扱う態度は、自分自身を扱う態度にも持ち込まれる。「自分は変わり者だ」というアイデンティティ = 自己承認が確立するとともに、「自分のことは理解できない」という自己廃棄が作動して、彼らの内省を不可能にしていく。

 「変わり者」としての承認は、それ自体に対象の廃棄を含んでいる。さながら毒リンゴのように、その甘さに酔っているうちに、毒が少しずつ存在を侵食していく。その毒は、内省能力を剥奪する毒であるから、自身が侵食されていることにすら気づけなくなる。こうして毒リンゴに閉じ込められた人間たちは、孤独のなかで甘さに耽溺する酩酊者へと転化する。

 スーパー大学生たちを襲うのは、かつて特別だった者たちのまなざしだけではない。就職活動に象徴されるように、正規のルートから外れた人間たちに対して日本社会はあまりにも冷たい。〈ふつう〉の学生たちが企業説明会やインターンに精を出すなか、自身のプロジェクトを遂行するスーパー大学生たちは不安を募らせていく。しかし、不安を実感することはプロジェクトの遂行に支障をきたすので、彼らはそこから目を背けようとする。スーパー大学生たちは「変わり者」であり続けるために、自ら内省を放棄していく。

 SFCの内部からのまなざしは、「変わり者」たちの内省能力を剥奪していく。同時に、SFCの外部からのまなざしは、「変わり者」たちに内省を放棄するよう促す。自己廃棄の毒は、自己承認に擬態して人間を閉じ込める。こうして内省を失ったスーパー大学生たちは、まるで熱に浮かされたかのように、終わらない悪夢のように、自らのプロジェクトへと溺れていくのだ。


怨恨の鎖 -- 夢よりも深い覚醒へ

 スーパーゼミの熱狂のなかに、なにか言葉にはできない冷たさがあるという実感は正しい。その共同体は、孤独者たちが互いに分かり合おうとすることで成立しているのではなく、互いに孤独なままの「変わり者」たちが、襲い来る恐怖から目を背けるために走り続けることで成立しているからだ。

 彼ら彼女らを縛り上げているのは怨恨の鎖である。それは、SFCの学生になれなかった〈ふつう〉の人間たちの怨恨であり、かつて特別だった者たちの怨恨であり、毒リンゴのなかに耽溺する者たちの怨恨である。相手を廃棄するまなざしの重層的な交錯は、そのまなざしがもっとも集中するところで、人間たちを悪夢に閉じ込める。「変わり者」という自己承認 = 自己廃棄は、悪夢から抜け出すための内省を上滑りさせてしまう。

 「変わり者」の舞台から降りて、ごく一般的な「エリート」の一人として生きることはたやすい。能力と実績を持つ彼らなら、要領よく幸せになれるだろう。しかし、そうではないのだ。「変わり者」たちは、毒リンゴの悪夢に囚われながらも、世界の向こうにかすかな希望を捉える。社会の枠内で切り詰められた「幸せ」ではなく、自分自身の充溢する生命を解き放つことの〈幸せ〉を、彼ら彼女らは信じて実存する。

この呪縛の構造をのがれうるのは、この呪縛の構造そのものの総体の対自化の上に、そしてそのかなたに一つの自己の未来を、総体的なイメージとして定立することをとおしてのみである。一つの未来をもつことなしに人は自立することができない。そして一つの未来を共有することなしに、人と人とは連帯することができない。

真木悠介『人間解放の理論のために』

 悪夢から目を背けてはならない。悪夢を抜け出すためには、まず第一に、SFCに巣くう怨恨の鎖と、それに囚われている自分自身を認識する必要がある。次いで、自分自身や仲間たちとの対話を通して、自分を突き動かす希望の正体を見極めなければいけない。

 ここにあるのは、内省を再開させる戦略である。「変わり者」という自己廃棄を廃棄して、自分自身と誠実に向き合うことを通してのみ、自分の未来を剛健に思い浮かべることができ、そこへ向かって歩き出すことができる。そして、「変わり者」という他者廃棄を廃棄して、他者と誠実に向き合うことを通してのみ、我々は未来創造の共同体として連帯することができる。

 夢から醒めてリアリストになるのではなく、どこまでも夢と対話することによって、夢の深奥へと突き抜けること。そこに、目指す地点としての豊かな〈現実〉を見出すこと。そして、未来創造の共同体として、〈現実〉へと力強く歩み続けること。我々が生きるべき道は、夢見るのをやめることでも夢を見続けることでもなくて、夢よりも深く覚醒することである。

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